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「大学生」
講義が終えて教室を出ると、四時限目終わりの人の多さに疲れながら原付置場へと向かう。
キーシリンダーに鍵を挿し、キックスタートをすると今日もかかりが悪い。
右足にかったるさを感じた頃やっとマフラーが息を吹いた。
環七を走りアルバイト先の三軒茶屋の映画館に向かっていると、いつもより空がどんよりして見えた。映画館に着くといつもの様に主人のおじさんが受付でコーヒーを飲んでいる。
「こんにちは。おじさん。」
「ああ、こんにちは」
おじさんと昨日のプロ野球の結果について話していると、話に入って来る声がした。
「何の話してるの?」
吉田さんだ。吉田さんは、私より三つ上の女の人だ。映画監督を目指しているらしく、最近も短編物を撮り終えたらしい。
平日の名画座というものは、忙しさとはほとんど無縁だ。午後の外回りをサボり寝ている会社員と数人の客である。こんな形でなぜこの映画館が続いているのか、いささか疑問に思う事があるが、そんな様な事を聞いた時、おじさんは昔よりは入ってんじゃないのと他人事のように返してくれた。
七時を回った頃おじさんが、
「悪いんだけどさ、頼まれ事してもらってもいいかな?今日の八時から上映のレイトショーあるじゃない。あれさ、フィルムがまだ目黒の映画館にあるんだ。ちょっとさ君の原付で取ってきてもらえないかな?」
全く本当にこのおじさんは…。
「帰ってきたらコーヒーでも飲んでいいからさ。」
アルバイトは元々コーヒー飲み放題であろう。結局コーヒーに隣の肉屋のコロッケが付く事で交渉は成立した。元はと言えばおじさんが悪いのだ。本当は、目黒での上映は先週に終わっており、いつでも取りに行く時間はあった筈なのだ。なのに、おじさんはそれを面倒くさがった。延び延びにしていたのだ。そしてそれを忘れてしまった。対価がコロッケなら安いものだろう。
目黒の映画館の主人は女性だった。その女性は湯呑みにぬるめの緑茶を出してくれた。こういう所にその人の気遣いを知れるなと思った。見た目に三十前後、髪を束ね深緑のエプロンをかけた、涼しさを漂わすその女性はこの映画館の落ち着いた雰囲気を自然と作っていた。
「はいじゃあ、これフィルムね。あと、悪いわね。急いで取りに来させたみたいで。私の方から向かわせても良かったんだけど…。」
だけど、である。お客が大入りなのだ。ウチとの違いを考えてみたがそれには多分意味がないのだろう。ここの主人は恐らくお客を入れる為に何かをしているのではなく、お客と自分とアルバイトが過ごしやすいと思える場を作っているのだろうと私は思った。
「構わないですよ。こんなにお客さんも入ってるんですし。」
「全くねぇ。忙しいのはまぁ助かるんだけどね。それはそうと、あの人大変じゃない?今日も悪いわね。」
「ああ、おじさんですか。確かに…そうですね、まぁ…今日みたいな事も面倒っちゃ面倒なんですけど、何でか、あの人と一緒にいると楽しいんですよね。」
自分でも何故かは分からない所はあるが、私もあの映画館の場が好きなのだろう。そしてそれは、この映画館と同じ様にあのおじさんが作っている雰囲気なのだ。その雰囲気が意識的に作られたのか自然に作られたのかは分からないが、それを知ろうとする事は別段重要な事ではないのだろう。分かった時にはそうだと理解すればよいのだと思う。
「なら良かったわ。あの人の事よろしくね。あら、そろそろ時間なんじゃない?」
「あ!いけない、いけない。急がなきゃ。」
「外、ちょっと雨降りそうだから気を付けてね。なんだったらタクシーでも出すけど。」
「いやあ、かかっても二十分位ですし、大丈夫ですよ。それにウチにタクシー出す余裕ないっすよ。」
「なら気を付けてね。あとあの人に今度こんな事したら自分で取りに来ないと渡さないよとでも言っといてちょうだい。」
女主人はいたずらっぽくそう言うと、売店に並んだお客の対応へと移っていった。
「弱ったな…。」そう言って私は顔に降りしきる雨を拭おうとしたが、その手も雨にさらされているので大した効き目がない。だが、少しでも顔から雨を拭えるのは悪い気分ではない。幸いフィルムは、小雨が降り出した時にスクーターのメットケースに入れてあるので心配はないが、問題は私自身だろう。十月の冷え始めた空気を伝って降りしきる雨は、私の着衣を濡らし、その着衣を伝い私の体は寒さを強く感じていった。いつも通りの混み合いの山手通りの車の群れの間を縫うように抜けていく。頬を打つ雨が石粒の様に痛い。精一杯体を縮めて降りしきる雨から逃れうる様に走る。車の群れを抜けて映画館のある世田谷通りに入りスピードを上げる。頬を打つ雨、左右の手の感覚を無くす冷気、体を冷やす着衣が私を襲う。そうして映画館に着いた時、傘も差さずに大きなタオルを抱え走って来る二人の姿が見えた。