第2章 その男、窮地につき その③
「……なぜだ? なぜお前があんな写真を持っているんだ?」
その部屋に入るなり、開口一番、北村はそう切り出した。
照明が落とされた薄暗い室内にはもう一人、別の人間の姿があった。
同期社員の水野輝彦である。
ここは本社ビル二十階にある資料室のひとつ。時刻は夜の八時。
その資料室に、残業をしていた北村は「話がある」と水野に呼びだされたのだ。
一方の北村としても、とても仕事などしていられる心境ではなく、素直に応じたのである。
「そうだな。まあ、話してやってもいいかな」
もったいぶった水野の言い草に北村は内心で憤然となった。「お前に話がある」と呼びだしたのはどこのどいつじゃい!
「じつはな、北村。お前が専務の娘さんと二股かけていることを知った香織がある計画を考えて、俺に相談を持ちかけてきたんだ」
「相談?」
「そうだ。自分との関係を相澤専務に暴露して、お前と娘さんを破局させるという計画をな」
「な、何だってぇ!?」
水野の言葉に北村は仰天した。水野が薄笑いを浮かべる。
「おっと、誤解のないように言っておくが、別に香織はお前と別れたくないからそんなことを考えたわけじゃないぞ。別れるのはけっこうだが、二股をかけた報いを受けさせなきゃ気がすまない。そう香織は言っていたよ、ケケケ」
怪鳥じみた笑いもそこそこに、さらに水野が言う。
「香織の計画はこうだ。まずは、お前と自宅マンションに入っていくところを俺に写真を撮らせる。お前に渡した写真がそれだ。それを相澤専務に送り付ければ、専務はお前と香織に真偽を確かめるだろう。そのときに香織は、専務に洗いざらい暴露する気だったのさ」
「…………」
北村はもはや声もでなかった。まさか自分の知らぬところで、香織がそんな計画を密かに立案し、かつ実行していたとは……。
喪心したように立ち尽くす北村をよそに、水野の説明は続いた。
「写真を撮り、とりあえず俺は家に帰った。ところが、いつになっても香織と連絡がとれないし、会社にも来ていない。どうしたのかと思っていたところに、テレビのニュースで香織が殺されたことを知った。それも写真を撮ったあの夜にだ。さすがの俺も心臓が止まるくらい驚いたね」
言い終えると水野は、メフィストフェレスめいた笑みを浮かべ、
「どうだ、北村。これで写真のことはわかっただろう?」
「ああ、写真の件はわかった。次は僕を呼びだした本当の用件を教えてくれ。まさか、香織の計画を教えるためだけに呼んだわけじゃないだろう?」
「ふん、まあな」
と、水野は首肯した。
「聞いた話では、警察はうちの役員連中が怪しいと考えているらしい。香織に恋人らしき存在がいなかったことがその理由らしいが、しかしこの写真を見れば、香織にはれっきとした恋人がいたことがわかるよな?」
「まあ、そうだろうな」
「そこで、俺がこの写真を警察に提供する。当然、容疑はこの写真の男に向かい、嫌疑を晴らしてくれた俺に役員たちは感謝の念をいだき、今後、何かと目をかけてくれるというわけだ」
「よかったな。これでお前の将来は盤石のものになるわけだ」
「まあ、元から俺の将来は盤石だから、あまりありがたみはないけどな」
(はいはい。そりゃ、ようございましたね。ケッ!)
北村は胸の中で吐き捨てたが、声に出してはこう言った。
「だったら、こんなところで油を売っていないで、早く警察に写真を届けて、役員たちを安心させたらどうだ?」
困惑と狼狽が入り混じった態で水野が応じたのは、それから三十秒も後のことだった。
「お、おい、北村。お前、自分が何を言っているのかわかっているのか? この写真を警察に渡すということは、お前が殺人犯として逮捕されるということなんだぞ。いくら冴えない窓際のボンクラ社員だからって、それくらいの事言われなくても気づけよな、まったく……」
(この野郎、扼殺してやろうか……!)
こみあがってくる水野への殺意を北村は必死に抑えた。
「それくらい僕だってわかっているよ。いくら偶発的なことだったとはいえ自分の恋人を殺したんだ。弁明する気はない。天命尽きたと思って観念するさ」
それに対する水野の反応は「無」だった。
少しも狼狽する様子を見せない北村を、水野は茫然とした態で見つめていたが、やがて軽く咳払いすると、
「ま、まあ、そう慌てるなよ、北村。そんなに結論を急ぐこともないだろう」
という声は、心なしかうわずっていた。
「俺たちは縁あって同期で入社し、今日まで同じ釜のメシを食ってきた友人同士じゃないか。まあ、一流国立大卒と私立大卒。花形部署と窓際部署。エリート社員とペケ社員という決定的な違いというものはたしかにあるけどな」
もはや沸騰寸前の殺意をどうにか抑えている北村をよそに、水野の舌はさらに回転を続けた。
「とはいえ、凶悪な殺人犯を知っているのに警察に知らせないなんて、善良な市民としての義務を放棄することになる。かといって、いくら憎むべき極悪人とはいえ、友人を警察に突き出すようなことも俺にはできない。市民としての義務か、それとも同期の友情か。ああっ、俺はどうすればいいんだぁぁ!」
お前はハムレットか!? 北村は胸の中で怒鳴った。
「と、とにかく、お前は何が言いたいんだ?」
「おっと、ここからが本題なんだ」
室内には他に誰もいないのに、水野は声を低くして語を継いだ。
「つまりだな。この件に関して最善なのは、俺にとってもお前にとってもハッピーエンドで丸く収まることだ。わかるだろう、俺の言いたいことが?」
北村にはさっぱりわからなかった。
「俺はこの写真を誰にも渡さない。お前のことも誰にも言わない。一生、胸の中にしまいこんで墓の中にもっていく。そのかわり、俺の頼みごとを聞いてくれればいい……」
すると水野は、またしてもメフィストフェレスめいた笑みを浮かべ、
「どうだ、ここまで言えば、俺の言いたいことがわかるだろう?」
しばしの沈黙後、北村は息を吐きだした。
「つまり、こういうことか? 見逃してほしければ俺の命令を聞け。さもないと、警察に写真を渡すという……」
それに応じたのは「心外」を絵に描いた表情だった。
「おいおい、北村。命令なんて人聞きの悪いことを言うなよ。あくまでも頼みだよ、た・の・み!」
(何が頼みだ、この野郎! 結局は同じことじゃないか!)
水野の言い草に内心に怒気をみなぎらせる北村であったが、だからといって、それを即座に突っぱねることができないのが今の北村なのである。
とにかく、まずはその「頼み」とやらを聞いてみなければ……。
「それで、お前はいったい僕に何をさせたいんだ?」
「なあに、簡単なことさ」
水野は笑った。「悪辣」という表現がふさわしい笑いだった。
「デートのときにでもだな、専務の娘さんに襲いかかれ」
「は?」
一瞬、北村はキョトンとした。水野が発した言葉の意味を、とっさに理解できなかったのだ。
「い、今、何て言ったんだ?」
「だから、専務の娘さんに襲いかかれと言ったんだ。デート中にな。たしか恵美さんだっけ?」
「な、何だってぇ!?」
「あっ、そうだな。できれば服なんかもビリビリにひき裂いたほうが、リアル感が増していいな。いかにもケダモノって感じ……」
水野は最後まで言い終えることができなかった。「この野郎!」と激高した北村が、床を蹴って水野に飛びかかったのである。
「な、何をするんだよ!」
「何をするもクソもあるか、このろくでなしめ! 人の弱みにつけこんで、何てこと言いやがるんだ!」
押し倒して馬乗りになると、北村は水野の首に手をかけた。
その悪鬼のような形相と迫力に、北村が本気であると察したらしい。声まで蒼白にして水野が叫んだ。
「バ、バカ、早とちりするな。ご、誤解だって!」
「やかましい、このケダモノ野朗! 恵美にそんな真似をするくらいなら、お前を殺して口封じしたほうが百倍マシだ!」
まさに悪鬼羅刹の態。底知れない怒りに両目を血走らせつつ、北村はありったけの力をこめて水野の首を締めあげた。
一方、苦しさに両目を白黒させる水野は、さながら扼殺寸前のニワトリのような声をはりあげ、
「だ、誰も本気でやれなんて言ってないだろう! し、芝居だって! 一芝居打つだけだってぇ!」
水野の意味不明な叫びに、おもわず北村はその首から両手を離した。
「ゲホッ、ゲホッ……バ、バカ野朗が、最後まで話を聞けよな!」
苦悶の態で咳きこみながら水野は立ちあがった。
「何だと言うんだ!」
「誰が本気で襲いかかれって言ったよ。芝居だよ、芝居。彼女を怖がらせるだけでいいんだ」
水野が何を言っているのか、北村にはさっぱりわからなかった。
「よくわからないな。どうして僕がそんな芝居をしなければならないんだ?」
「ふん、決まっているだろう。恵美を俺の女にするためさ」
「な、なに、どういうことだ、それは!?」
驚く北村に、ネクタイを締め直しながら水野が言う。
「つまりだな、お前は恵美をドライブにでも誘い、人気のない場所に連れこんで彼女に乱暴する。むろん、あくまで芝居だが、何も知らない恵美はお前の突然の暴挙に恐怖する。そうだな?」
「あたりまえだろう、そんなことをすれば。それで?」
「彼女はきっと悲鳴をあげて助けを呼ぶだろう。そこへ、あらかじめ待機していた俺があらわれ、お前をぶちのめし――あっ、これも芝居だからな。とにかく、お前から彼女を助ける。すると、彼女はケダモノの本性をみせたお前に愛想をつかす一方、窮地を救った俺に感謝し、必然的にそれは愛情へと昇華するだろう……」
「…………」
「どうだ、北村。ここまで言えば俺の考えていることがわかるだろう?」
呆気の態の北村であったが、それでも水野の意図することは理解できた。
ようするに自分を悪役にして恵美と別れさせ、その後釜にちゃっかりと自分が座ろうとしているのだ。
むろん、なぜ水野がそんな三文芝居を企画立案してまで恵美を自分の恋人にしたいのか、北村には容易に推察できる。恵美の恋人になることで次の社長が確実視されている父親にとりいり、自分の将来を磐石のものにする魂胆なのだろう。
かくいう自分にもそういった一面があるので、北村には水野が考えていることが手にとるようにわかるのだ。
しばしの沈黙後、北村はゆっくりと声を吐き出した。
「だけど、そんなことをしたら僕は会社にいられなくなるじゃないか。恵美だって黙っているわけないし、当然、専務の耳にも入るだろうしさ」
バカ言ってんじゃないよ。そう北村は暗に言ったのだが、返ってきたのは氷点下級の冷やかな声だった。
「おいおい。お前がそんなことを言える立場か? お前は自分が香織を殺した殺人犯ということを忘れているのか?」
「…………」
「俺があの写真を警察に渡せば、お前は会社どころか社会からも追放されて、みじめな刑務所暮らしを余儀なくされるんだぜ。それを会社からの追放だけで勘弁してやると言っているんだ。感謝してもバチはあたらないと思うけどな」
(勝負あったか……)
その瞬間、北村は自分の敗北を悟った。
決定的な証拠を握られている以上、刑務所送りを逃れるためには、もはや水野の言いなりになるしか道はないのだ。
仕方がない、警察に捕まるよりはマシだと自分に言い聞かせて、北村はうなずいた。
「わかったよ、水野。お前の言うとおりにするよ」
「おおっ、わかってくれたか、心の友よ!」
水野は破顔し、北村の肩に手をおいた。
「その写真は前金代わりにやるよ。あと残りの写真や画像を保存しているSDカードも、計画がうまくいったら全部お前に渡してやるから心配するな」
無言でうなずく北村。しかしその顔からは、完全に捨てさることのできない未練のようなものが感じられた。
「よし、話はまとまったな。じゃあ、そろそろ仕事に戻るとするか」
「ああ、そうだな」
二人は静かに資料室から出ていった。