第2章 その男、窮地につき その②
緊迫した空気が、その部屋にはりつめていた。
「では、もう一度、今度の事件についての概要を説明します」
複数枚の写真や地図などが張られたホワイトボードの前に立ち、田中刑事が手帳をめくりながら声を発した。
ここは【大手ゼネコン女性秘書殺人事件】の捜査本部が設けられた管轄署内の会議室である。
そこでは現在三十人以上の捜査員が集い、事件についての会議がおこなわれている最中だった。
「被害者は、大手ゼネコン【大東洋建設】に勤務する梅本香織さん。年齢は二十七歳。実家はS県にありますが、都内で一人暮らしをしていました。遺体が発見されたのは○月×日の午前十時。場所は自宅マンションのリビングルーム。第一発見者は、連絡がとれないことを不審に思って上京してきた母親です。検死の結果、死因は頚部圧迫による窒息死と判明……」
田中刑事の説明を聞く捜査員たちの顔は、皆真剣で厳しい。
むろん警察が事件の捜査に真剣にあたるのは当然のことなのだが、捜査員たちの表情が厳しいのには別の理由もある。捜査が難航しているのだ。
犯行推定時間が深夜のせいか、マンション内での犯人の特定につながる目撃情報は現在のところ皆無。
さらに事件現場となったマンション内には防犯カメラは設置されておらず、また周辺一帯も閑静な住宅街という土地柄もあってか防犯カメラの類はほとんどなく、マンションから300メートルほど離れたコンビニの防犯カメラにも、事件当日とその前後日の映像に被害者が映っているものはなかった。
くわえて犯行現場のマンションからは、犯人のものはおろか被害者の指紋ひとつ、髪の毛一本すら発見されなかった。
むろん犯人による証拠隠滅であることは自明なのだが、その徹底された隠滅作業ぶりには、駆けつけた鑑識官たちに、
「こりゃあ、犬や猫が舐めた皿よりもきれいだな」
などと感嘆させたほどだ。
おかげで手がかりとなる証拠を何一つ得られず、捜査員たちの焦りは募る一方だったのだが、ようやく今日、捜査本部にもたらされたある情報がそんな状況を一変させた。
田中刑事の説明が終わると、今度は田所警部がホワイトボードの前に立った。
「諸君らの粘り強い捜査のおかげで、被害者がよく出入りしていたという質屋を見つけることができた。本間、説明したまえ」
田所警部の指名をうけて本間刑事が立ちあがった。
「では説明します。昨今、若い女性の間で手軽に現金を得る手段として、質屋が利用されていることをご承知の方もいるかと思います。知人や恋人などからもらったバッグや時計をそこで現金に換えるわけです」
手帳をめくり、本間刑事がさらに語を継いだ。
「被害者のマンションからも多くの高級ブランド品が発見されたこともあり、もしやと思い調べた結果、彼女も質屋を利用していたことがわかりました。質屋の従業員の証言では『バカなオヤジたちがくれるのよ』と、来店のたびに口にしていたそうです」
本間刑事の語尾に重なるように、にわかに会議室内がざわめいた。
それを抑えるかのように田所警部が声を発した。
「おそらく、事件に至った経緯はこのようなものであろう……」
たちまち会議室が静まり、田所警部は語をつないだ。
「被害者は自分に言いよってくる男にブランド品を貢がせるなど、手玉にとっていた。しかし、その中の誰かが自分が弄ばれていることに気づき、あの夜、彼女を難詰するためにマンションに行った。そこで被害者と口論になり逆上。首を絞めて殺害した……」
賛同と得心のうなずきが、捜査員たちの間に連鎖した。
「ここで問題となるのは、言うまでもなくその相手だ。質屋を利用した回数やマンション内に残された品数からも、手玉にとっていた男は相当数にのぼるものと考えられる。そこで諸君らには、これから渡す資料を見てもらいたい」
捜査員たちに配布された資料には、大東洋建設建設の役員や取引先企業の幹部の名前などが記されてあった。その数、およそ五十人。
「被害者の通話記録やメールの記録などを調べた結果、以上の疑わしい人間が浮上してきた。むろん、まだ解析の途中でこれが全てではないが、まずはこのリストに載っている男たちの当日の動きを調べてもらいたい。なお相手が相手だけに、慎重に行動してくれ」
田所警部が言い終えると同時に捜査員たちは声をあげて立ち上がり、ぞろぞろと会議室から出て行った。
†
夕方六時をすぎた大東洋建設本社の一階ロビーは、帰宅の途につく社員たちであふれかえっていた。
むろん、すべての社員が帰宅するわけではなく、中には残業などの理由で会社に残っている者もいる。その一人がこの男だ。
「さてと、今日は残業だな」
背筋を伸ばしながら北村はトイレに入っていった。
あの事件以降、日々罪悪感にさいなまれ、労働意欲が低下の一途をたどっていたのだが、昼に専務の相澤に高級うなぎ料理をご馳走になった効果か、今日は仕事に対する意欲が回復したのだ。
この調子で、たまっていた仕事をどんどん片づけよう。
なにしろ週末には恵美の家、つまり相澤専務宅を訪問することになっているのだから……。
鼻唄まじりにズボンのファスナーをおろす北村。すると、その北村の隣に誰かがやってきた。
「……水野?」
「よお。元気にしていたか、北村」
それは北村の同期社員の水野輝彦だった。
エリート――。
役所であれ企業であれ、どんな組織にもこういう表現が嫌味なくらいに似合う人間がいるものだ。北村の知る範囲では、この水野がまさにそうだった。
某一流国立大学を卒業し、大東洋建設に入社。と同時に、会社では出世コースとされている「第一営業部」に配属。その後は出世と昇進の階段を駆けあがっていった。
二十五歳で主任。二十六歳で係長。そして二十七歳の現在、第一営業部の課長補佐を務めている。これほどのスピードで昇進を続ける社員は過去に例がなく、
「おそらく社長就任の記録も破るだろうな」
と、社員たちの間でも評判になっているほどだ。
その水野が北村に話しかけてきた。
「この時間に会社に残っているということは、お前も残業か?」
「まあな。週末に大事な用事もあるし、それまでに残っている仕事を片づけたいと思ってな」
「そうか。じつは俺もそうなんだ。奇遇だな」
そう言って水野はファスナーをおろし、「ところで、北村」
「うん、なんだ?」
「聞いたぜ。お前、相澤専務の娘さんと付き合っているんだって?」
「えっ?」
水野の意外な一語に、一瞬北村は返答に窮するも、「ああ、まあね」
「お前もやるじゃないか。相澤専務といえば次期社長就任が確実視されている人だ。お前の将来も、これで少しは開けてきたんじゃないか?」
「そ、そうかな? ハハハ……」
どこか複雑そうに笑う北村だった。
「あっ、そうだ。お前にいいものをやるよ」
先に用を足し終えた水野が、突然北村の上着ポケットに手を突っ込んだ。
「ここに入れておくから、後でゆっくり見てくれよ」
「お、おい、水野。何を入れたんだよ?」
手を洗わんかい、手を! 北村は胸の中で怒鳴った。
「だからいいものだよ。じゃあ、残業がんばれよ」
肩越しに手を振りながら、水野はトイレから出ていった。
「なんだ、あいつ……?」
用足しを終えた北村は、すぐに水野がポケットに入れたものを取り出したのだが、それを目にした瞬間、あやうく北村は卒倒するところだった。
「……な、何でこんなものをあいつが!?」
絶句し、呆然と立ちすくむ北村。小刻みに震えるその手には、一枚の写真が握られていた。
その写真には自分の姿が写っていた。
香織と腕を組みながらマンションに入っていく自分の姿が……。