第2章 その男、窮地につき その①
この日、大東洋建設役員秘書室長の羽田利通は、朝からはなはだ不機嫌であった。その理由は二つある。
ひとつは、治療中の虫歯がズキズキと痛みだしたから。
もうひとつは、アポイントもとらずに秘書室にどかどかと押しかけてきた、招かれざる客たちがいたからである。
「いい加減にしてもらえませんかね、警部さん。警察の人間が頻繁に社内に出入りしていることが外部に知れたら、わが社の評判はそれこそ……」
「ええ、わかっていますよ、室長さん。その辺のことは私どももちゃんと考えていますよ」
どこか興がった語調で羽田の口を封じたのは、部屋にやってきた男たちの中でもっとも年配風の男だった。
その男がさらに言う。
「その証拠に、こちらには制服の警官は一人も近づけてはいませんし、マスコミにも、社名は一切伏せているじゃありませんか」
「……まあ、それはたしかにそうですが」
男の言葉が正しいことを、渋々ながらも羽田は認めざるをえなかった。
「まあ、立ち話もなんですからお掛けになったらどうですか、室長さん? あっ、それと私はコーヒーが苦手ですので、できれば日本茶をお願いします」
これではどちらが部屋の主人かわからない。
まったく厚かましい、とでも言いたげに口をモゴモゴさせながら羽田は革張りのソファーに座り、それを見て男のほうもゆっくりと腰をおろした。
男の名を田所真一といった。警視庁捜査一課の警部である。
がっしりとした体格。おだやかな丸顔だが目つきは鋭く、歴戦の捜査員であることが風貌から見て取れる。
その田所警部の背後に立つ二人の若い男たちは、田中刑事と本間刑事。田所警部の部下である。
女性秘書が運んできた希望通りの日本茶を一飲みした後、田所警部はさっそく用件を切り出した。
茶碗をテーブルに置き「詳しい理由は、捜査上言えませんが」と前おきした上で、この事件の犯人が被害者の知人で、それも社会的地位の高い人間である可能性がでてきたことを羽田室長に伝えたのである。
とりわけ羽田室長が驚いたのは、その疑われている「社会的地位の高い人間」には、大東洋建設の役員も含まれていると田所警部が口にしたときだ。
「すると警部さんは、梅本君を殺した犯人がわが社の、しかも役員クラスの人間であるかもしれないと、そうおっしゃるのですか?」
「それ以外のことに聞こえたのでしたら、私の言い方が悪かったのでしょうな」
羽田室長の心情を知ってか知らずか、田所警部の口調はそっけない。
「バカな! ……いや、これは失礼。しかしですね、警部さん。そんなことはありえませんよ。名門ゼネコンたるわが社の役員が人を殺すなど、断じてありえないことです」
「ほう、断言されましたな、室長さん」
そう応じた田所警部はにやりと笑い、
「たしかに、こちらの会社が名門であることは事実でしょう。ですがね、室長さん。名門企業の役員だからといって、罪を犯さないという保証はないでしょう。ちがいますか?」
どこか皮肉っぽい響きを含んだ田所警部の一語に、羽田室長は不快の色をたちまち顔中にみなぎらせたが、その論法には屈服せざるを得なかった。しかし、言われっぱなしではどうにもおさまらない。
「それはそうでしょうね。なにしろ犯罪を取り締まる側の警察ですら、あれこれ不祥事が絶えないのですからね」
思わぬ反撃を受けて、田所警部は苦笑を漏らした。
「傾聴に値するご意見ですが、現場の捜査員であるわれわれの仕事は警察組織の綱紀粛正ではなく、梅本さんを殺害した犯人を捕まえることにあります。そのためには、会社サイドの協力が必要なのですよ」
「しかし……」
羽田室長は表情は渋くさせ、同様の声音で語を継いだ。
「私は一介の秘書室長にすぎませんからね。協力しろといわれても、まずは役員の意見を聞きませんとなんとも……」
「ああ、それならご心配なく。すでにこちらの専務さんのほうから了解はとってあります。室長さんには進んで捜査に協力するように、とね」
「なんと、相澤専務が?」
羽田室長にとって、それは寝耳に水の話であった。しかし、田所警部が嘘をついているようにも見えない。
おそらく自分の知らぬところで、会社上層部と警視庁が密かに話しあいをもったのだろう。
「それで、私は何をすればいいのですか?」
「まずは殺害された梅本さんが、今まで秘書としてついた役員の方を教えていただきますか。できれば写真つきで」
田所警部の要求をうけて、羽田室長は女性秘書に命じた。
その女性秘書が数冊のファイルを小脇に抱えて部屋に戻ってきたのは、それから十分後のことである。
「こちらが役員のファイルです。ご希望どおり顔写真つきです」
「拝見させていただきます」
田所警部はファイルを手にとり、ペラペラとめくりながらしばしファイルに見入っていたが、
「お手数ですが、これのコピーを頼めますかね。むろん、外部にはけっして漏らしませんのでご心配なく」
当然だ、と言わんばかりの表情で羽田室長はうなずき、女性秘書に命じた。
それから五分後。コピーを受け取った田所警部はソファーから立ちあがった。
「お忙しいところありがとうございました。捜査への協力、感謝します」
「あの……何かおわかりになりましたか?」
そう聞いてきた羽田室長に田所警部は軽く首を振り、
「さて、今の段階では何とも言えません。これからの捜査しだいですね……あっ、そうそう」
ふいに田所警部は話題を転じた。
「さすがに東京でのオリンピックを控えていることもあって、建設業界は空前の好景気という話を耳にしましたが、こちらの会社も御多分漏れずに景気がよろしそうですね」
「はあ……まあ、おかげさまで悪くはありませんが、それが何か?」
真意を量り損ねて訊き返す羽田に、田所警部は意味ありげな微笑を向けた。
「いえね、殺害された梅本さんのマンションで何が見つかったと思います? なんと洋服やバッグなどの高級ブランド品の山ですよ。鑑定の結果すべて本物で、総額で四〇〇万円にもなるそうです。二十代とまだ若いのに、さすが大手ゼネコンの秘書さんともなりますと、われわれとは使えるお金の額がちがいますなと、捜査員一同感心していましたよ」
軽く頭を下げて、田所警部たちは部屋を出て行った。
†
そのことに一番に気づいた女性社員が、低い声を上げて周囲の関心を誘った。
「ちょっと、また警察が来ているわよ。ほら、あれそうでしょう?」
その声にすぐに数人の女性社員が反応した。
たちまち椅子を動かして発声者の女性社員のもとに集うと、一斉に通路のほうを見やった。
「本当だわ。まちがいなく警察よ、あれ」
「また事情聴取かしら。今日は誰かしらね……」
そんな女性社員たちのささやき声を聞きとがめた北村は、操作していたパソコンの手を止めて恐る恐る通路のほうに視線を転じた。
すると一人の中年の男と若い男が二人、ガラス窓越しに外の廊下をゆっくりと歩いていく姿が見えた。
彼女たちの言うとおり、この三人が警察であることは北村にもわかった。
底知れない不安と焦燥に息を呑む北村をよそに、再び女性社員たちがささやきあう。
「ねえ、警察がこんなにも頻繁に会社に来ているってことは、あの噂、やっぱり本当なんじゃないの?」
「あっ、それなら知っている。例の女性秘書を殺した犯人が、うちの役員の中にいるんじゃないかって話でしょう?」
「そうそう。それにね、これって秘書課にいる知りあいの子から聞いた話なんだけどね。彼女、やっぱり誰かの愛人だったらしいんだって」
「じゃあ、今度の事件は、別れ話か何かが原因で?」
「当然じゃない。いわゆる情痴のもつれによる犯行というやつよ。ありがちな話だわ」
そんな女性社員たちの会話を、北村は仕事をしているフリをしながら聞き耳を立てていたのだが、
「北村さん!」
と、突然名前を呼ばれて、椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。
もっとも、それ以上に驚いたのは北村を呼んだ女性社員のほうだったが。
「どうかしたの、北村さん?」
「い、いや別に……それで、何か用かい?」
「内線3番に電話よ。相澤専務から」
そう告げるなり意味ありげな笑みを浮かべる女性社員には目もくれず、北村は慌ててデスクの受話器を取り上げた。
「あっ、専務ですか? はい、北村です!」
見えざる相手に北村がペコペコと頭をさげていると、そんな北村の様子に気づいた件の女性社員たちが話題を転じた。
「ねえ、また専務さんから食事のお誘いかしら? ここ最近、多いわよね」
「当然じゃない。可愛い娘さんの恋人ですもの、北村さんは。目にかけたくなるのは親心ってもんでしょう」
「これも秘書課の知りあいの子から聞いた話なんだけどね。相澤専務、自分が社長になったときは、北村さんを役員秘書室に転属させる考えらしいわよ」
たちまち軽いどよめきが場に生じた。
「ちょっと、それ本当?」
「すごいじゃない。役員秘書室といったら超出世部署よ」
「ゆくゆくは室長にする気なんじゃないかって、その子は言っていたけどね」
「へえ~、あの北村さんがね……」
女性社員たちの声には、驚嘆の成分が多分に含まれていた。
なにしろ総務部の北村俊彦といえば、同部署を代表する「終身平社員候補」として出世や昇進とは無縁だった人物。
そんな社員がいまや、次期社長候補と目される実力者専務の令嬢の恋人にして、未来の役員秘書室室長候補である。
あいかわらずペコペコと頭をさげながら電話を続けている北村を見やり、女性社員たちは羨望と驚きのため息を漏らすのだった。