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その男、幸運につき  作者: RYO太郎
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第1章 その男、犯人につき その③



 三十秒ほどの沈黙の後に、北村は恐る恐る質した。


「か、香織、それってどういう……?」


「だから、私から専務の娘に伝えてあげるって言っているのよ。だって、あんたの口からじゃ言いにくいでしょう。『今まで二股かけていたけど、これからは君だけだからね』なんてね。ちがう?」


「…………」


 それに対する北村の反応は、またしても「無」だった。香織の発した言葉の意味を、とっさに理解できなかったのだ。


 ややあって脳細胞がその意味を完全に理解したとき、北村は驚愕に声をわななかせた。


「な、何だってぇ!?」


「あら、なに目玉を剥いているの? こういうことは隠さずにはっきりさせておいたほうが、後日の憂いがなくなっていいものなのよ」


 そう言って香織は笑った。計算ずくの笑いというべきか。


 周章狼狽の態の北村を、ビールを飲みながら皮肉っぽく眺めている。


 その視線の先で北村は、香織がそれを実行した際、自分が直面するであろう「近未来」を想像していた。


 家族思いで知られる専務のこと。愛娘が二股をかけられていたことを知れば、当然激怒するに決まっている。


 恵美と別れさせられるのは当然として、愛娘を弄んだ不届きな平社員を本社から僻地の寂びれた営業所に飛ばすことくらい、実力者の専務には造作もないことだ……。


〈じょ、冗談じゃない!〉


 脳裏に浮かんだ夢も希望もない「未来予想図」に、北村は胸の中で悲鳴をあげた。


 ここは、なんとしても香織の暴走を止めなくては!


「香織! ここは冷静に話をしようじゃ……あれ?」


 われに返った北村は、座っていたはずのソファーに香織の姿がないことに驚き、慌てて室内を見回した。


 その香織はというと、室内の離れた一角でなにやらスマートフォンを操作していた。


「な、何をしているんだ?」


 せせら笑いがそれに応じた。


「決まっているでしょう。さっそくその専務の娘に私たちのことを教えてやるんじゃないの。善は急げって言うしね」


「な、何だってぇ!?」


 目玉を剥いて仰天する北村をよそに、香織はスマートフォンの操作を続けた。


「あ、これね、専務宅の電話番号は。ええと……」


「や、やめろ、香織!」


 跳びあがるように立ちあがると北村は香織のもとに駆けより、携帯電話をもつその手を力いっぱいつかんだ。


「頼むからそれだけはやめてくれ、香織!」


「痛い!」


 と、悲鳴をあげたのも一瞬、「な、何するのよ、このろくでなし!」


 激高があがり、直後、香織の強烈な平手打ちが北村の横っ面に炸裂した。


 その凄絶な一撃に、吹っ飛び、転がり、床の上でのたうちまわる北村。叩かれた頬を押さえたまま立ちあがることができない。


 そんな北村を睨みつけながら、香織が冷然と吐き捨てた。


「ふん、生意気に二股かけておいてタダで済むと思ってんの、この甲斐性なしのヒラリーマンが!」


「…………!!」


 その瞬間、北村の中で「何か」が音もなく爆ぜた。


 怒り、屈辱、憎悪、そして絶望感――。


 それら「負の感情」が渾然一体となって、北村の中にある決定的な人としての「何か」を切ってしまったのだ。


 やがて北村は立ちあがり、ゆっくりと香織に近づいていった。


「な、何よ? 何か文句でも……」


 香織は最後まで言い終えることができなかった。「チクショーッ!」と、短い叫び声を発した北村が床を蹴って香織に飛びかかり、馬乗りになってその首に手をかけたのだ。


 声も出せずに苦しみもがく香織の首を、北村は無表情で絞めつづけた……。


     

         †



 ……その後のことは、北村自身よく憶えていなかった。


 自己を回復したとき、目の前に横たわる香織の姿に、北村は自分が香織を殺したということを知った。同時に、不思議なほど自分が落ち着き払っていることにも……。


 事実、香織の殺害を認識した直後、北村の頭に真っ先に浮かんだのは後悔の念でも懺悔の思いでもなく、これから自分はどうすべきかという「事後処理」についてだった。


 警察に自首する気はまったくなかった。


 自首などすれば恵美との関係はむろん、自分のこれからの人生も台無しになってしまう。それは警察に逮捕されても同様の話だ。


(NOだ、NO! 自首も逮捕もNOだ! NOと言える日本人、それは今の僕だ!)


 胸の中で絶叫しつつ、「警察に捕まらずに済む妙案はないものか?」と自問していた北村がやがてだした答えは、


「そうだ、完全犯罪を成立させればいいんだ!」


 と、いうものだった。


 しかし冷静に考えてみると、それが口で言うほど容易ではないことに北村は気づいた。


 昨今、検挙率の低下が問題視されているとはいえ、相手は犯罪捜査のプロ。「素人」犯罪者の自分にどのくらい勝算があるのかと考えれば、答えはかぎりなくゼロだ。


「チクショーッ! どうすればいいんだよ、僕は!」


 絶望というナイフに胸をえぐられ、北村はソファーに倒れこんだ。


 テーブルの下に置かれたワニ革のバッグが目に映ったのは直後のことである。


 それは香織が、某取引先企業の幹部から貰いうけた「戦利品」のひとつだった。


「エル○スのバーキンか。こいつも高いんだろうな」


 北村はしばしの間、そのバッグをなにげなく見つめていたのだが、何を思ったのか突然、飛びあがるようにソファーから起きあがった。


 天啓めいた光がその顔にあった。


「……も、もしかしたら、可能かもしれない!」


 そう口走るやいなや、北村はリビングを飛び出してキッチンに向かった。


 そこで数枚の濡れタオルをつくると、ドアノブ、テーブル、ソファー、テレビ、DVDプレーヤーにそれらのリモコン類。さらには各照明のスイッチなど、とにかく自分の指紋がついていそうな物や場所を、かたっぱしから拭いてまわったのだ。


 一時間ほどかけてそれを終わらせると、今度は掃除機をとりだしてきた。カーペットやソファーの上、ベッドの中やテーブルの下など、自分の毛髪が落ちていそうな場所を北村は丹念に吸いとってまわり、さらには「コロコロ」という商品名で知られる粘着系の掃除グッズで、極小のゴミを丁寧に取って回る念の入れようである。


 この時点で、すでに北村の体力は限界に達していた。


 手足はしびれ、腰や背中には痛みが走る。目眩はするし、吐き気もする。だが悠長に休憩をとっている時間など、今の北村には一秒たりともなかった。


 すでに香織殺害から三時間が過ぎている。時刻は現在深夜の二時。


 今日は土曜日で会社は休みだが、いつ誰がこのマンションに香織を訪ねてくるかわからないし、他の住人が起きてくる前に、人知れずここから出ていかなくてはならない。そのため北村は、気力体力を総動員して作業を続けたのだ。


 その北村がすべての作業を終わらせたのは、午前三時過ぎのことだった。


 わずかな休憩後、歯ブラシや下着などの私物を詰めこんだスポーツバッグを抱えて立ちあがると、北村はリビングの一角に視線を走らせた。


 そこには、例のブランド物のバッグがあった。


 これ以外にも寝室のクローゼットの中などに、時計や洋服といったブランド品がまだ残っているが、これらのブランド品こそが、来たるべき警察の捜査から自分を守ってくれるはずだと北村は信じていた。


 自分の思惑どおりに事が進めば、かならず完全犯罪になるはずなのだ、と。

 

 やがてすべての照明を消して、北村はマンションから出ていった。リビングに横たわる「前」恋人を残して……。



         †



 事件が発覚したのは、それから五日後のことだった。

 

 ここ数日来、連絡がとれないことを不審に思った母親が上京し、管理人とともにマンションに入り、そこで変わり果てた姿の娘を発見したのである。


 たちまち警察が駆けつけ、マンション一帯は騒然となった。


 その日のうちに管轄の警察署に捜査本部が設置されると本格的な捜査が始まり、勤務先である大東洋建設にも捜査員が派遣され、複数の人間が事情聴取をうけた。

 

 その矛先は北村がいる総務部にも向けられ、捜査員らしき男たちがオフィスにあらわれたときはさすがに平静ではいられなかったが、自分に捜査がおよぶ気配は感じられなかったので、とりあえず北村は安心することにした。


 そして「警察は役員を疑っているらしい」という社員たちの噂話を耳にして、北村は自分の思惑どおりに事が進んでいることを知った……。





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