第1章 その男、犯人につき その②
その日の夜。北村はある決意とともにその場所を訪れていた。
同じ大東洋建設に勤務する「もう一人」の恋人、梅本香織のマンションにである。
代官山でのデートを終え、その帰りに香織のマンションに立ちよった北村は、さしだされた缶ビールを飲みながら、ある話を切りだすタイミングをうかがっていた。
別れ話を、である。
件の合コンで恵美と出会い、交際が始まって早三ヶ月。
この間、北村は美人秘書と重役令嬢の間を行き来する「二股交際」を続けていたのだが、さすがに二ヶ月が過ぎたあたりから、肉体的にも精神的にも限界を感じるようになっていた。
もとより小心者で、不安や悩みがあると食が細り、不眠症になるという性格である。そんな北村であるから、一方との関係を絶つことを決断するまで時間は必要としなかった。
それなりに悩んだ末、北村は香織と別れることを決意。そして「いつか別れよう。いつか話そう」と、考えに考えて選んだ日が今夜だったのだ。
ところが、マンションに立ち寄ったまではよかったものの、いざ話を切りだそうにもなかなか口から言葉がでてこない。
この間、北村がしたことといえば、ビールをちびりちびりと飲みながら香織の顔をちらちらと覗きこむだけだった。
さすがにその挙動は不審をきわめ、
「何よ、さっきから人の顔をちらちら見て。気味悪いわね」
などと、香織に言われる始末だ。
「い、いや、別に……」
「私に言いたいことがあるんでしょう。はっきり言ったらどうなのよ?」
その一語に、北村はビールを飲む手を止めるとまじまじと発言者の顔を見つめ、
「……言いたいこと?」
「私と別れたいんでしょう、俊彦?」
おもわずギョッとした北村を無視するように、香織は缶ビールを手にとり、喉に音を立てて流し込んだ。
大東洋建設の役員秘書室に勤務する香織は、この年二十七歳になる。
濡れたような黒髪と瞳をもつエキゾチックな顔だちの女性で、ややあごがしゃくれてはいるがかけねなしの美人である。日本人ばなれした八頭身のプロポーションは完璧で、役員の間での人気も高い。
実際、役員からの食事の誘いは日常茶飯事。なかには高価なブランド品を贈りつけてきたあげく、
「どうだ、俺の愛人にならんか?」
などと、露骨に口説いてくる者までいるほどだ。
そんな美貌の女性秘書と北村は、同期での入社が縁となって知りあい交際を始めて二年になるが、二人の関係を知る者は社内に皆無だった。
香織が北村との関係を周囲に秘密にしており、北村にも他言無用を強いていたからだが、それは何も、
「彼氏がヒラリーマンじゃ、とても家族や友人に紹介できないわ」
というわけではなく、
「他にも付き合っている男性がいるのよね、私」
ということでもなく、
「そのほうが都合がいいのよ。デート代も簡単につくれるしね」
ということだった。事情を聞いて、北村などは得心したものである。
香織はそのモデル顔負けの美貌で、自社のみならず取引先企業の幹部の間でも人気が高く、なかには親密な関係の「構築」を目的に、バッグや時計などの高級ブランド品を贈ってくる者もいる。
それらの贈られた品々を香織は未使用のまま質屋で換金し、それを北村とのデート代や自身の生活費に「流用」していたのだ。
「あのスケベオヤジども。お金があまってしょうがないみたいだから、財布を軽くするために協力してやっているのよ」
などと、何度となく香織はぬけぬけと北村にうそぶいたものである。
おかげで北村は安月給の身にもかかわらず、香織とのデート代に困ることはまったくなかったのだ。
「い、いきなり何を言いだすんだよ、香織?」
動揺を絵に描いたような態で、北村は言った。
それに応じたのは、猛禽類のような鋭い眼光だった。
「何をですってぇ?」
香織はじろりと北村を睨みつけ、
「ふん、とぼけないでよね。あんたが私に隠れて相澤専務の娘と付き合っていることくらい、とっくに承知しているのよ」
それに対する北村の反応は「無」だった。
予想だにしない香織の「先制攻撃」に驚愕し、思考が停止してしまったのだ。
しかし、わずかでも動揺や狼狽したところをみせれば、「はい、そのとおりです」と自白したも同然。すぐに沈黙の淵から抜け出すと、
「し、知らないよ、そんな女性……だ、第一、専務の娘さんのような女性と、僕のような平社員が付き合えるわけがないじゃないか。やだな、香織ったら。ハハハ……」
ぎこちない笑いを発する北村を、香織は糸のように細めた目で見すえた。
「あくまでとぼけるつもりね。いいわ。じゃあ、とぼけられないようにしてやるわ」
香織はすっと立ちあがり、戸棚の引き出しをあけて中から大きな封筒を取り出すと、それを北村の前に投げてみせた。
「これは?」
「いいから、中を見てみなさいよ」
言われるままに北村は封筒を開けて、中身をとりだした。それまでアルコールで赤みかかっていた顔色が蒼白色に一変したのは三秒後のことである。
それは数枚の写真だった。
北村と恵美が、腕を組んでホテルに入っていく姿が写された……。
†
張りつめた空気がリビングルームを支配していた。
写真を片手に石像のように固まってしまった北村に、香織が語気を強めて迫った。
「そんな女性は知らないですって? じゃあ、一緒にホテルに入ったその写真の女はどこの誰なのよ。相澤専務の娘でしょうが!」
〈い、いつのまにこんな写真を……!?〉
まさかの「証拠品」を突き付けられて北村は愕然となった。
それでも上手い言い訳はないか、ごまかす方法はないかとあれこれ思案したのだが、半ばパニック状態の頭では妙案など浮かぶわけがない。
「……わ、わかったよ、香織。本当のことを話すよ」
もはやこれまでと観念した北村は、合コンでの出会いから今日に至るまでの関係をことこまかに説明した。
正直に話して少しでも怒りをやわらげようという魂胆からなのだが、どうやらそれは逆効果でしかなかったようだ。
話が進むにつれ、香織の両目の端は鋭く吊り上がり、目元口元はぴくぴくと痙攣したように動き、その顔はみるみる朱色に染まっていった。
「やっぱりね。そんなことだろうと思ったわよ。最近の俊彦、絶対に変だったもの」
「変だった?」
「そうよ。仕事が忙しいだのなんだのと理由をつけて約束をドタキャンするし。デート中もそわそわして、陰で携帯電話をコソコソといじるわ……」
「ご、ごめん、香織!」
吠えるようにそう言うなり、北村は床の上にひれ伏した。
その姿は、さながら水戸黄門に印籠を突きつけられた悪代官のようであったが、北村にとっての不運は、目の前の恋人が黄門様のような寛大な人間ではなかったことだ。
「あんた、いったいどういうつもりよ! 私という恋人がいながら、こんな尻の青い小娘なんかと二股かけて!」
鼓膜に突き刺さるように噴きあがった激情の声に、おもわず北村はたじろいだ。
「い、いや、これには深い事情というものが……」
「何が深い事情よ、このろくでなし!」
般若の形相。そうとしか表現できない表情で香織は北村をなじったのだが、何を思ったのか香織はすぐに表情を一変させると、床の上で震えあがっている北村をまじまじと見やった。
「……まさかとは思うけど、あんた、娘を通じて相澤専務に取り入って、出世なり昇進なりしようなんて、妙なことを考えているんじゃないでしょうね?」
「ま、まさか、そんなこと……」
一瞬、否定しかけた北村であったが、この窮地から逃れる策が当の香織から提供されたことに気づいた。
「じ、じつはそうなんだよ!」
「はあ?」
「だって考えてもみなよ。僕だって大手ゼネコンの社員だよ。大望もあれば野心だってある。ひとつでも上の地位なり役職を得るために、ありとあらゆる手段を模索するのは、サラリーマンとしてしごく当然の……」
北村は最後まで言い終えることができなかった。
突然、香織が「ギャハハ!」という哄笑を発したのだ。
とっさのことにあ然とする北村に、笑いをかみ殺しつつ香織が言った。
「誰が野心家のサラリーマンですって? 上の地位を目指すですって? その年で早くも定年まで窓際席が確定しているヒラリーマンのあんたのどこに、上を目指せる余地があるのよ。笑わせるんじゃないわよ、まったく」
〈き、きついなあ、もう……〉
恋人に対する配慮のハの字もないその言い草に、さすがの北村も憤然とした。
しかし、それ以上に憤然としたのは、香織の言うことがすべて事実という、なんとも情けない自分自身にであった。
〈僕って、いったい何なのだろう……?〉
胸の中で己の存在意義というものを考える北村であったが、悠長に自問自答している場合ではなかった。
この直後、香織の口から予想外の言葉が発せられたのだ。
「ま、いいわ。別れてあげる」
「そ、そう言いたいのはわかる! でも僕は本気で恵美のことを……えっ?」
言いさして口を閉ざした北村は、驚いたように香織を見やった。
その視線の先では、なんとも落ち着き払った態でビールを飲んでいる香織の姿があった。
「か、香織……今、なんて言ったんだ?」
「だから、別れてあげるって言ったのよ」
香織は手にするビールをテーブルに置き、さらに語を継いだ。
「二股かけられてまであんたにしがみつかなきゃならないほど、私、男に不自由していないしね」
「ほ、本当か?」
「ええ、もちろんよ」
と、香織は微笑まじりにうなずき、
「ついでだから専務の娘さんにも言っておいてあげるわ。『私たちはきれいさっぱり別れましたので、遠慮なくお付き合いしてください』てね」
「本当? いや、それは助かる……えっ?」
一瞬、キョトンとする北村。視線を向けた先で、香織は薄い笑いを浮かべていた。
その笑みに、いったいどれほどの「悪意」がこめられていただろうか……。