プロミスグレス
僕たちの待ち合わせ場所は、いつも東校舎三階北の踊り場だ。放課後、僕たちはそこで落ち合う。毎週金曜日に会っている。
それが、僕たちの習慣だった。
僕は部活がある。だから、彼女に会えるのは金曜の放課後だけだった。彼女もまた部活に入っている。だから、彼女もまた金曜日の放課後しか時間が空いていない。
僕たちは、お互いの時間を尊重しあっている。その結果、必然的に金曜日の放課後に決まった。
そこでは雨の日も風の日ももちろん晴れの日でさえも会うことができる。だって、校舎内で天候は関係ないから。絶対に会える。そういう意味でベストプレイスだ。
それに加えて、人がいないこともいい。静寂な空間だ。落ち着いてゆっくりと彼女と時間を共有できる。ほかの誰にも奪われたくない。ほかの誰にも邪魔をされることがない。
そして金曜日の今日。
僕たちはその場所で会う約束をしている。
だから今、僕は夕日の差し込む廊下を進んで三階の踊り場を目指している。オレンジ色の光が薄暗い廊下に乱反射している。ギラギラと視界に、光の海がうねるようにして波を引き起こす。チカチカと少しまぶしく感じる。それでも僕は進み続ける。彼女に会うために。
僕と彼女は一年前から付き合いだした。
僕は今までに一度だって彼女と会うことを飽きたと思ったことがない。それから面倒くさいと感じたことだってない。きっと、これからだってない。
それくらい、僕は彼女にまいっている。恋煩いをしている。
僕たちが付き合っていることは、校内の誰も知らない。別に誰かに話すようなことではないから言っていない。
まあ、僕自身が恥ずかしいという思いもある。というか、それが大半だ。
それに、彼女は校内で一番の有名人だから、僕と交際していることが広まってしまえば、とてつもない速さで噂が広まってしまう。その時にみんなが彼女の元へと駆けつけることだろう。そして、あれやこれやと質問攻めをすることは明白なことだろう。そうなると、彼女は困ってしまうに違いない。
それは、僕が望むことではない。彼女が困るようなことはしたくない。
それでも、もしかしたらきっと彼女は校内一の美人だから、変な噂にも慣れていて、簡単に冷静沈着に微笑んで受け流してしまいそうな気がする。最上級の大人の余裕とでもいうのだろうか。
しかし、僕は自分の好きな人の少し困った表情で微笑む姿を見たいと思わない。そのような姿を想像したくもない。考えるだけで胸が締め付けられてしまう。
それでもきっと、彼女は慌てる僕を見て優しく微笑むのだろう。
『もう、そんな慌てないで。きっと、すぐにみんな落ち着くよ?だから、優馬君は落ち着いて?』
でも、きっとそれは、僕を安心させようとする優しい嘘であろう。結局本当のところ、彼女は内心困っているに違いない。そう想像するだけで、やはり胸が痛む。
そのような経緯があるから、僕たちが付き合っていることは秘密にしていた。
秘密にせざるを得なかった。
∞
「じゃあ、また明日」
少し長い髪を耳に掛けて、彼は不愛想にクラスメイトに挨拶をした。そして席を立って、教室を後にした。
今日もまた、彼は三階の踊り場へと向かうのだろう。
習慣と言うか義務にも似た行動原理で行っているのかもしれない。
もしかしたら、神聖で厳かな、宗教行事のような超自然的な行動原理に基づくものかもしれない。
……だって、毎週金曜日の放課後、一人で向かうのだから。不自然よ。
私が彼の習慣を知ったのは、偶然だった。
それは、ある晴れた金曜日のことだった。今でも鮮明に思い出すことができる。
よく考えてみると、初めて追いかけた時は、もう一年ほども前のことになる。少し懐かしく感じるけど、少し悲しくも感じる。時の流れが速く感じる。
私は、吹奏楽部の自主練習に出るために音楽室へと向かうところだった。少し重いバックパックを背負って向かっていた。まだ初々しい高校一年生で、毎日律儀に教科書を持って帰っていた。
だって、私は本来、真面目な性分だからね。
まあ、今はそんなことしていないけど……。
慣れって人間をダメにするのかしら。
……こほん。
何にしても、私はなぜか彼が三階へと続く階段を昇っていく姿を見た。
彼はサッカー部のはずだった。そうであるはずなのに、文科系の部室しかない三階へと昇って行った。
当然のように何の用があるのかと疑問を抱いた。気が付いた時には、とっさに興味本位で彼の少し後ろを追いかけていた。見つからないようにこそこそと行動するのは、案外面白かった。何て表現すると、少し変な人みたい。
そして、階段を昇り終えた彼は、廊下を進んだ。
その時の彼は、イヤホンで音楽を聴きながら、静かに歩いていた。好きな音楽でも聞いているのかもしれない。窓から夕陽が差し込み、彼の少し長く黒い髪を真っ赤に染めていた。
時々彼は、窓の外をのぞくように顔を向けた。すると、私の視界には彼の横顔が見えた。その時の彼は、切れ長の目の端に柔和に皺を寄せて、微笑んでいるようだった。
その一瞬の景色が、妙に私の脳裏に焼き付いた。そして、消すことのできない絵の具で描かれた絵画のようにインプットされた。
まるで神聖な宗教絵画のようだった。
彼が授業を受けているとき、体育の授業を受けているとき、部活で走っているとき、図書館で本を開いているとき、教室で友達と喋っているとき、そのどの場面でも見せることのない表情だった。
それに気が付いたとき、私のなかで何かが動き始めた。
∞
僕が三階の踊り場にたどり着いたときに、すでに彼女は待っていた。
いつも彼女が先に僕を待っている。だって、僕の教室は、西校舎の一番南側の教室であり、僕はそこから向かってくるから。どうしても、東校舎に教室のある彼女とは、タイムロスが生じてしまう。
それは申し訳ないことだけど、彼女の微笑む姿を見ると、途端に罪悪感を忘れてしまう。それほどまでに彼女の微笑みは美しく可憐で神秘的だ。それに加えて、夕日が彼女の黒く長い髪と合わさって、神々しさを放つから、なおいっそうのこと、僕は目を奪われる。
罪深いほど美しく、神々しい。
神聖不可侵な聖域で、空間だ。
それでも、その時に僕は罪深くも彼女をたまらなく愛おしく感じる。
だからこそ、夕日の射し込む晴れた日が一番好きだ。
僕がゆっくりと彼女へと近づいて行く。すると、彼女はまるで一時も僕のことを逃さないようにと視線を動かす。彼女をどの角度から見ても美しく感じる。
「遅れてごめん」
『嫌よ、許さない』
彼女はわざとらしく僕から顔を背けた。僕は何と答えればよいのか分からずに、髪をぼさぼさと掻いた。
「えっと……」
『冗談よ。だから、そんな困った顔しないで』
「ごめん」
『もう、「ごめん」は禁止』
「ご――心得た」
それから、僕は先週のように今週起こった出来事や今日起きたことを話しかける。それが僕にできる唯一無二の彼女を楽しませられることだから。
だからこそ、僕はできるだけ多くの楽しいことを伝えようとする。
できるだけ多く楽しんでもらえるように。長く幸福でいられるように。
そう願いながら、言葉を紡いでいく。
その時、彼女はいつも微笑んで、僕から視線をそらさずに話を聞き続けてくれる。一言一句逃さないようにと真剣になって聞いてくれる。
時々、僕が悲しい話や落ち込んだ時の話をすると、彼女は悲し気に微笑んでくれる。
僕は、その微笑む姿を見ると落ち着くし、心を温かくしてくれる。そして、元気をくれる。また来週も頑張ろうと思える。それくらい秘めた力が、彼女の笑顔に存在する。
そして、僕は、まるで魔法を掛けてくれたかのように精神が高揚する。
まさに彼女は魔法使いのようだ。それも、人を幸せと導く正義の魔法使いだ。それでいて高貴な貴婦人のようでいて神聖な雰囲気を持っている。
僕はついつい時間を忘れて、話し続けてしまう。一方的になってしまう。独断的になってしまう。
それでも、彼女は嫌な顔一つすることなく、聞き続けてくれる。彼女は聞き上手だ。そして、寡黙で知的だ。
たまに、僕が悩んでいたりすることを打ち明けると、静かに時間が解決するということをわからせてくれる。
無限にも感じる有限さが、僕を包み込んでくれることを知らせてくれる。時間がとても儚い存在であると実感させてくれる。
彼女は――僕にとって救いだ。彼女がいるからこそ、僕は生きていられる気がする。
たまに、僕たちはイヤホンで音楽を聴く。彼女はどんな曲でもどんな音楽でも静かに微笑んで聴く。彼女は、僕の聴きたい曲やお気に入りの曲を好む。その時、彼女は一番美しく僕に微笑む。
僕が彼女のことを少しでも多く知りたいと願うように、彼女も僕のことを知りたいのかもしれない。
恥ずかしくて直接聞くことはないけど、それでもそう思ってくれていたらと思う。そうであるならば、僕はたまらなく嬉しい。
彼女が何を好きで何に興味を持っているのか。どういうことが苦手でどういうことが嫌いなのか。一つでもおおく、彼女を構成するすべての要素を知りたい。
しかし、それができないことを、僕は自覚している。
それはあまりにも難問で難解だ。
分かることと分かろうとすることには、おおきな隔たりが存在する。
選ばれた人のみが、100%理解することができる。
僕は――それに選ばれたかった。
もう、望んだって手に入らないものなのに。
∞
彼は三階の踊り場で立ち止まった。
今日もまた彼女と話をするのだろう。そう思うと、私は何も考えられなくなる。頭の中が真っ白に変わる。そして気が狂ってしまいそうになる。
それまでこだわっていたもの、頑なに固持していていたもの、それらすべてがどうなってもいいやと思えてしまう。それほどまでに、彼にまいってしまっているのかもしれない。
自分でも気持ち悪いと思う。それでも瞬く間に、そんな思考すらも忘れてしまう。
そして、衝動的に話しかけたくなる。
私はなんとか最後に残った理性のかけらで、赤信号に気が付く。だからすぐにブレーキを踏む。すると、車輪とブレーキの擦れる不協和音がこだまする。横断歩道の一歩手前で、やっと止まる。その時になって、初めて私は冷静になることができる。ああ、事故に遭わなくてよかったと安心する。
一体どれくらい、廊下に立っていたのだろう。
そういえば、部活はもう始まっているのかもしれない。
いつまでも、私がここに居たら部活の子たちに迷惑をかけてしまうかもしれない。
だって、部長だもの。
それでも、私一人がいなくても副部長が仕切ってくれるかもしれない。あの子は、そういう子だから。部長という役は、本来あの子がやるべきだったと思う。仕切りたがり屋である彼女が一番ふさわしい役。女王様のようにわがままに部員を誘導する。まさにあの子そのもの。
それなのに、私を指名するとは、先生もみる眼がないと思ってしまう。職務の怠慢だわ。
私は部長に向いていない。
決して前部長のあとを引き継げるほどの器ではない。
前部長の代わりには決してなれない。
だって、私は私でしかなくて前部長は前部長でしかないのだから。もちろん、副部長――あの子だって同じこと。誰も前部長のカリスマ性には勝てない。勝てるわけがない。それぐらいに、魅力的で影響力があった。彼女が微笑むだけで、誰もが落ち着く。それほど計り知れない力を持っていた。
それに対して、私は決して女王様や魔女のように民衆を扇動すような役柄は似合わない。だって、私は真面目なフリをしていただけの道化師だから。
所詮、宮廷にまぬかれて、王様や王女様や王子様のまえで劇を見せるだけの存在。そして、滑稽な芝居をして、笑ってもらうのが役目。ほらを吹くのがふさわしい。
そして何よりも――
私のように、雰囲気に流されて、音楽をする人にはふさわしくない。
私のように、雰囲気に流されて、影響される人にはふさわしくない。
今のように、雰囲気に流されて、立ち止まる人にはふさわしくない。
それでも――私は、途中で立ち止まったことに後悔を抱いたりしない。
だって、そのおかげで見られる風景があることを知ることができたから。そのおかげで出会える人がいると知ることができたから。
なによりも、ぼーっと立ち尽くしたままの彼の姿が、少しかわいいことを知れたから。
まるで絵画に描かれたように儚くそして繊細な風景。それを見ることができて、たまらなく嬉しい。心が救われる。
部室で起こるありとあらゆる不和を忘れさせてくれる気がする。半音ずれていることを忘れさせてしまう気がする。タクトがずれていることを忘れさせてくれる。
その間、壊れかけた音を聞かなくて済む。
そして何よりも――部室で勝手に描かれた絵の具を洗い落としてくれそうな気がする。
……いや違うのかな。
塗りつぶしてくれる気がする。それこそ、なにもかも。全身を、全心を塗りつぶしてくれる気がする。
彼の色で濁った私がいい。
赤でも青でも黄でも緑でも紫でも白でも黒でも――何であっても構わない。それが全部混ぜ合わさって、汚れてしまっても、くすんでしまっても構わない。掠れてしまったも構わない。
それこそが、一番美しい。それだからこそ、一番好き。
私は彼みたいに立ち止まったままでいたい。そう思う。その方が楽だし、安心する。そして、甘美な誘惑に負けそうになる。
けれど――
……ああ、ダメだ。
やっぱり、罪悪感がある。
どうしようもなく、私は道化師役から抜け出せそうにない。だって、今日もまた、笑顔を浮かべて、何事もなかったかのように部員全員に話しかけるのだろうから。
それでも、私はもう限界かもしれない。次々と沸き起こる疑問の波が私を飲み込んでしまう気がする。
一体いつまで、笑い続ければいいのかな。
一体いつまで、踊り続ければいいのかな。
一体いつまで、騙し続ければいいのかな。
段々と心がすり減っていくのが分かる。
こんな時、前部長がいれば、、きっと私に微笑んで『もう少し頑張ろ』と目を細めて優しく声をかけてくれるだろう。
それを考えたら、私一人が、部活をさぼってしまうわけにはいかない。
それに――私は、ズルをするのだから。ズルをしてでも手に入れたいものだから。
それを理解していて、私の気持ちは『諦めない』という選択肢を選択し続ける。
私はもう決心している。
次の金曜日に全てを終わらせてそして始めるんだ。
∞
ある雨の降る金曜日、三階の踊り場へと向かった。
じめじめとして、陰気な空気が校内を覆っていた。外は、どんよりとした曇り空だった。一向に雨が止みそうにない。今日は明け方まで雨だそうだ。今朝の天気予報で綺麗なお姉さんが言っていた。
土曜日である明日は、僕と彼女のデートである。待ちに待ったと言っても過言ではない。そのデートの日が雨ではないことを祈るのみだ。
そのような僕の気分踊る思いとは、裏腹に、廊下は静かだ。
それにしても――雨だからかもしれない。廊下全体が暗闇に包まれたかのように薄暗かった。
当然、遠目には、彼女の姿が見えなかった。
そして、近づくにつれて、彼女がいないことに気が付いた。
しばらくしても彼女がここへに来ることはなかった。携帯に連絡もつかなかった。僕は彼女に拒絶されてしまったのかもしれない。やはり、いつまで経っても、連絡がない。
そして、ついに着信が鳴った。
彼女の好きな曲を着信にしているから、すぐにわかった。バッハのイタリア協奏曲、第3楽章だ。僕は、即座に通話ボタンを押して、耳に当てた。
そして、それは――――最悪の連絡だった。
この時初めて、僕は失恋した。振られてしまった。
彼女は何も言わずに、僕の前から消えてしまった。
それに気が付いて、絶望した。
彼女は初めからそこにいなかったかのように、影だけを残して去っていた。それはどこか空虚で無味乾燥な空間だけが取り残されていた。
僕はぽつんと立っていた。取り残されたかのように立っていた。一体どれだけの時間その場所にいたのか分からなかった。
彼女は僕の元へは戻ってくることはないだろう。
僕よりも彼女にふさわしい人は、それこそ数え切れないほどいるのだから。
しかし、僕にふさわしい人は彼女しかいない。
これから先の僕の人生において、彼女以上の存在にきっと出会うことはないだろう。直感的にそう思う。
それでも、後悔しても後の祭りかもしれない。文字通りに過去は過ぎ去ってしまい、変えられない出来事なのだから。
過去を変えられるとすれば、それは都合の良い解釈で今という時間から過去という時間を振り返って、自分勝手に捉えている自己満足をしているだけでしかない。
時間旅行はない。
時間を止めることもできない。
時間は流れてゆくだけだ。ただ何もかもを残して過ぎ去っていく。
そう自分に言い聞かせるけど……やっぱり無理だ。
目の前には、独りよがりで独りぼっちの世界しか広がっていない。その広がりの中心には、大きくて深くて暗い穴がある。一瞬、それに飲み込まれてしまいそうな錯覚がした。
ぽっかりと空いた穴は、塞ぎようがない。
いや、彼女が教えてくれたじゃないか。無限にも感じる有限さが、僕を包み込んでくれることを。
それでは――このぽっかりと空いた穴の隙間もいつか何かや誰かによって埋まるのだろうか。
分からなかった。
その時、僕の視界は色を認識しなかった。捉えるものすべてが、モノクロの世界にしか見えなかった。全ての物事が無価値にしか思えなかった。
それでも僕は、佇んでいられない。
歩み出さないといけない。
そう自分に言い聞かせて歩き始める。
すでに下校時間が近づいていた。
外を眺めると、ぽつぽつと降っていた雨はいつの間にか土砂降りに変わっていた。
∞
きっとまた、彼は今日も三階の踊り場へと向かうのだろう。
しかし、私はもう彼のそのような姿を見たくなかった。彼の顔から笑顔が消えてしまったから。そして、彼が笑顔を取り戻す可能性が低いこともわかるから。
きっと彼と付き合っていた彼女でさえも、今の彼の姿を見たいとは思わないはずだ。それほどまでに彼は、疲労して悲しそうな顔しかしていない。
それでも、彼は何かにとりつかれたかのように三階へと向かう。
もう誰も来ないはずの場所に向かう。
苦しそうに悲しそうに微笑みながら歩き続けるのだろう。
いつか見た時のように、不愛想な顔をして、それでいてどこか楽しそうな顔をすることなく歩き続けるのだろう。そんな顔を忘れてしまったかのように。
それだけが切り取られてしまったかのように。
今の彼は、何を考えているのだろう。どんなことを思っているのだろう。どんなことを望んでいるのだろう。どんな未来を想像しているのだろう。どんな過去を望んでいるのだろう。どうすれば満足してくれるのだろう。
彼は、知っているはずだ。
時間はいつだって一方通行であることを。
時間旅行も時間停止もできない。そのようなもの存在しない。
それでも、彼は望んでいるのかもしれない。
彼女が返ってくることを切に祈っているのかもしれない。
私は、彼の考えていることが分からない。全然理解できない。いなくなってしまった人をいつまでも、追いかけることにどれほどの価値があるのだろう。わからない。想像ができない。分かりたくない。分かりたくもない。
きっと、いなくなった人は、いつまでも自分のことを覚えていて欲しいと思う。それでも、自分に捕らわれたままで先に進まないことを望んでいるのだろうか。先に進もうとしないことを良しとするのだろうか。
決してそれはないと思う。
私ならばそんな残酷なことを考えない。新しい一歩を踏み出してほしいと願う。彼が幸せになるように切に願う。希う。
だから――私は、彼に対してできることを精一杯真剣になって考える。
そうやって、私は自己欺瞞で本心を誤魔化して、少しでも多くの罪悪感から逃れようとする。
私は罪深い。
それでも、彼を手に入れたいと願ってしまうのだから。
∞
彼女と別れてから一か月が経過した。
それでも、僕はやはり女々しいほどに、彼女との思い出を想起して感傷に浸ってしまう。忘れようとすればするほどに、思い出してしまう。まるで蔓に引っかかり、それを解こうとすればするほどに複雑に絡まってしまうことに似ていた。あるいは、暗闇の中を手探りで出口にたどり着こうとするようなことにも思えた。
それほどまでに彼女が僕に与えた影響は計り知れなかった。だからこそ、簡単に忘れることなどできなかった。
つまり……一言で表すと、僕は未練たらたらであった。
たかだか、恋愛の惚れた腫れたの話で、自分が一喜一憂するとは思ってもいなかった。
そのような自分に呆れてため息を吐きたくなるけど、それでもどこか僕はしょうがないことだと納得してしまう。
そして僕は、両手に抱えきれないほどの多くの痛々しい思いを抱いて、三階の踊り場へと向かった。
彼女がいないことは分かっているけど、それでも期待してしまう。もしかしたら、僕の元へと戻ってきてくれるかもしれない。そう考えて、一筋の光に手を伸ばそうとする。
僕は、何もつかめないことを知っていても、手を伸ばしてしまう。
こつんこつんと階段を上がり、三階へと出た。そして、北側の踊り場へと進む。段々と近づくにつれて、夕日に照らされて佇む人の姿が見えてきた。
彼女が返ってきたのかもしれない。そう思った。
しかし、それは幻想だった。いるはずがないのだから。
先約がいた。
そういう意味では、正直、驚いた。開いた口が塞がらない。
まさか、彼女以外の人がここを訪れることになるとは、思ってもいなかった。それくらいに、この場所は普段から人気がなかった。
だからこそ、それゆえに、僕と彼女が秘密裏に密会場所として使用していたわけで……
そう言えば、いつかは、誰かに見つかってしまうそんな日が来ることを、彼女は予想していたっけな。
そう思うと、仕方がないのかもしれない。
僕はさらに意気消沈した気持ちで歩みを進めた。
そして、その人へと近づいて行くと、彼女が振り返った。その時、ミディアムボブの髪が揺れて、夕日の光を乱反射させた。
僕は一瞬、目が眩んだ。そして、徐々に視界が慣れてきた。
すると、好奇心の強そうな大きな瞳が、僕を捉えていた。その彼女の顔にはどこか悲しそうでそれでいて嬉しそうな表情をしていた。それから、彼女は小さな唇を動かした。
「ねえ、手に入れたいものがあるとき、君ならどうする?」
「ごめん、意味が分からない。急にどうした?」
「私なら、自分から手を伸ばすの」と彼女は本当に手を空中へと伸ばした。
「……」
「それでも、ダメだったら、自分から近づくの。でもね、手に入らないものだってあるんだ」と彼女は小さくつぶやいた。
「……なんのことだ?」と僕は怪訝そうに眉を寄せた。
「もう、彼女はいないんだよ?」と彼女は手を下して、僕へと向き直った。そして、泣きそうな声でそれでいて優しい声で僕へと問い掛け続ける。
「彼女――部長は事故で死んでしまったんだよ?文化祭の買い出し途中で交通事故に遭ったんだよ?もう生きていないんだよ?ここへは来られないんだよ?ここで待っていても意味ないんだよ?誰も来ないんだよ?もう一生会えないんだよ?ここで何しているの?誰と何を話しているの?」
「……」
……わかっている。そんなことは百も承知だ。
それでも、それゆえに、僕はここに居なければならない。通わなければいけない。僕は約束したのだ。だから、毎週金曜日の放課後、ここで会う。そう約束した。
そうだ。僕は覚えている。まだ、覚えている。
正確に、鮮明に、覚えている。
その時に彼女は目を細めて微笑んで言ったことも覚えている。
『この場所だと天候なんか気にしなくていいよね。絶対に会えるから』
それから、僕たちはこの場所で会うことが決まったんだ。彼女が卒業するまでずっとそうしようと決めた。誓ったんだ。
『高校では、あと一年しか一緒に居られないね。でも、有限の中で過ごすからこそ――だからこそ、この場所がきっと思い出の場所になるよね』
そう言って、彼女はにっこりと微笑んだ。僕たちは、いつか振り返ったときに、たくさんの思い出話で笑えるようにしようと決めたんだ。
だから、たくさんの楽しいこと、たくさんの面白い話をしようと決めったんだ。
だから――
「ねえ、もうやめにしない?部長はきっとそういう女々しいの嫌いだよ」
そんなことは君が一番よく知っているはずでしょ、と彼女――新海夏実は泣き出しそうな笑顔で言った。
「…………」
そうだ。僕はそのことを誰よりも一番に理解しているはずだ。
彼女――柏崎麗奈は、そう言い人物だった。
だからこそ、夏実の言葉が痛いほど、痛々しいほど鋭利に胸に突き刺さる。
くよくよすることを嫌い、優しそうな見た目とは違い、無理難題を言って、僕をからかって、その時に困る僕の表情を見て、さらにサディスティックにそして控えめに笑うことが好きだった。麗奈はそういう人だった。
そうだ。ほかにも覚えている。
それから、好きな曲を口ずさむんだ。すごくきれいにハミングをする。その後にその曲がどんなクラッシク音楽で誰によって作曲されていつ頃発表されたのかを丁寧に、楽しそうに僕に教えてくれた。
他に覚えていることは――
麗奈が、嫌ったことは――
きっと、今の僕を見たら、桜色の小さな唇を曲げて、意地の悪い笑みを浮かべて言うはずだ。
『いつまでもそんな顔しないの。優馬君がずっとそのままだと――別れちゃうよ?』
僕はとっさに、思い出の中の麗奈を打ち消そうとする。
しかし、次々と記憶の中の麗奈が現れてくる。
それをかき消すようにして、夏実が唇をかみしめた後に、小さくつぶやいた。
「ねえ、そういうのやめよ?辛いだけだよ?」
「お前には関係ないだろ」
「関係あるよ?」と夏実は掻き消えてしまいそうな声で問いかけた。
「……何が?」と僕は意味が分からず聞き返した。
「関係あるよ。それに――君の苦しそうな顔を見たくない」と夏実は悲しそうに視線を下した。
「だから、どこに関係が――」と僕はイライラした声を上げようとした。
しかし、突然、夏実が悲痛そうにそして叫ぶようにして声を遮った。
「優馬君が好きなの!君の苦しそうな顔を見ると、私も苦しくなるの!だから、もう辞めてよ!そんな悲しそうな顔を見ていられないよ‼気づいてよ‼私に気付いてよ‼いつまでも、引きずっていないでよ‼私が告白できないでしょ……」
いつの間にか夏実は大きな瞳から涙をいっぱいに流して、僕をまっすぐに見た。夏実の頬が少し赤く染まっていた。
自己主張の強い夕日が僕たちを照らし続けている。
わずかな沈黙がその場を支配した。
僕は、頭の中が急激に冷えていくのを感じた。そして、夏実が僕に告白したことを理解した。どう答えるべきかわからなかった。自分がどうするべきか判然としなかった。
「……ごめん」
「……私こそ叫んでごめんなさい」と夏実は呟いた。
僕は返事に窮してしまった。頭の中は、誤魔化しきれないほどに、思考し始めた。
麗奈を好きであるという想いが壊れないように、失くさないように風化しないように色あせてしまわないようにと願っていた。そのために、毎週金曜日ここを訪れていた。
それを自分でも自覚していた。
無理やりにでも、麗奈を思い出そうとしている自分がいることに気付いていた。
だからこそ、不自然な自分の行動から目を逸らしていた。
知らぬふりをして、自分の気持ちを誤魔化していた。
それを自覚していたから――僕は、麗奈に申し訳なく感じる。
そして、もっと、自分が許せなくなる。
好きだった人を忘れそうになることが許せなかった。簡単に思い出せなくなることが許せなかった。
…………ダメだ。
全然、冷静になっていない。なれそうにない。頭が働きそうにない。
夏実の告白に答えられそうにない。
どうしてだろう。断れない。
あんなに好きだった麗奈がいるはずなのに。
心に焼き付いて離れられないはずなのに。
僕は自分で自分のことを決められそうにない。
僕はもう選択肢を選び取ることができそうにない。そう思った瞬間、僕は僕自身が何を言うべきかわからなくなった。どう答えてよいのか分からなかった。
「えっと…………その――」
「今はまだ返事はいらない。君の心が落ち着くまで待つ。君の心の隙に付け入るような気がして嫌だから――」
夏実は、すがすがしいほどに僕の言葉をぶった切った。そのまま夏実は、制服のポケットからハンカチを取り出して目元の涙を拭った。その後、小さな顔を上げた。少し充血した瞳が僕を見つめた。
そして、無表情のまま、ビシッと僕を指さした。
僕は、何が何だか訳が分からず、ぽかんとしたままだった。
はっきり言って、付いていけなかった。まるで上映された映画を観客席から観ているような気がしていた。どこか、他人どこのように置いてきぼりにされてしまった。
一瞬、夏実が芝居でもやっているのではないかと錯覚してしまった。
それこそ、道化師のように本心を悟られないようにわざと演技をしているように見えた。
しかし、夏実は、そのような僕のことなど全くと言っていいほどに意に介せずに、宣言した。
「これからは、君の傍にいることにしたから」
「………………はい⁉」
僕の反応は月の住人と通信しているほどのタイムロスがあった。いや、生じてしまった。それほどまでに衝撃をくらった。
というか、夏実の言葉を解釈するのに時間が掛かってしまった。
一体全体、この人は何を言っているのだろうか。
先ほどと言っていることが真逆ではないか。
それに、自分で言うのは癪だけど、本当に悔しいけど、僕は恋人を亡くして、多少なりとも、いやかなり深く心が麻痺しているのだ。
それなのに、目の前にいる彼女――新海夏実は、そんな僕の気持ちなどお構いなしで、ズカズカと僕の心の中へと踏み込もうとする。
何がしたいのか、何が目的なのか理解できない。
いや、目的ははっきりとしているのか……。
僕のことを……好きなのか………?
にわかには信じられない。いや、僕が疑心暗鬼になり過ぎているのかもしれない。
とにかく、目の前にいる新海夏実という人物のことがよく分からなかった。
僕が怪訝そうな顔をしていたらかもしれない。夏実は不貞腐れたように口を曲げた。
「だって、君がいつまで経っても、私の気持ちに気付かないのがいけない」
「今の展開からすると、普通ちょっとぎこちない雰囲気になるのではないか?」
「それに、君の近くにいるのは、私の勝手じゃない?」
夏実は僕の言葉を無視して、自分の唇を指で触れながら言った。
僕は引きつる頬を抑えながら答える。
「おい、僕の話を聞いているか?」
「そうね。私は、君のことが好きなのよ。仕方ないわ――」
夏実は一人でぶつぶつと勝手に話し始めた。そして、思案顔をして僕の前を行ったり来たりし始めた。
「何がしたいんだ。揶揄っているのか」と僕はイライラした声で言う。
夏実はまた僕の言葉を無視した。
それから、また僕の目の前に立ち止まった。そして、夏実は僕を覗き込むように見上げた。
僕の視線は、夏実のブラウン色の大きな瞳に吸い寄せられた。よく見ると、僕の顔が映っていることがわかった。そして、その瞳は少し充血していた。
どうしてだろうか。わざと心臓が激しく血流を流している気がした。ドクドクと騒がしいほどに鼓動している。
戸惑いを感じている自分と同時に焦るように緊張している自分がいた。
僕はカラカラに乾いた口を何とか開いて、非難の声を上げることしかできなかった。
「今までの奇妙な行動は何?夢遊病か何かなのか?それなら病院にでも行った方がいい」
夏実は、きめ細かい肌をそして少し赤く染まった頬を膨らました。それから、ニヤッとした。
その瞬間、僕の胸に飛び込んできた。
避けようと思えば避けられたはずだ。そのはずなのに、なぜか僕は棒のように立ったままだった。そして、僕は軽い衝撃を受けて夏実を受け止めていた。
その時、少し柑橘系の甘い匂いがした。夏実は温かく柔らかかった。そしてすぐに、僕から離れた。
僕の視線は、夏実の大きな瞳に吸い込まれた。その時、夏実は顔を真っ赤にして、それでいてからかうような口調で言った。
「これで少しは、気持ちが晴れたでしょ?」
僕はただあっけにとられて、何も言い返すことができなかった。まるで魔法に掛けられたみたいに、金縛りにあってしまった。
その時、一瞬、麗奈の姿が重なった気がした。
しかし不思議と僕の心は温かな気持ちで満ちていた。
そのことに気が付いて、僕は夏実の顔から視線を逸らした。
逸らした視界が捉えたのは――綺麗で真っ赤な夕焼けだった。
(終)