56.ミラちゃんの化学教室
「――と、言う訳で。今日はちょっと普段のお仕事を停止して三人には軽い座学でもして貰おうかなって」
「どういう訳よ」
「座学、ですか。勉学はそれ程得意ではないのですが」
「勉強なんて……僕、そんなに頭良く無いですよ……?」
三者三様な反応を見せてくれるリューテシア、ルーク、リュカの三名。
もう完全に冬の季節に突入したこのロンバルディア地方。
気温も日中ですら氷点下を維持し続け、オマケに三日に一度は吹雪が吹き付けるという有様。
こんなんじゃもう雪掻きの為に外に出るのが野外活動の精一杯である。
強制引き篭もり、まぁそれは覚悟してたから別に良いし、まだ鋳造による鉄製品の製作というお仕事があるのだけれど。
ちょっと、飽きた。まだ全工程の二割も進んでないのだけれど。
飽きてきたし熱いし疲れるし、今日は気分転換を兼ねてちょっと趣向を変えてみようと思う。
「まぁ、座学って言っても大した事しないわよ。雪解けの季節が来たらまた皆にはやって貰う事が色々出来るから、時間的に余裕があるのはこういう冬の季節だけなの。だから、この機会にリューテシア、ルーク、リュカの三人と私の間にある初歩的な科学知識の溝をちょっと埋めようかなって思ってね」
「科学知識……ミラさんが度々使っている、魔法ではない技術の事、ですよね?」
「そうよルーク。前に作った石鹸も、化学反応を利用した製作物の一つ。それに最近見せた蒸気機関だって、化学反応なのよ」
「で、それを私達が知ったら何になるっていうの?」
それを自分達が学ぶ意味についてリューテシアが訊ねてくる。
あるわよ、特に魔法を扱う者であらばね。
「そうね、リュカは使えないけれどルークとリューテシアは魔法が使えるわよね?」
「そうですね」
「使えるけど、それが何?」
「人は、知らない事は出来ないのよ。一見無駄に感じるような知識でも、知識が増える分には得があっても損には絶対ならない。知る事に意味があるのよ、魔法があろうが無かろうが、科学という世界の法則は一緒。だから、科学を知る事で魔法の新たな世界も開けるようになるのよ。私だと、魔力が足りなくて出来ないんだけれどね」
そう、私自身に魔力さえあればもう少し色々な事が出来る。
だが無い物は無いのだ、無い袖は触れない。
なので魔法を扱えるルークとリューテシアにお願いしてきたのだが、実は今までルークやリューテシアにやらせてきた魔法による作業、それ自体には一切科学の知識が絡んでいない。
説明は出来るが、説明しても二人には科学知識という基礎的な土壌が無いので理解出来ないのだ。
理解出来ない、知らないのでは何の意味も無い。
なので、知識の引き出しを増やすという意味で軽い座学をしようという事になったのだ。
座学なんて高尚な言葉使ってるけど、これから話す事は小学生でも知っているようなレベルではあるが。
「科学知識の魔法への転用、これをルークとリューテシアの二人がちょっとでも出来るようになると私が頼める事が増えるんだけどね」
「あの、僕は魔法が使えないんですけど」
「リュカはそうかもね。でも知る事に無駄は無いし、そもそも科学っていうのは魔力とか一切関係ない事だからリュカもタメになると思うわよ」
「それで、ミラさんは一体どのような事を教えてくれるのでしょうか?」
「そうねぇ……」
何を教えるのか、とルークに訊ねられて少考する。
化学の基礎中の基礎、色々あるけれど、どうせ話すならここにいる三人にとっても密接な関係があるような話でもしたいわね。
「――なら、ここにいる三人が何度も見た事がある化学現象について話してしまいましょうか」
「見た事がある?」
「それじゃ、『お湯を沸かす』作業。この一連の流れで発生する化学的な現象を全部説明しちゃいましょうか」
全部とは言ったが、細かい専門的な部分は省くが。
これはそもそも化学知識が何も伴っていない相手に教えるのだ、突っ込んだ事を話しても相手が理解出来ない。
こういう説明は百聞は一見にしかずという言葉もあるので、視覚的にも理解し易いように何個か道具をものぐさスイッチ内から取り出す。
取り出したのは水の入った瓶、薪を数本、そしてそれを乗せるテーブル。
それと多少話が長くなるかもしれないので、全員が座れるように椅子を四つ取り出した。
「それじゃあルーク、ここに薪と水があるわ。実際にやらなくて良いから、これでどうやってお湯を沸かすか口に出して説明してみて」
「……普通に、薪に火を付けて、その水が入っている瓶を火に晒して水をお湯にすれば良いのでは?」
「そう、それで正解よ」
うん、そうとしか答えられないわよね。実際その通りだし。
でもそんな当たり前のような事でも、この流れで実に多くの現象が発生しているのだ。
「薪が燃える、別に普段から見てる当たり前の現象よね。でも燃えるっていうのは『燃焼』っていう立派な化学現象なのよ。じゃあルーク、薪に限らず、物を燃やす為には何が必要だと思う?」
「燃やすのに必要な物ですか? そこにある、薪ではないのですか?」
「薪、そう。つまり『燃える物』よね。他には?」
「他? まだ何かあるのですか?」
「あるのよ。『燃える物』だけじゃ30点しかあげられないわね」
燃焼する為に絶対必要な三大要素の内の一つがこの燃える物である。
だが、これだけあっても物は燃えない。
三大要素は三つ全て揃わなければ決して燃えないのだから。
「物体が燃焼する為には、『燃える物』だけじゃなくて『熱』と『酸素』が必要なのよ。この燃焼三大要素が揃って初めて物は燃える事が出来るのよ、逆に言うと、この三つの内どれか一つでも欠けると絶対に物は燃えないわ、この三つは燃えるという工程に絶対必要なの」
「熱……そうか、それを失念していましたね。ただ、『酸素』とは何ですか? 聞いた事がありませんが」
「酸素は、この世界にも存在してるし、普通に今も貴方達が吸ってるわ」
というか、酸素が無いならそもそも私は今この場に生きていない。
生物である以上、呼吸は絶対に必要不可欠な生命維持行為の一つである。
呼吸しない生物などこの世には存在しないのだから。
「空気の中に含まれている成分、その一つが酸素なのよ。この酸素があるから、物が燃える事が出来るし、私達を始めとした生物が生きていけてるのよ」
「そんな事言われても、その酸素とかいうのが存在してるって証拠は何処にあるのよ?」
「まぁ、酸素は目に見えないからね。目に見えない物の存在を証明する手段は――」
「ある訳無いでしょ?」
「あるわよ?」
「えっ?」
「えっ?」
リューテシアがぽかーんとした表情をしている。
いやいや、あるに決まってるじゃない。
「物が燃えるのには酸素が必要、この酸素を消費して物は燃えてるのよ。って事は、この酸素が完全に消失した空気が存在すれば酸素が存在するって証明が出来る訳」
さてそれでは証明の為の実験……の前に。
今、私達は大広間にて座学を行っている。
当然、換気の為に今も魔力を利用した換気口がガンガン外気を取り入れている。
風速もかなりの物なので、それなりに距離を離した位置にいる私でも肌にその風を感じる事が出来る。
ちょっと今やる実験は、風が強いと困るのよね。
なので一時的に、この部屋の換気口の魔法陣を操作して機能を停止させておく。
これでこの部屋は無風となった。
「じゃ、これから実験を始めるわね」
ものぐさスイッチ内から、小皿と人の頭程度の大きさの壺、それに高さ調整用の薪、そして燃料である油を取り出す。
壺の中に台としての薪を置き、そして小皿に並々と油を注ぐ。
「ルーク、この油に火を付けて貰えるかしら?」
「これで良いですか?」
ルークの指先からマッチの火程度の小さな炎が迸り、油に火を灯す。
小皿一面に火が広がったのを確認し、静かに台代わりの薪の上に置く。
少しでも外部の空気と攪拌され難くなるように、少しだけ開けて壺の上部を蓋で覆う。
「後はこの状態で少々待つわ。酸素は、何かが燃えた際にその姿を二酸化炭素という別の姿へと変えるの」
「二酸化炭素? 何かまた知らない単語が出てきたわね」
「今は知らなくても良いわ、そういう物が目に見えないけど存在すると、これから知ってくれれば良い訳だし」
そして数分後、小皿の炎が消える。
油は、まだ残ってる。だけど炎が消えてしまった。
これが準備完了の合図である。
静かに、外の空気と攪拌してしまわないように、蓋を外して壺の中から小皿を取り出す。
薪は、そのままで構わない。
「これで準備完了ね、これで油の燃焼に使っていた壺の中の酸素は二酸化炭素へと変換されたわ。そして、二酸化炭素は私達の周囲にある空気と比べて比重が重いのよ。だから今、この壺の底には酸素が排除された大量の二酸化炭素で埋め尽くされてる、そして二酸化炭素は酸素と違って、物を燃焼させられる力は無いわ」
これで、壺の中には薪という「燃える物」が存在するが、「酸素」は存在しない状態となった。
後は「熱」である。
「じゃ、ルーク。この壺の中にある薪に火を付けて貰えるかしら? それと手を入れるなら、ゆっくり入れてね」
「分かりました。それじゃ――あれ?」
先程、油に火を付けたように指先に炎の魔法で火を灯す。
その状態で薪に火を付けるべく、壺の中に手をゆっくりと入れた……所で、ルークが異変に気付いたようだ。
「えっと……おかしいな。我が手に宿れ、灯火の炎! ……あ、あれ?」
「ちょっと、なんで火を消してんのよ」
「いえ、消したのではなくて消えたというか……おかしいですね」
リューテシアの野次に反論しながら不思議そうにルークは壺の中から手を取り出し、再び魔法を詠唱する。
当然、当たり前のようにその指先には火が付いた。
そこには酸素と魔力があるのだから、付いて当然である。
改めて付いたのを確認して、再び壺の中に手を入れるルーク。
当然、火は消えた。そこには魔力があっても酸素が無いのだから、燃えなくて当然である。
「こういう訳よ。ルークは身を以って分かっただろうし、リュカとリューテシアも目で見て理解出来たはずよ。その壺の中には、燃える物である薪が存在する。魔力だってある。そして、魔法で火を付けるという方法で熱源も存在していた。でもね、酸素が無いから燃えないのよ、誰がやっても、同一条件である限り。この状況では『絶対に』燃えないのよ」
これこそが、酸素という存在がここにある事の証拠。
これで、この空気中に酸素という見えない物が存在する事は証明出来た。
理解出来たかしら、リューテシア?
流し目でリューテシアを確認すると、不貞腐れながらも納得しているようだ。
「……確かに、その酸素? とかいうのは存在するみたいね。どうやっても火が付かないし」
「納得してくれたみたいだけど、これ『水を沸かす』という行為の化学的視点での説明だから。これで半分よ?」
お次は、水の加熱という行為である。
「じゃ、次に私達の生活には無くてはならない、水に関しての説明でもしようかしら?」
水。
それは最も身近で最も重要な物質。
生物的な意味でも、化学的な意味でも水は様々な用途で使用されている。
「水ですか?」
「水ってのは、自然界に様々な姿で存在しているわ。川、海、雨に雪、氷……雲も霧もね。これらは全て呼称、形状、形態が違うだけで大元を見詰めれば全てが水なのよ。だから、氷属性の魔法なんかも、広義では水属性の魔法とも言えるわね。所で、水って温度によって三種類の状態に変化するんだけど、リューテシアは分かるかしら?」
「温度で変化? ……氷、水、水蒸気……の、事?」
「そう、それが正解ね」
「何を聞かれるかと思ったら、当たり前の事じゃない」
「そう、当たり前の事だけど。これも化学的な視点の捉え方よ」
水は、平常時は液体、温度が0度となると凝結して氷という固体になり、また温度が100度になると沸騰して水蒸気という気体に変化する。
この液体が気体へと変化する時、その体積量は実に約1700倍という途方も無い倍率で変化する。
当然、こんな滅茶苦茶な体積変化をすれば容器からあっさりと零れるし、密閉空間で行ったらその空間を覆っている壁が破裂しても不思議ではない。
この状態変化による体積の膨張利用した物が、以前の蒸気機関の仕組みである。
「じゃあ、折角だからもう少し踏み込んでみましょうか。皆は、水って何で出来ているか知ってるかしら?」
「え?」
「水が……何で出来てるか……?」
「あの、ミラさん。水は水ではないのですか?」
「そう、まぁ水よね。でも、化学的な視点ではそれじゃ不正解ね。水っていうのは、ある二種類の物が組み合わさって出来てる物なのよ」
三人揃って頭を傾げている。
やっぱり、この考え方はこの世界じゃ馴染みが無いのでしょうね。
「この世にある全ての物質は、非常に小さな粒子で構成されている――これを、私の世界では原子論と呼んでいるわ」
「原子論、ですか」
「この世の全て?」
「そう。今私達が着てる服も、吸ってる空気も、そして私達の身体でさえ。その全ては数えるのも馬鹿馬鹿しくなるような途方も無い数の原子が無数に組み合わさって構築されているのよ」
「また何か、突拍子も無い話ね」
「この世界だとそうかもね。でも、私がいた場所じゃこの考えは一般的な考えなのよね。……で、流石にまだ皆には答えが分からないだろうから回答を教えておくと、この水って言うのは水素原子と酸素原子っていう二種類の原子が組み合わさった結果生成される物なのよ」
「水素原子? 酸素原子? また聞き慣れない言葉が……」
「まぁ、今はそういう物がある。そうやって出来てる。そう頭のスミにでも記憶しておいてくれれば良いわ」
原子の話は、掘り進めて行くと本来の大筋から脱線しそうになる。
踏み込むのはここまでにして、ちょっと話の流れを修正する事にする。
「まぁ、原子の話は今は余談だし。本来のお話に戻りましょうか。水を沸かす、これは燃焼によって発生した熱が水へと移動し水の温度が上昇、それによって水という液体が水蒸気という気体へと変化するこの過程と結果の事を言っている訳ね」
原子論的な意味で見るともっと細かい説明になるのだが、割愛する。
そこまで事細かく説明すると多分、ここにいる三人が付いてこれない。
化学的な知識が何も無いのだから、小学生に教えるつもりでいないと。
「こんな風に、実は意識してないだけで貴方達も既に化学的現象を生活の中で何度も繰り返しているのよ。分かったかしら?」
「えーっと、水っていうのはすいそ? とさんそ? ってのが組み合わさってて……」
「今すぐでも良いし、明日以降でも良いわ。何か疑問が浮かんだなら遠慮なく聞いて構わないわよ」
一先ず、今回はこんな物で良いか。
これで私と三人の間にある化学的視点の溝が少しでも埋まると良いのだけれど。
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