2.雪に閉ざされた地
柔らかい感触と温もりを感じ、私は目を覚ます。
目の前には乾いた音を立てて燃え盛る暖炉があり、
私は全身を布と毛布で覆われている状態だった。
ゆっくりと深呼吸し、自分の鼓動を確認する。
どうやら私はまだ生きているようだ。
まだ、生きていられるようだ。
全身を動かし、痛みが無い事を確認する。
怪我は無いようだ。
身体機能にも異常が無い事を確認し、
ゆっくりと身を起こし、周囲を見渡す。
木目の走った壁、古めかしい書物の収められた木棚、年季を感じさせる机と椅子。
机の上には燭台が乗っており、灯された蝋燭の火が室内をおぼろげに照らしていた。
少なくとも、私が今まで見てきた光景の中にこんな物は無い。
奥には扉があり、見付けるや否やというタイミングで扉が開かれる。
「――おや、目が覚めたようですね。お体の具合は如何ですか?」
若い青年の声だ。
腰の辺りを紐で纏めた深緑のローブを纏ったその男性は、静かな足取りでこちらに近付いてくる。
「家の近くで倒れていた貴方を見付けたので、介抱していたのですよ。身体が随分冷えていたので、ベッドではなく暖炉の前で寝て頂いてた所です」
目鼻立ちの整った好青年であり、髪は黒……いや、かなり濃いブラウンか。
目は青く、西洋系の風貌だ。
柔和な表情を浮かべ、丁寧な口調でこちらに話し掛けて来る。
「私の名はアランと申します、この村の村長を勤めさせて頂いております」
村長……て事は、ここはある程度人のいる集落なのか。
吹雪の中でおぼろげに見えた光の大元は、やはり人工的なものだったようだ。
どうやら、命拾いしたみたいね。
「もう身体は大丈夫でしょうか?」
「……大丈夫です、身体も温まりました」
心配そうにこちらの顔を覗き込んでくるアランに返答する。
「こんな場所に、そのような薄着で雪中行軍をするとは随分と訳有りのようですね」
「…………」
私の服装は辛うじて身を隠せる程度に纏った検診衣1枚。
そんな格好で雪原を歩いてる私は相当奇妙に写ったに違いない。
服をかっぱらって来れなかったから仕方ないとはいえ、そんな事は他人からしたら知りようが無い事だ。
「念の為お伺いしますが、逃亡奴隷ではありませんよね?」
「逃亡奴隷……?」
何の話だろうか? 今奴隷とか言わなかった?
「逃亡奴隷を匿った者は死罪と法で定まっております。貴女には申し訳無いですが、もし貴女が奴隷身分なのであれば、この家から追い出さなくてはいけません」
澄んだ青色の瞳をこちらに向け、険しい表情を浮かべるアラン。
「私は奴隷ではありません」
そう、私は奴隷なんかじゃない。
奴隷ですらなかった。
だから私は、逃げ出した。
身投げ同然ではあるが、私はこうしてここに生きている。
「……そうですか、それは良かった。私も良心の呵責に苛まれずに済みます」
嘘は無いが偽りはある私の言葉に納得したのか、
再び先程の柔和な表情に戻るアラン。
「何か事情がおありのようですね、そのままの服装では何かと不便でしょう。今衣服をお持ちしますのでそれに着替えると良いでしょう」
そう言い残すと、扉の奥に消えていくアラン。
少し現状を整理してみよう、
私はこの雪原に放り出され、村へ向かって歩いている最中に体力を失って倒れた。
それをこの村の村長であるアランに拾われ、今に至ると。
……思い出したくない過去の記憶を辿る。
私は、異世界に来る事に成功してしまったのだろうか?
それともこれは極端にリアルな走馬灯なのだろうか?
……いや、流石にそれはないか。
この温もりも、鼓動も。
そのどれもが現実であり、「私」の世界には無かったものだ。
それにアランという男は、先程奴隷身分という言葉を口にした。
それは即ち、この世界には奴隷という身分が存在する事の肯定。
私の世界には既に存在しない奴隷制度の存在、それこそがこの世界が異世界である事を物語っている。
考えに耽っていると、再びアランが扉から現れる。
「お待たせしました、一先ずこの服に着替えて頂けますか?お話はその後でゆっくりするとしましょう」
アランは私に一着の服を手渡す。
「では私は部屋から出ますね。着替えたら部屋から出て来て頂けますか?」
「分かりました」
再び扉を開け立ち去るアラン。
検診衣を脱ぎ、一糸纏わぬ姿になる。
手渡された、ゴワゴワしたえんじ色のローブに身を纏う。
腰紐を結び、着替えを終える。
扉を開けると、そこはリビングへと繋がっていた。
それなりに広く、壁に複数の燭台が備え付けられ、揺らめく火で室内を明るく照らしていた。
「お待ちしておりました、そこの椅子に腰掛けて頂けますか?」
中央に据えられた丸テーブルの奥にアランは座っていた。
促されるがまま、私は椅子に腰掛ける。
「そうですね、色々お聞きしたい事はありますが……まだ貴女のお名前をお伺いしてませんでしたね」
こちらに笑顔を向けながらアランは訪ねる。
「私の……名前……」
私の名前。
思い出したくない過去が蘇る。
これは、名前なのだろうか?
私に名前なんて、無いのではないか?
「……?」
不思議そうな表情でアランがこちらを見る。
だが、他に順当な名など思い付かない。
このまま逡巡し続けていても不審がられるだけだ。
意を決し、私は再びその呼称を名乗る。
「……ミラ。そう、ミラよ」
「ミラさんですか」
名前とすら呼べない呼称。
だけど、私が私である証。
嫌いな名前だが、それが与えられた名である以上、名乗らねば無礼だろう。
「話したくなければ結構ですが、どういう理由でこの村へ来たのですか?」
こちらに質問を投げ掛けてくるアラン。
どういう理由で、か。
素直に話しても、全く信じては貰えないだろう。
ここではない別世界の人物だなどと。
私がアランの立場で聞いたら、絶対に信じない。
「……道に迷ってしまって。遠くに光が見えたから、そこなら誰か居るんじゃないかと」
「……先程お聞きしたのですが、もう一度確認します。貴女は逃亡奴隷では無いのですね?」
「それは違います」
何度も確認を取ってくるアラン。
確かにみっともない格好だったけど、私は奴隷に見間違われたのか。
念を押されて確認されるが、再びキッパリと断言する。
「分かりました。これ以上貴女の過去の詮索は止めるとしましょう。貴女は他に行く当てはありますか?」
「行く……当て……」
そんな物は無い。
私には居場所なんて存在しない。
居場所が無いから、私はここにいるのだから。
「そんなのは、ありません……」
「……そうですか、少々お待ち頂けますか?」
アランはそう言い立ち上がると、奥の厨房に入っていく。
鍋から何かを食器に注ぎ、それをスプーンと共に私の前に置いた。
どうやらオートミールのようだ。
「ミラさん、貴女がこれから何をどうするかは自由ですが、それまでは私の家で暮らすと良いでしょう。生憎男の一人暮らしなので少々窮屈かもしれませんが……宜しいですか?」
「暮らす……ここに居て良いんですか?」
「貴女が宜しいのであれば。あ、ですが多少は家事の手伝いはして頂きますがね。働かざる者食うべからずですから」
アランは若干冗談交じりの口調でそう付け加える。
「私は……生きていて良いんですか……?」
「――この世に、生きていてはいけない命なんてありませんよ」
アランは、私の目を真っ直ぐに見つめながら、目を細める。
その視線は私というより、その先にある何か別の物を見ているようにも感じられた。
「さ、今日は寒いですから。早く食べないと冷めてしまいますよ」
「……頂きます」
アランに差し出された食事を食べる。
その料理は、今まで食べたどの料理よりもみすぼらしかったが、そのどれよりも温かさに満ちていた。
一体どれ程寝込んでいたのかは分からないが、完全な空きっ腹となった私には非常に美味しく感じられた
「ご馳走様でした、美味しかったです」
「それは良かった、ではこちらに来て頂けますか?」
椅子から立ち上がり、アランの指し示した部屋へ向かう。
丁度アランの座っていた席の後ろにあった扉である。
「この部屋を貴女の部屋として使って下さい」
アランに案内された部屋の扉を開ける。
両腕を一杯に広げても壁に手が付かない程度の狭い部屋に、
簡素なベッドと小さな机、椅子が備え付けられただけどシンプルな部屋だ。
「今日はこの部屋でお休みになって下さい。明日の朝になったら起こしに来ますので、それまではゆっくり身体を休めると良いでしょう」
私が部屋に入ったのを確認し、アランは扉を閉じる。
質素な食事と部屋だけど、私は嬉しかった。
あのアランという人は、私に生きていて良いと言ってくれた。
ベッドに潜り込み、目を閉じて今までの情報を整理する。
――恐らく私は、異世界に居る。多分そうだ。
五体満足で、辿り付く事が出来た。
だとすれば、私は晴れて自由の身になれたという事でもある。
前途多難だが、私は死なずに済んだ。
ここが何処だかは知らないけれど、私の人生はここから始まる。