180.置き土産
中枢部に寝床や机を引き込み、黙々と筆を動かす。
用意して貰った白紙の本に墨を走らせ、知っておくと便利な事、伝えたい知識を淡々と書き連ねる。
アザラシに餌をやる。
全てを伝えるには、余りにも私の時間は少ない。
故に、断片的でヒントにしかならないようなモノとして書き残すしかない。
アザラシが泳いでいるのを眺める。
食料も充分に用意出来ているし、寝床も用意出来た。
財貨も溜め込めたお陰で、一人暮らしするには困らず、豪遊しなければさして困るような事は無い程度にはある。
何か足りないようなモノが将来あったとしても、金を払えば買い上げる事も出来るよう、技術の水準も上げてきた。
アザラシが美味しそうに魚を食べている。
オリハルコンを入手出来た事により、地下拠点はもう私の手による補佐が無くとも稼動し、運営していく事が可能になっている。
既にこの地は私を必要とせず、また私もこの地に拘らずとも生きていけるようになったのだから。
――私が居なくとも、もうこの世界は大丈夫だ。
科学技術だけが断絶しているという、奇妙な構図も解消できた。
もう私が口出ししようとしまいと、世界は魔法と科学の両側面から発展、繁栄していく事だろう。
だから、今書いているこれはダメ押し、置き土産といった具合だ。
無くとも何れはこの地平まで辿り着くだろうが、そこへ辿り着くまでの時間を早める程度の仕事はしてくれるだろう。
「――だから、そろそろアナタもお別れの準備しないとねー」
まあ、このアザラシにとってはこの地の人々に対して感傷的に成る程の付き合いが全然存在していない訳だが。
私が拾ってきたのだ。
私が面倒を見なければならないだろう。
だから私は、このアザラシと共にこの地を去る。
……結構大きくなってきたわね。
泣き声も甲高い声から野太い感じの声に変化してきた。
何故かまだ白い体毛が生えたままだが、それ以外は私の良く知るアザラシ同様に成長している。
「さて……あと少し。さっさと書き上げてしまいますか」
アザラシと戯れ、心の安息を得た後に再び中枢部にて作業を続ける。
睡眠も充分に取った上で、私は数冊の本を完成させるのであった。
―――――――――――――――――――――――
「こんばんわ。アーニャさん、ルドルフさん」
「こんばんわぁ~」
「おお、ミラ! そっちから会いに来るなんて珍しいじゃないか。今晩は何用だ?」
リューテシア経由でルドルフ夫妻にコンタクトを取り、オリジナ村にある夫妻の自宅へと足を運ぶ。
こうしてこの場所を訪ねるのも、一体何年振りだろうか。
酷く懐かしい気分だ。
「――実は、近々この地を発とうと考えてまして。それで、そのご挨拶とちょっとしたお土産を持ってきました」
「お土産?」
「これです」
アーニャがお土産を気にしていたようなので、別に隠す気も無いのでさっさと渡してしまう事にする。
地下拠点にて黙々と書き記した一点物の書物、その一つをルドルフに手渡した。
この本には「時」の術式、及び氷魔結晶の魔力を利用して状態の停止状態にしてある。
原理としては、地下拠点を皮膜状に保護している術式と同様の理屈だ。
魔力が尽きるまで、この本は決して傷む事は無く、破壊出来ない。そして本を開く事も出来ない。
そして術式を稼動させる魔力が尽きれば、通常の本と同様の代物となる。
魔力量を調整し、私が望む任意のタイミングで魔力切れになるように仕掛けてある。
「……本だな……だが、何だこの本は? 開かないぞ?」
「そうですね。今はまだ開かないようになっています。その本には氷魔結晶を用いた術式を仕掛けておきました。若干誤差はあるかもしれませんが、大体30年位したら魔力切れになって普通の本として読めるようになるはずです」
「……ミラ。流石にそんなに俺は生きてられないと思うぞ?」
「このロンバルディア地方の衛生面、食料の栄養価といった面はこの数十年で大幅な改善が施されました。それに伴い、人々の寿命も大幅に伸びたはずです。ですから、ルドルフさんも老け込む位はあるかもしれませんが、死ぬ前に見れると思いますよ?」
まだルドルフ夫妻は50代位のはずだ。
そこから30年経ったとしたら、80歳後半。
皆が皆そこまで生きられる訳ではないし、充分老人の年齢であり、棺桶に足を突っ込んでいる状態であるのも否定出来ないが、それでも生きているのが不可能という年齢のハードルではない。
無論、ルドルフがそこまで生きていられるかどうかは、寿命と健康面での影響が大きいが故に断言は出来ないが。
「……わざわざこんな手間な状態で渡すって事は、中身は教えてくれないんだな」
「そうですね。それに、わざわざ30年なんて長い猶予期間を設けているのも、その30年の間により技術が向上し、魔法や科学技術水準が上がった状態――そうなった状況で読む事で身になるように、という考えですから」
「だが、その頃にはもう俺は生きてたとしてももう新たに何かをする気力は無いぞ。それは流石に断言出来る」
「――これだけ大きな店を構えたのに、ルドルフさんの代だけで終わらせるんですか? 流石に、そんな勿体無い事はしませんよね?」
石鹸を発端とし、そこから続いたルドルフとの長い付き合い。
そのお陰で私は財貨を溜め込む事が出来たし、現状唯一無二の商材を扱った事で元々大きかったルドルフ商会は文句無しの大企業へと成長を果たした。
そんな商店が、一代限りで店仕舞い――そんなのは、最早経済が許してくれないはずだ。
無論、そんな事は商人であるルドルフが知らない訳が無いだろうが。
「継いだ二代目に教えてやれば良いんですよ。無論、30年後にそれをルドルフさんが読み、それを教えるか否かはルドルフさんに任せます。不要と判断するなら、誰にも教えずそのまま焼き払っても構いません」
「良いのか?」
「まあ、これは今まで世話になった礼ですので。ささやかだとは思いますけどね」
「いやー……ミラのささやかはあんまりあてにならねえからなぁ……」
「そういえば、ミラちゃんはここを発つって言ったけど。何処へ行く予定なの?」
「――遠くです。ずっと、ずーっと遠くに……ですから、もう一度二人に会うのは不可能だと思うので。これは、お別れの挨拶と思ってくれて構いません」
「……分かった。この本は、確かに受け取った」
「玄関の立ち話で手短に済ませて申し訳ありません。今日中に後はアランさんの宅に伺いたいので、これで失礼します」
「分かった」
「何処へ行くのかは分からないけどー……元気で暮らしてね、ミラちゃん」
「はい。それじゃあルドルフさん、アーニャさん。これで失礼します、お元気で」
恐らく、これが最後の顔合わせとなるだろう。
二人に手を振り、別れを済ませる。
既に日が沈みつつあるが、長話する気も無い。
この村の村長である、アランの自宅へと向かうべく早足で歩を進めるのであった。
―――――――――――――――――――――――
アランの自宅へと足を運んだ所、立ち話も何だという事で室内へと招かれた。
そこまで長話をする気も無かったのだが、オリジナ村で訪ねる場所はもうこのアランの場所で最後だ。
部屋の様子は、私が始めてここに拾われた頃から然程変わっていなかった。
多少、技術進歩によりモノが増え、生活水準が引き上げられた感じはあるが、根っこは特に変わっていない。
「――思えば、アランさんに拾って貰えなければ、私は何も成す事も出来ずに死んでいたでしょう。ですから、アランさんにこの命を拾って頂いた事、本当に感謝しています」
フレイヤのエネルギー残量が完全に枯渇し、着の身着のままの状態で冬のロンバルディア地方に投げ出された。
アランがその手を差し伸べてくれなければ、私はそのまま凍死していたであろう事は疑いようが無い事実であった。
「感謝なんて……感謝というのであらば、ミラさん。私こそ、貴女には感謝してもし切れません」
目を伏せ、昔を思い返すかのような口調でアランは続ける。
「食うのが精一杯の、このような流刑地同然の厳冬の地で。科学の力という技術で、ここまでこの地は豊かになりました。飢えという死の歩みを完全に退け、聖王都にも負けぬ程の大都市を築き上げ、そこまでを一日程度という距離にまで縮め――雪と凍土の支配する地で、ここまで過ぎた繁栄を得られたのはミラさん、貴女のお陰ですよ」
「これは、全部私の為にやった事なので。そこまで賞賛される事でもありませんよ」
そう、私の為なのだ。
だからそこまで絶賛されると少々こそばゆい。
「……それで、このお土産という本は一体何なのでしょうか?」
「これは、20年後に解除されるようになっています。読んでも良いし、読まなくても良い。誰かに渡しても良いし、誰にも見せずに闇に葬るも良し。扱いは、アランさんに任せます」
アランにも、この村に流れ着いた直後にお世話になった。
当時を知るからこそ、彼が用意してくれた寝食がどれだけ貴重で有難いモノだったのかが良く理解出来る。
「それが、私なりの礼です。ささやかですが、是非とも活用して下さい」
「分かりました。有難く頂きます……旅立つと仰いましたが、もうここに戻る事は無いのですか?」
「恐らく無いと考えてます。ですから、これでお別れだと思ってください」
私は、長居し過ぎたのだから。
「ならば……さようなら、と言った方が良いのでしょうかね」
「ええ、そうなりますね」
「なら、さようならミラさん。貴女のお陰で、幾度と無く救われてきました。ありがとうございました」
「――では、アランさん。私はこれで失礼します、さようなら」
別れの挨拶を済ませ、私はオリジナ村を後にする。
ソルスチル街へは、寄らない。
ルークには事前に予定を合わせて貰い、地下拠点に足を運んで貰う事にしたのだ。
無論、ルークだけではない。
長年世話になった人には、全員挨拶していくつもりだ。
――今生の別れ、になる人物もいるのだから。




