129.ミラちゃんの化学教室:生物と食料編
ルークやルドルフの伝手を利用し、私はソルスチル街にて一番大きな倉庫を一日借り受ける事にした。
元々資材置き場として使われていたそうだが、ファーレンハイト領末端まで伸びる路線が開通した事で無理にここに資材を溜め込む必要が無くなった事と、資材置き場は複数個所存在しているので線路から離れた位置に存在しているこの倉庫は現状使われていないそうだ。
なので今回はここで講義を行う事にする。
「――ねえ、ミラ。もしこれで人が集まらなかったらどうする訳?」
「この部屋を一杯に、なんてのは考えてないわよ。ゼロじゃなきゃ良いのよ」
少々心配そうに訪ねてくるリューテシアにそう答える。
私がこれから行うのは、水面に小石を放るだけだ。
結果、大なり小なり波紋が起こる。
後はその波紋が伝播して、世界中に広がればそれで良いのだ。
最初に起きる波が小さいか大きいかは、伝達速度の差にしかならない。
「お待たせしましたミラさん」
リューテシア、リュカ、ルナール、リサは既にこの倉庫に来ていたが、一番最後にやってきたルークが数十人の人数を引き連れて倉庫に現れた。
「彼女が、私達の師匠であるミラさんです」
「師匠って……子供じゃないか」
「見た目はそう見えますが、その知識は確かですよ。それで、今日は何を教えて下さるのですか?」
「んー? ま、今日は保存食と腐敗に関して話そうと思うのよ。食べ物は身近な存在だから、取っ掛かりとしても十分でしょうからね。……それにしても、随分多いわね」
ニ、三十人位か?
思っていたより来たわね。
「興味がある人だけですけれどね」
「ま、何でも良いわ。それじゃあさっさと始めるわよ」
多い事は多いが、別に用意した席が足りなくなる程ではない。
なので全員に着席して貰う。
席にはペンが用意してあり、羊皮紙ではない大量に製作した安価な紙も用意してある。
この紙は来た人全員にプレゼントする予定だ、原価はほぼゼロだから渡しても何の問題も無いしね。
黒板とチョークを用意し、文字を黒板に書きつつ説明を開始する。
全員に見えるように黒板を少々高い位置に配置した為、私の背丈では届かない。
ちょこちょこ足元の踏み台を移動させながら黒板に書き連ねていく。
「――それでは前振りの通り、保存食の作り方を教えようと思います」
「保存食と言いますと、干し肉等の事ですよね?」
「そうよ。干し肉って、名前の通り干した肉の事よね? じゃあ、どうして肉を干してるのか理由は分かるかしら? 分かる人がいれば挙手してね」
そう問いかけるが、誰一人として挙手する者はいない。
「肉を干せば保存期間が延びる、これは確かな事実よ。でも、どうして生の肉と違って干し肉が長持ちするのか、その詳しい理由なんかは分かってないんじゃないかしら?」
恐らくこの世界の人々はなんとなく、でやっているだけであって。
科学的にそうなると分かっていてやっている人はいないのだろうが。
「今回は、保存食を科学的な視点から見て説明して行くわよ。これは私達の生活にも密接に関係してるだろうから、知って置けばためになると思うわよ」
黒板にチョークを走らせ、食べ物が腐る理由、その原因を説明していく。
「食料の腐敗っていうのは、大気中に存在する目に見えない位小さな生物、微生物が繁殖する事で発生するのよ。でも、細菌は私達と同じく生物の一種に過ぎないわ。生きていく為には栄養が必要だし、快適な温度が必要だし、水分も必要よ。逆に言えば、これらの要素を意図的に排除出来れば腐敗までの時間を大幅に延ばす事が出来るのよ。干し肉が保存食としてこの世界で食べられてるのは、そういう理由があるからよ」
「微生物? なんだいそりゃ?」
「目に見えない物を話されてもなぁ……」
観客の一部から、疑問が噴出する。
「微生物は、肉眼では確認出来ない程に小さいわ。でも目で見えなくても、確かに存在するのよ。貴方達は、目で見えないからって精霊様が存在しないと思うのかしら?」
観客の疑問に答えるべく、この世界の人々の間に根付いている、精霊という存在を持ち出す。
精霊という存在は、この世界にて精霊教なる宗教を発足させる程に神格化されている。
目に見えないからいない、と言ってしまえば精霊を否定する事になる為か、観客は口を噤む。
……精霊の実態を知ってる私からすれば、精霊が神様だなどと失笑しか起きないが。
「地面を歩くアリだって十分小さいでしょう? あれだけ小さい生物がいるなら、もっと小さい生物がいたって不思議でも無いわよね?」
「そりゃまあ、確かに……」
「それとこれは余談だけど。ラーディシオン領って知ってるかしら?」
「ラーディシオン領……確か、ファーレンハイトとレオパルドの両国から海を隔てて対岸に存在する大陸ですよね?」
ルークが質問に答える。
ファーレンハイト領とレオパルド領は、要害の存在を無視すれば、地続きの地形である。
しかしながらこのラーディシオン領というのは、完全に独立した大陸であり、海を横断する以外で移動する手段は存在していない。
そんな土地故か、ラーディシオン領は遥か昔から流刑地として使われている。
隔離された土地という意味でもあるが、理由はもう一つある。
「あそこ、日中は暑くて夜間は凄く寒いのよ。しかも水分に乏しい乾燥した砂漠地帯、植物もロクに生えてないわ。だから、ラーディシオン領って細菌が生息出来ない、つまりこの世界の中でも最も清潔な環境の一つだったりするのよね」
人間が生きるには過酷過ぎる地というのは、細菌にとっても過酷なのだ。
「……おっと、話が逸れたわね。微生物が生きる為には、水が必要。水分が無ければ、微生物は活動出来ない。そして干し肉っていうのは、水気を飛ばして乾燥させて出来上がるの。だから、干し肉は普通の肉と比べて格段に長持ちするのよ」
「水分が原因、ですか……」
「ん? じゃあもしかして、肉に限らず食べ物は何でも水分を無くしてしまえば腐らないって事?」
「そういう事になるわね、微生物が活動出来なくなってしまうからね」
水分を飛ばすにはこの世界でも行われている天日干しが有効だ。
また、煙で燻す燻製もまた水分を飛ばす作業を行っている。
「栄養、温度、水分。食料を保存する上で最も重要な項目はこの三つよ。この三つの内どれか一つを排除出来れば、決して食料は腐ったりしないわ。……ただ、私達が食料を食べるのは、栄養を取る為よ。栄養の無い食料なんてのは無いから、この三つの内栄養を排除するのは不可能よ。よって、食料を長持ちさせるには水分か温度、この二つを意図的に潰す必要があるの。一番簡単なのは、水分を飛ばす方法ね。これは、日干ししてしまえば形になるからね」
「なんだ、結局日に当てて干してしまえば良いだけなんじゃないか」
観客の一人から、落胆したような声が飛んでくる。
ま、確かにそうなんだけど。日干しだけじゃ不十分なのよね。
「だけど、日干しで水分を飛ばして食料自体の水分を無くしても、周りの空気中に存在している水分を排除する事が出来ないと結局食料は腐ってしまうわ。雨の日でも食料を水分に晒さずに保管する方法、思い付くかしら?」
「それは……容器の中に入れておくとか?」
「その容器にも水分が含まれた空気が既に存在しているのよ? 容器の中にある空気中の水分まで排除しないと、長期間保管は出来ないわね」
「そんな事、出来る訳無いだろ!」
出来ない事は、無いのよね。
「永久的に、とはいかないけれど。容器の中の水分を限りなくゼロに近い状態にする方法は存在しているわ。酸化カルシウム、というのが水分を排除するのに便利な代物よ。この酸化カルシウムという物質は、周りの水分と結合する性質があるのよ。だから、大気中に存在する水分を次々と吸着させていくから、密閉した空間に入れておくと空気を簡単に乾燥させられるのよ」
「えっ? ねえミラ、酸化カルシウムの存在を教えちゃって良いの?」
驚きの表情を浮かべるリューテシア。
別に良いのよ、これ位。
「水分を吸収した酸化カルシウムは、水酸化カルシウムという別の物質に変化するの。そして水酸化カルシウムは、高温で焼却する事で再び酸化カルシウムへと元に戻るわ」
「さんか、かるしうむ……?」
「何か良く分からないなぁ、一体何なんだそりゃ?」
化学物質の話になった為か、観客達が一斉に疑問符を浮上させる。
「聞き慣れない単語だと思うけど、この水酸化カルシウムという物質は、海岸に面しているこのソルスチル街ではタダ同然で入手する事が出来るのよ? それに、ここで暮らしてて見た事が無い人なんて一人もいないはずよ」
「全員が見た事がある? 一体何なんだ、その、水酸化? カルシウムってやつは」
「――貝殻よ。食料である貝の具はどうでも良いの。貝殻の成分は水酸化カルシウムという物質なの。食べた後の貝殻を高温で焼却する事でこの酸化カルシウムを入手する事が出来るわ」
「ほぉ、一体全体どんな摩訶不思議な代物なのかと思ったが、貝殻なのか」
「貝殻にそんな使い方があったとはなぁ……」
手を打ち鳴らし、ざわめく観客達を静まらせる。
「天日干しして水分を飛ばして、袋詰めした酸化カルシウムと一緒に瓶に入れて蓋をして、徹底的に水分を排除。これなら年単位保存も行けるわ」
「一年持つのか!? 食料が!?」
「ええ、持つわよ。流石に十年とかは無理だけどね」
完全に密閉しているつもりでも、少しずつ外気は入り込むものだ。
その僅かな水分を酸化カルシウムは吸着してくれるが、酸化カルシウムも無限に水分を吸着する訳では無い。
その全てが水酸化カルシウムに変化してしまえば、もう水分をそれ以上吸収する事は無い。
そうなればやはり食料は腐ってしまうのだ。
「――そして、食料を限り無く永久に近い時間、腐らせず保存し続ける方法も存在するわ」
「え、永久っておいおい、そんなの無理に決まってるだろ」
「可能よ。それがもう一つの要素、温度を奪う――つまり、冷凍ね」
極端に熱いか極端に冷たいか、そのどちらかの状態になれば細菌は生息出来ない。
加熱する方針だと食料のタンパク質が変質してしまうので、基本的には冷却するのが保存食の基本である。
「食べ物を凍らせてしまえば、活動に必要な温度が存在しない事で微生物は活動出来ない、つまり腐る事は無いわ。だけど、何も考えずに凍らせれば良いって訳じゃないのよ? 食料を保存する為に凍らせるなら、しっかりとした方法を取る必要があるのよ」
「しっかりとした方法?」
「漠然と凍らせてしまうと、栄養や風味が損なわれてしまうのよ。いくら腐ってないって言っても、ドロドロベチャベチャの魚なんか食べたく無いでしょう?」
凍ってしまうと食べ物を痛めてしまうのだが、それには理由がある。
食物が凍った際に、組織内に存在している水分が氷の結晶へと変化する。
水が氷へと変化する際、体積が増える。この体積が増える現象故に、増えた体積分周りの組織を圧迫、破壊してしまうのだ。
観客達に実験を交えて、どうしてただ凍らせるのが駄目なのかを説明する。
水を並々と入れた瓶を用意し、瓶に蓋をする。
しっかりと密閉した後、リューテシアにお願いしてこの瓶の水を魔法で凍らせる。
当然、水の体積は膨張し、瓶に収まり切らなくなった氷は容器自体にヒビを走らせ破損させてしまう。
「――と、このように周りを圧迫して破壊してしまうわ。食品を凍らせた時にも同じ現象が起きるのよ」
これが、何も考えず冷凍・解凍した食料に起きる現象である。
食べ物が軟らかくなっているのは、細胞が破壊されてしまっているからなのだ。
「――だけど、水分が凍るって言ってもさ。乾燥させて水分飛ばしちゃったら凍る水分が無い訳よ。つまり、食べ物を痛めないって訳」
全く変化しない、という訳では無いが。
この冷凍という保存手段の便利な点は、加熱して殺菌し保存する手段と比べて、ビタミン類を失わないというのが大きな点である。
干し肉ばかりで腹を満たすような事態になれば、下手すれば壊血病という恐ろしい病気も引き起こす。
だがドライフルーツでビタミンを摂取出来れば、保存食まみれの生活になっても栄養バランスを損なう事も無いという訳だ。
また、細胞を破壊する現象となる氷の結晶は寒過ぎると逆に成長し辛くなるという特徴もある。
水分が残っていたとしても強烈な低温で冷凍すると、細胞を大して痛めずに凍らせ、引いては風味や栄養を失わずに済む。
それらを踏まえると――
「――良く乾燥させて密封した食料、これを強烈な低温に晒して一気に急速冷凍する。その後、ずっと冷凍し続ければ細菌の繁殖は皆無と言っても良いレベルまで抑え込めるわ。そして低温で保存し続ければ、限り無く永遠に近い期間保存し続ける事が可能になるわ」
「……冷凍、っていうのは以前ミラが私達に作らせた冷凍庫っていうので良いんだろうけど……」
「それでも良いんだけどね。こういう保存食って大規模な量を保管しないといけないでしょ? それだけの規模の冷凍庫となると、魔力消費量がハンパじゃなくなるわ。だから、ここは自然の力を借りる事にしましょう?」
「自然の力?」
「さて、ここで問題です。一瞬で物が凍ってしまう程に寒くて、しかも一年中氷が溶ける心配がない、常に寒い場所。……皆は記憶に無いかしら?」
この謎掛けの答え、そこに一番最初に辿り付いたリューテシアは声を挙げる。
「――あーっ! ファルファ村の事!?」
「正解よ。乾燥させた食料の瓶詰めを作って、蒸気機関車に乗せられるだけ乗せてファルファ村へ出発。道中、凍らせないように室内を暖めつつ向かう。ファルファ村に到着したら、瓶詰めを置いてある貨物車の扉を一気に開け放って外気を取り入れる! 瞬間冷凍を目指すから、ファルファ村が最も寒い時期が望ましいわね。後は、そのままファルファ村に食料を保存してしまえば良いわ」
「本当に年単位の保存が可能なら……豊作の時の食料を全部保存食にしちまえば、不作による飢饉も起こらねえんじゃねえか?」
「このミラって子供の話が本当なら、大発見だぞ!?」
観客達が一斉に騒ぎ始める。
この方法を行えるのは、単にファルファ村という極限地帯まで路線を延ばしてくれたアレクサンドラと作業員達のお陰である。
「勇者様が敷いてくれた路線様様ね」
「あんなただ寒いだけの場所にそんな使い方が……」
「寒い地域も極まれば使い道は生まれる物よ。何事も発想が大切なのよ、皆も肝に銘じておきなさい」
年単位で保存出来る食料が生み出せる。
これはこの世界の食糧事情を大きく変える出来事である。
こうして備蓄出来るようになれば、飢饉への強い抑止力となってくれるだろう。
手を打ち鳴らし、再びざわめく観客達を静まらせる。
「ファルファ村も、寒過ぎて細菌が生息出来ない、この世界の中でも最も清潔な環境の一つよ。これだけお膳立てすれば、そりゃ食べ物が腐る余地無いわよね。さて、それじゃあ最後にもう一つの保存食、塩漬けの説明をして私の講義は終わりにしようかしら」
「塩漬けか、それなら俺も食った事があるな」
観客の一人が声を上げる。
干し肉や塩漬けなんかはこの世界にも存在している。
しかし、干し肉と比べ塩漬けは安くない塩を大量に消費して作るので、あまり数は出回っていないのだ。
「塩漬けも干し肉同様、長持ちする食料だというのは皆さんも知っていると思われます。これが長持ちするのも、食物を腐らせる細菌から水分を奪い取って活動出来なくさせるからよ」
「……ん? ちょっと待て。俺が以前食った塩漬けは、思いっきり水を含んでたぞ? 乾燥させないと食べ物が腐るってなら、おかしいじゃないか」
観客の一人から、疑問が投げかけられる。
良いわね、そういう疑問が浮かぶのは大切な事よ。
「それは、水分活性っていうのが原因ね」
「また、何か聞き慣れない言葉が……」
「微生物という食物を腐らせる存在、コレも私達と同様、生物の一種。それはもう散々説明したわよね? 生物なのだから、生存や活動には絶対に温度、水、栄養の三要素が必要になるの。この内、どれか一つでも欠けてしまえば活動不可能、最終的に死亡してしまうわ。塩漬けは、この三要素の内の一つである水を潰す行程なのよ」
「いやだから、塩漬けには水が入ってるじゃないか」
「――それは、本当の意味で『水』なのかしら?」
「どういう事だ?」
「例えば、私達は海水を飲んでれば真水を飲まずとも生きていけるかしら? 答えは当然、ノーよね? 海水を飲んでもそれは水分を取った事にはならない、むしろ飲んでしまうと更に喉が渇いてしまうわ。私達が生きるには、塩水という混じり物の水ではなく、純粋な水が必要なのよ。それは微生物にとっても同じ事よ、純粋な水を飲めなければ微生物は死んでしまう、だから塩漬けという食べ物が存在しているのよ」
細菌には活動に利用出来る水と出来ない水が存在している。
塩漬けに使われている水は、その利用出来ない水という事だ。
強烈な塩分濃度故に細菌は生息出来ず、またその塩分が食物の中の水分にも浸透する事で、食べ物から完全に水を奪っているのだ。
塩漬けと同様の仕組みで保存している食料としては、ジャムなんかが存在してる。いわゆる、砂糖漬けである。
あれもまた強烈な糖分濃度で純粋な水を排除し、細菌が生息出来ない環境を作り出しているのだ。
「――以上。これが科学的視点から見た食べ物の腐敗する原因、及び保存食の栄養や風味を損なう事無く効率良く製造・保存する方法よ。このソルスチル街では新鮮な魚が取れる訳だし、今日学んだこの知識を活用して、折角だし保存食でも作ってみれば良いんじゃないかしら? 漁は何時も豊作、なんて保証は何処にも無いからね」
保存食に関する教鞭を降ろし、私はさっさと倉庫を後にする。
これで種は撒いた、この知識を生かせば更に保存食の質が上がるだろう。
少なくとも干物と塩漬け位しか存在していないこの世界の保存食事情は劇的に変化するはずだ。
後は、保存食の進化は時間の流れに任せるとしましょうか。私の知らない所で勝手に進化していってね。




