痛みの中の私たち
私は、月に一度やってくる鬱陶しいイベントに苦しんでいた。一部分の痛みが全身を支配している。女特有の腹痛イベント。一般的には月経やら生理やらと言われるが、多くの女は恥じらって呼び名をにごす。女の子の日。アレの日。ハッピーデイズなんて楽しい呼び方をする人もいれば、私の友人は、真っ赤な子宮を垂れ流す日っなんてグロテスクな表現をしてくる。
青白くなった顔に、じんわりと汗がにじんでいく。ひゅるるぅひゅるるぅと苦しそうに息を吐く。かさついた唇が喉の渇きを訴えている。でも水を飲めない。下腹部が痛いのだ。冷たい水は刺激して痛みを増す。湯を沸かしさえすればいいのだが、立ち上がるという動作がまた痛い。手で腹を押さえ胎児のように膝を曲げてまるまったまま気力を奪われている。布団にすっぽりもぐって泣きそうな顔でこの何とも言えない痛みを耐え続けなければならないのだ。だが、一日中というわけではない。痛みには波がある。激しく痛むとき、それは全く一歩も動けなくなるが、数十分後には、さっきの痛みとは何だったのかと思うほど動き回ることができる。今の私は、痛みに支配されている。痛くてたまらない。子宮の内側で何かが内臓をねじっているにちがいない。その鈍い痛みは、じっとしてもいられない。膝の内側をこすり合わせて我慢している。痛みの波が過ぎれば、また動ける。波がすぎるまでの辛抱だ。痛みの波がすぎるのを早めるコツというのを私は独自にあみだしていた。それが脳内で遊ぶというもの。つまり、妄想だ。何かに夢中になると痛みがいつの間にやらどこかへ消え失せている。だが今は体を動かして何かに取り組む状態ではない。そこで妄想とは動かず夢中になれる為、まさに適している。私はTVドラマのワンシーンを痛みから連想していくことにした。
(「痛みの中の私たち」執筆途中)
何かを書いたことがなかったから
なんとなく、書いてみたかった。