6
六、
私たち第五五派遣隊の北洋州分遣隊が駐屯する高泊市は、シェルコヴニコフ海を望む広い湾に面していた。一年を通して風が強いため、街を望む丘陵には笹の葉がびっしりと自生していて、背の高い木々はほとんど生えていない。それでも、こうした荒れる気候に強い庫裏流諸島原産の桜や、入植者が植えた広葉樹や針葉樹の類が、防風林のように続くのだ。
人口四十万人。
北洋州と海峡を挟んでこちら側、椛武戸と呼ばれるこの南北九〇〇キロに及ぶ島の中で、北緯五〇度以北の同盟国領土をひっくるめても、椛武戸の中心都市・富原市に次ぐ人口と規模を誇っている。これより都会を探すとすると、北洋州本島の私の故郷、柚辺尾市まで南下しなければならない。港からは大型フェリーが何隻も行き来し、帝国海軍の停泊地にもなっている。市街地は丘陵地とわずかに開けた海岸線の平地にあり、夜は高台から望む夜景が名物だ。陸軍の駐屯地は、中心部から車で十五分程度、市電なら三十分弱ほど離れた丘陵地の中腹に位置している。
ほぼ十日ぶりの「帰還」だった。砺波大尉の七七式汎用ヘリコプターに便乗し、到着した頃は日が傾き、街の灯りが瞬いていた。私はどうにもこの時間帯が苦手だった。それを南波に言っても理解されないだろう。そして理解しようと努力する過程で、私が彼に説明しなければならないその雑多な手間を考えると、なおさら南波に話そうとは思わなかった。それに彼も私の身の上話には、興味を抱かない。戦闘地域から離れればなおさらだ。
リポートは携帯電子端末でも作成できたが、ひとまず三十分程度、私と南波は上官に口頭での報告と説明を行った。そして任務終了が告げられた。この作戦における私たちの任務は、ここで完了というわけだ。
一週間以上着たきりの服をすべて脱ぎ洗濯室に出すと、私は浴室で全身を洗った。髪を洗い、全身の汚れと匂いを落として、私は気分がよくなった。浴室を出てスウェットに着替え、談話室を通りかかると、ソファに南波がいた。
「よお、姉さん」
サイダーの瓶がテーブルに載っていた。彼もさっぱりした顔をしていた。
「飯、喰ったか」
「いや、」
「余り物だけど、もらえるぞ。食堂に行ってこいよ」
「もう休みたいんだ」
「そんなことだろうと思った。ここへ来いよ、」
南波は傍らからスチロール製の容器を差し出した。
「もらってきた。食べるといい。姉さん、痩せたぜ」
「それはありがたい」
何がありがたいのか。痩せたことか。食べ物のことか。言っていて自分でよくわからなかった。
談話室には南波の姿のほか、兵士が数名いた。全員が五五派遣隊の隊員だ。この建物は派遣隊がすべて使用しており、一般隊員の姿はほとんど見られなかった。向こうもこちらも、互いを意識的に意識しないようにしている。五五派遣隊が「特殊」なのはそうした性向の隊員が多いことに尽きるかもしれない。
「やるよ」
南波の隣に腰かけると、別のサイダーの瓶を渡された。瓶はうっすらと汗をかいている。南波が栓抜きで開けてくれた。
「グラスはないからな。そのまま飲んでくれ」
瓶をあおった。強い炭酸。南波は炭酸飲料が好きなのだ。コーラにサイダー、その類をよく飲んでいる。酒を飲んでいる姿は見たことがないから、アルコールがダメなタイプなのかもしれない。
「蓮見准尉が生きてたぞ」
南波も瓶をあおりながら、言う。
「本当か」
「樋泉大尉に聞いた。風連と縫高町の途中の国道で救出されたそうだ」
「中隊はどれくらい生き残ってるんだ?」
「三分の一ってところだろうな」
「三分の一か。それは全滅だ」
「そうだな、全滅だ」
「でも、発電所は取り返した」
「そうだな。縫高町もあんな形だが、制圧したしな」
「成功か、」
「どうだか」
南波は瓶を天井まであおり、サイダーを飲み干した。喉が鳴ったのが分かった。
「次の作戦指示、もう聞いたか」
「明日聞く」
「俺もだ」
「次があるってことだよな」
私も飲む。淡い緑色のガラスの瓶。懐かしい。夏休みの味がした。
「そりゃ、あるだろう」
「戦況は、どんな様子なんだ」
「高泊がここまで平穏なら、悪くないんじゃないのか」
「楽観的だな」
「戦況なんて俺には関係ないからな……ひとつひとつの任務がすべてだろう、姉さん」
そのとおりだった。私たちは戦車部隊が激突する最前線にも、戦艦が艦砲射撃をする上陸作戦にも、表だっては参加しない。あくまで、メインイベントの直前だったり、直後だったり。私たちはキャンプファイアの火付け役か、火消し役か、あるいはキャンプファイアが「ここにあるぞ」と知らせたり、さもなければよその団体が火を点けようとしているところを、消してしまうとか、そういう役回りばかりなのだ。そして、キャンプファイアの周りで手をつないで踊ったりなど絶対にしない。
「とりあえず、姉さん……入地准尉」
ふと見た南波の横顔はやはりげっそりと痩せていた。石鹸の匂いが漂っているのがアンバランスだ。
「しっかり寝てくれ。明日は指示を受けたら半日はオフだ。しっかり休もう」
「了解。……まだここにいるのか」
「なんだか、脳みそにやすりを掛けられた気分だ。Iidでも見るさ。新作が配信されているかもしれない。チェックしなくちゃな。ウェルカム・トゥ・日常世界って奴だな」
「北方戦役のニュースが割り込みで入ったらどうするんだ」
「一般市民のつもりで見るさ」
「……おやすみ、南波少尉」
私は飲み干したサイダーの瓶と南波から受け取った容器を持って、立ち上がった。
南波は私を見ることなく、電源の入っていないモニターをじっと睨んでいた。
午後の風は穏やかだった。
海流の影響か、高泊は風は強いが比較的冬が暖かい。ただし、夏はその分なのか、冷涼だった。今朝の空はどこまでも澄んだ青い色で、陽射しが気持ちよかった。
私服に袖を通したのは相当に久しぶりだった。IDを警衛に見せ、私は駐屯地を出た。ゲートの向こうは、埃っぽいが穏やかな日常がどこまでも続いていた。昨日までの「私たちの日常」を無理矢理思い出させようとするのは、空軍の戦闘機の爆音だ。おそらくは哨戒飛行に向かう戦闘機。ただ、高度がかなりあるので、探そうと思って見上げないかぎり、音のした場所に首を向けても、機影は見えなかった。CIDSを装備しない外出。戦闘情報も脅威判定も表示されず、サブ窓も開かない視界。私は度の入らない赤いフレームのメガネをかけて、小さなショルダーバッグを肩から提げ、通りを歩く。髪型も作戦時とは変えてある。できるだけ同年代の女性と同化できるように。似合わないのを承知で言うなら、「かわいらしく」見えるように。なるべく「戦士」に見えないように。それでも、見る人間が見れば、私たちの職業など一目瞭然だという。姿勢が違う、歩き方が違う、何より視線が違う。
駐屯地は州道に面している。ゴトゴトと路面を響かせながら、市街電車がやってくる。坂がちなこの街にあって、市電が縦横に走っているのは私から見るとめずらしかった。私の故郷の柚辺尾にも市電がある。路線延長は高泊よりもずっと長い。が、柚辺尾は河口近くの広大な平野に開けた街で、高泊と比べると圧倒的に起伏がなかった。高泊の市電は、真冬でも、凍りついた軌道の上を、なんでもないようなそぶりで、ゆるい坂道を上っていくのだ。
CIDSも4716自動小銃もMG-7Aセミオートマティックも一切合切所持しない身軽な私は、しかし携帯電子端末はコートのポケットに入っている。しっかりランヤードで身体と固定されて。あくまでもこれは端末であり、「本体」は軍の管理する電算機のどこかにあるのだろうが、これが私の身分を証明してくれる。そして、電車に乗るにもこれが必要なのだ。決済機能も内蔵しているからだ。機能や形、メーカーは様々だが、民生版を市民のほとんどが持っている。通話もできるし、一秒と狂わない時計もついている。あらゆるメディアと通信ができる。むしろ所持していないデメリットのほうが大きい。私の持っているそれが一般市民が携帯するものと多少違うとするなら、堅牢性と、対電子防御機能が奢られている点だろう。電子戦機によるECMを受けようが、上空一〇〇キロで戦術核兵器が炸裂しても、私のターミナルパッドは決して沈黙しない。バッテリーもCIDSと同じ、固体高分子形燃料電池で駆動、民生品よりはるかに長時間、すべての機能がフル稼働するのだ。その分ちょっとだけ重いのは許容範囲にしておこう。ちなみにこれは官給品。もし私が軍を辞めたら、これも制服や装備のたぐいと合わせて返却しなければならないし、紛失すれば始末書を覚悟しなくてはならない。
停留所は砂っぽかった。昼過ぎ、平日。こんな時間に電車を使うのは、のどかな一日を信じて疑わない人々だ。およそ戦争中とは思えなかった。戦域の南端までは三〇〇キロ。戦闘機なら三十分足らずで到達してしまう距離なのに、恐ろしく穏やかだった。月に一度の防空訓練が実施されるが、それは柚辺尾の街でもそうだったし、都野崎でもそうだったから、特段この街が最前線に近いという空気は感じられない。軍人の姿がやたらと目立つのは、海軍の停泊地があり、陸軍の駐屯地があり、郊外に空軍基地があるからだ。それ以外はまったくもって国内の地方都市の風景と変わらない。任務から帰還した翌日、私はこの落差にいつも戸惑うのだ。そして、この戸惑いを経験しなければ、私は私に戻れない。
海外旅行から帰ってくると、自分の国の風景に違和感を抱くという。私はそれほどの長期間、旅行をしたことがないのでよくわからない。この話をしたのは丹野美春だ。電車を待ちながら思い出す。日常で経験した記憶は、非日常の世界より、こうした日常世界へ帰還してからのほうが思い出しやすい。
(あのね、話す言葉から、まず変な感じがするの)
あれは南沢教授の研究室だったか、いや、学生食堂だっただろうか、紀元記念公園だったろうか。このあたりが曖昧だ。それでも丹野美春の声は鮮明に思い出せる。
(きっと、頭の中には、言葉の切り替えスイッチがあるんだと思う。それまでは湾口域の言葉で考えていたのに、いきなり空港のゲートを出るとね、こっちの言葉であふれかえっているでしょう)
停留所の私。思い出しながら、周りを見る。プラタナス並木。石造りのビル。トロリー線。自動車。若い母親に連れられた小さな女の子。
(一瞬ね、戸惑うんだ。あ、私、何語を話したらいいのかなって)
対向車線、カーブを曲がって、電車が来る。フランジが軋む音。私の側の電車はまだ来ない。
(すぐに思い出すんだけど、それでも何となく、向こうの言葉でも考えちゃうの。並列処理しちゃうんだね。頭が勝手に)
(そんな器用なことができるの?)
私の声だ。私の声も同録されていたのだ。
(もちろん、無意識なんだけど。でも、空港から家に帰る途中の電車でね、もう向こうの言葉では考えなくなるの。そしてね、見えるでしょ、風景。それがぜんぜん違うの)
風景。落ちた鉄橋。煙を上げる港。びっしり並んだ遺体。発電所、制御室、南波、上半身が消し飛んでしまった野井上。
(上杏の街って、もっとごちゃごちゃしてて、ほら、物乞いとか普通にいるのね。電波塔の下とかに。見たことあるでしょ、あの電波塔。租界があったあたり。わかるよね。あの辺、お金持ちもたくさんいるのよ。なのに、物乞いもたくさんいるの。建物も家もね、なんだか汚れてて、そういう風景に馴染んでしまってるからなのかな。帰りの電車から見える都野崎の街がね、変に見えるのよ)
SDD-48に蜂の巣にされたヘリコプター。ソニックブームを叩きつけて飛び去る友軍の戦闘機。黒煙がにじむ夕焼け空。言葉を話さない敵の兵士たち。
(身構えなくても平気なのにね。カバンとか、気がついたらしっかり抱きしめてたりして。それもね、北三番街の駅を出たら、すっかり忘れちゃうのよ。都野崎には物乞いなんていないし、すごいお金持ちもいないし。果物屋さんでリンゴを買ったり、持ってるカートが重いなぁなんて考えて、家のドアを開けたら、忘れちゃうのよ)
丹野美春のおっとりした口調と、京訛りが耳の奥で再生され続ける。
(風景が違うって、そんなに気がつくものなの?)
私の声だ。
(ううん、すぐに戻っちゃう。意識していないと、分からないかも。でも、空港を出て電車に乗っていると、ここは上杏じゃないんだ、都野崎に帰ってきたんだなぁって、はっきりわかる)
戦車部隊。小谷野大尉。保呂那川と、六四式戦闘爆撃機。ああ、この音は、GBU-8自己鍛造爆弾が空気を切り裂く音だ……。私の頭が混戦気味だ。
(適応っていうのかな。きっと人の脳って、そういうふうにできてるのね。今まで普通だと思ってた風景も、別の街に長くいると、普通じゃなくなるって。でもそれも、元の場所に戻ってくれば……)
それが馴染みの場所であればあるほど、元の適応性が発揮されて、違和感もすぐに霧散する。そうなのか? 丹野美春はそう言っていた。
レールが軋む。顔を上げる。電車が来る。私は回想のスイッチを切る。丹野美春の声が途切れた。途端に私は、初夏の高泊の街に戻される。私の日常はいくつあるのだ? 機能までの日常は、やはり地続きでここにあるのだろうか。
(でもヘリコプターで帰ってきたからな。地続きじゃないね。空を飛んできたわけだからな)
南波の声が聞こえた。なぜ? 南波はそんなことを言わなかった、と思う。これは私の脳の創作だ。
南波なら言いそうなこと。
私が感じたことを、私自身の声で言わず、南波の声が代読した。
昨日。
帝国空軍豊滝前線基地から北洋訛のきつい砺波大尉の操縦する七七式救難ヘリコプターは、高度千メートル程まで上昇し、滑るように高泊駐屯地に到着した。南波は終始無言だった。疲れていたのかもしれない。私もしゃべらなかったし、砺波は副操縦士や管制と最小限話すだけで、私たちには一言も話しかけてこなかった。スライドドアは閉じていて、ターボシャフトエンジンの音、ローターが空気を切る音はそれでもやかましかったが、私は南波に倣って目を閉じて機体に身を委ねたのだった。
私は停留所でそっと目を閉じ、大きく息を吸い、吐く。ため息じゃない、深呼吸。
電車が耳障りなブレーキ音を甲高く鳴らし、停車する。電車を待っていたのは私を含めて四人だけ。乗り込むと、車内には同じ数の四人が、位置もバラバラに座っていた。
(姉さん、悪い癖だな)
また南波。これは本当に言われたことがあるかもしれない。けれど場所も日時も特定できない。南波が私の視線をたしなめた台詞だろう。室内にいる人間の数と位置、それを入室した瞬間に把握する癖。……悪い癖かどうかは知らない。生き残る術だ。五五派遣隊で教育された。部隊配属前の地獄の訓練の過程でだ。けれどここは戦線から離れた高泊で、窓際の座席に座ったところで狙撃される心配などない。私が駐屯地司令だっターニャるいは有名な政治家であるならばその心配も有用だろうが、私はただの「戦士」だった。秩序が維持され保たれた市街地で狙われる道理がなかった。
電車はさらに市街地を離れていく。進行方向向かって右手にシェルコヴニコフ海を望みながら、周りからは背の高い建物が消えていく。勾配の緩やかな坂道を、道路と軌道と電車は上っていく。いくつもの停留所を通過し、いくつかの停留所で停車し、そのたび、車内の乗客が入れ替わる。けれど、満席になることはなかった。車内は陽射しにあふれている。なんの躊躇を考えることもなく、陽向に立ち、風景を望む。遮蔽物を考慮する必要もなけれは、だいたい私の両手はいまフリーだ。
やがて勾配は終わり、いわゆる旧市街地からは一段丘の上に通る道を、電車は行く。このあたりは住宅街で、旧市街に勤める人たちがささやかな住宅を建て、住んでいるのだ。建物どうしの間隔もまばらになってくる。風が強すぎるのと土地が痩せすぎているために耕作地には向かず、市街地が途切れると、広大な牧場が点在する牧歌的風景になる。一辺が四キロほどの格子に区切られた防風林と、果てしなく続く牧草地だ。北洋州本島でも見られる典型的な風景。本土からやってくる旅行者が憧れるという風景。
電車に揺られ始めて二十分ほど。ようやく私の目的地が近づく。電車が速度を落とし始めて、私は席をそっと立ち、電車が止まると、携帯電子端末を運転台横のカードリーダーにかざす。非接触型のリーダーだ。運転士が短く乗車への礼を告げ、私も返礼。開いたドアから、背の低い停留所に降り立つ。降りた客は私だけだった。電車は溜息を漏らしてブレーキを解除し、モーターを唸らせてさらに郊外へと走っていくのだ。この路線がもっとも市街地の外側へ向かう系統だと憶えている。そのうち終点まで乗ってみたいと思っているが、機会がなかった。いや、機会ならいくらでもあるのだ。いまも、そのまま乗っていけばよかった。今日は夜の点呼までに帰ればいい。まだ日も高い。終点まで乗ってからここに寄ればいい。でもそうしない。人の意思などそんなものなのだ。
信号機もまばらな道路だ。二ブロックほど行くと、角に黄色い壁と緑の屋根の小さな店がある。花屋だ。店頭には初夏の野花が数種類飾られていた。私は一方的に馴染みになってしまった店員に、いくつかを指さして、こぢんまりとした花束を作ってもらった。剪定してもらう間、私は店内を眺めるのだ。小さな店。地域の店。けれど生きている店。きっと発電所の傍の町にも、あの鉄橋を見上げる縫高町の商店街にも、こんな花屋があったに違いない。人がいなくなった町は、建物が破壊されず残っていたとしても生きていない。町は人がいて初めて「生きている」と言えるのだ。だからきっと、建物が破壊され黒煙を上げ瓦礫の山になっていても、そこに住民がいればその町は「生きている」。私はそう感じる。
店員が笑顔を向けてくる。
「できました。こんな感じでよろしい?」
笑顔だ。私と同じくらいの年格好で、エプロン姿がよく似合っている。髪の毛は淡い栗色で、ポニーテールがよく似合っていた。私の髪は肩に届くか届かないかの長さだ。長すぎる髪は職業上支障が多い。ろくに手入れもできないから、本当はもっと短くてもいいと考えていた。けれど、私の中のどこかがそれを拒絶していた。今日は「戦士」ではない私の出番の日。「外」へ出撃する前、迷彩柄のドーランを顔に塗りたくる変わり、いつ購入したのか思い出せなくなった化粧道具を引き出しから取り出し、高等課のころに買った小さな手鏡をデスクの上に立ててメイクした。迷彩パターンを塗るなら手際よくできるのに、化粧をするとなると三十分でも時間が足りなかった。誰と会うわけでもないのに。
「ありがとう」
私もなんとなく笑ってみた。南波を連れてくればよかったかもしれない。彼は笑うことに関しては、自然な振る舞いができるのだ。そして私に言うに違いない。姉さん、その顔はないぜ、と。ただ、と思う。南波のあの表情は彼の標準装備なのだろうかと。戦闘中のストレスがもたらす一種の防衛反応だったとしたら。けれど、寡黙で無表情な南波少尉など想像もつかなかった。
レジスターに携帯電子端末をかざし、決済する。私はここ何年も現金を見たことがなかった。すべて携帯電子端末があれば支払いには困らないのだ。生体認証機能があるから、むしろ財布に現金を入れて持ち歩くよりも安全だった。現金や財布には生体認証機能がないからだ。
「ありがとうございました」
何度目だろう。彼女の挨拶は気持ちよかった。南波も文句が出ないだろう。
私は店を出ると、ほんのわずかな時間、立ち止まる。花束の根本を右手で持ち、左手を花束の「柄」のあたりにそっと添える。……持ち方がまるきり控え銃の体勢だ。苦笑しながら、これもいつもの動作だったと思い出す。そのままの姿勢で、私は店を立ち去るのだ。
店の横の路地はそのまま一本道で、なだらかな丘陵へ続く。木製の電柱と街灯が一定間隔で並び、道の両側から住宅が切れると、何もない草原になる。気まぐれに立つ針葉樹と、右手に広がるのは海だ。ミントの香りが漂ってきそうなほどに淡い色の海原。視程がよく利く。軍事作戦上はあまりありがたくない天気。日常を過ごすには絶好の天気。海岸線の手前には旧市街が見渡せる。しばらく歩くとやがてコンクリート製の門が見えてくる。
墓地。
私はひとつの任務が終了すると、丹野美春が言うところのスイッチを入れるために、ここへ来る。ただの個人的なイベントで、深い意味はなかった。こうすることで、私は日常生活に戻してもらうのだ。このイベントについては、南波にも言っていなかった。彼はきっと、私のこの行動が理解できないだろう。この無意味かつ非効率的で、非論理的な私の行為を。
雨ならば傘を差して来たと思う。任務中に傘をさすことはないが、ここへ来るときはいつもオフだ。
風雨なら、雨具を着て来たと思う。
雪の日も足跡を深く刻んで。
おそらく、私はこの場所が好きなのだ。
シェルコヴニコフ海を望み、街が見え、しかし喧燥からはほど遠いこの場所が。
一度調べたことがあった。この墓地がいつ造られたのか。それは開拓時代からさらに遡り、この辺り一帯に住んでいた先住民の生活まで戻る必要があった。
北部自治域から北東自治域に跨るかなり広い範囲に、一〇〇〇年ほど前から、私たちとはかなり文化と言葉の異なる文化があった。北洋州やこの椛武戸の地名はほとんど、帝国の言葉ではなく、先住民たちの呼び名をそのまま使われている。彼らは文字を持たなかったが、話す言葉の文法の骨格は、私たちのものとほとんど違わなかったため、今では国内の一方言という扱いだが、しかし発音は難しく、綴られる物語も、自然と共存し、ときには命を失い、あるいは命を戴く、そうした生活に密着した壮大なものだった。
彼らは部族の墓地を、集落を見下ろせる高台に造った。私たちの慣習とは違い、彼らは墓標に木を使った。使われる木は、葬られる人によって違った。部族によっては墓標代わりに木を植えることもあったようだが、場所についてはやはり高台を選んでいた。この墓地もまた、高泊一帯を治めていた部族の墓地だったという。開拓民として入植した人々は、この地の先住民とともに汗を流すこともあったのだそうだ。そして、ともに同じ場所に葬られた。
もし、いつか戦役を離れ、許されるのであれば、私は彼らの造った墓地を辿ってみてもいいと考えていた。きっと、ここと同じように見晴らしがよく、気持ちのいい場所に違いない。街……集落で暮らす人々は、高台から常に彼らの肉親に見守られるのだ。それはいい慣習だと思った。
花束。初夏の野花が薫った。
誰か、特定の墓標を訪れるわけではなかった。墓地の中心地に、ひときわ大きな墓石がある。墓地全体を統べる墓標。すべての亡き人たちを鎮めるため、弔うための墓標。私にはそれが、この街全体を鎮めているようにも思えたのだ。私は静かに、そっと、墓石の前に花束を置く。この墓標にはいつも花や供物が絶えなかった。
私には特定の神はいない。教義もない。信仰があるかと聞かれたら、ないと答える。ここで花束を供えて、目を閉じ、頭を垂れることに意味はないかもしれない。しかし、経典はなくても祈ることはできた。私の言葉でだ。
私は多くの命を奪う側の人間だ。
死の恐怖を敵は思う存分私に与えるが、作戦が終わりここにこうして立っている私は、その恐怖をはねのけて、私や私たちを狙う敵の命を奪ってきた。だから戻ってこられたのだ。
墓地で、この墓標に、そっと頭を垂れること、それは私なりの弔いのつもりだった。私が躊躇いもなくトリガーを引いた先に、友人になれたかもしれない誰かがいたのではないか。いや、きっといた。この世のものとも思えないGBU-8自己鍛造爆弾の叫びを聞きながら、粉々にされた敵の中にも、話をすれば、わかり合えた誰かが……。
海から吹き抜ける風に頬を張られ、私は顔を上げる。
南波には絶対言えない。彼は私のこのような無意味な慟哭を理解できないし、して欲しいとも思わない。花束を見下ろして、私は思う。
振り返る。
墓標の傍に、一本の広葉樹が立っていた。ハルニレの木だ。ここに初めて来たのは真夏だった。ハルニレの木は空へ向かって枝を広げ、幾百、幾千の葉をそよがせる姿を私は一度で好きになった。もともとハルニレは好きな木だった。私の地元の草原にも生えている。今、眼前のハルニレはまだ若葉が芽吹いたばかりで、枝を透かして真っ青な空が見えた。見上げると、飛行機雲が二筋、北へ向かって伸びていくところだ。雲の先端に、小さく機影が見えた。私の脳が、視線入力でサブウィンドウを開き戦闘情報を確認しようと試みる。条件反射だ。CIDSを操作しようとする私の脳のふるまいを、そのまま気付かないふりを決め込み、私はまた海を眺める。脅威判定などありはしない。周囲三〇〇キロに敵部隊の姿はないのだから。
海上はさほど風が強くないのか、波頭は見えず、おだやかに凪いでいる。視線を港に向けてみる。民間の船より、圧倒的に軍用艦が目立つ。本来あの鼠色は迷彩色のはずだが、こうした市街地や民間の船に混じると、やたらに目立っている。あれは、第四艦隊……北方艦隊の重巡洋艦に、その奥はミサイル駆逐艦だろう。空母や戦艦の姿が見えないのは、彼らが未だ北の海で作戦行動中だからだろう。
指令。
午前、隊本部へ出頭した私と南波に、次の指示が出た。
北へ向かえ。
指令から贅肉をすべてそぎ落とし結論だけを書くと、私たちが行わなければならない行動はそれだった。最前線への復帰。
南波は表情をまったく変えることなく、了解の意を示した。もちろん私もだ。
作戦に関する詳細なプリブリーフィングは三日後に行われる。そこから必要な装備の調達と、最低限度の訓練。一週間後にはふたたび北へ向かう。次回作戦ではチームも再編成される。リーダーは変わらず南波だ。南波少尉、入地准尉、蓮見准尉、桐生准尉。蓮見とは『センターライト降下作戦』から一緒になった。桐生は他チームからの移籍組。少尉のほか全員が准尉という編成は、一般部隊から考えると奇異かもしれないが、五五派遣隊の大部分は准尉以上の階級だ。というより、チームリーダーを少尉として、他を准尉が固めるケースがほとんどだ。パイロットが全員少尉以上の将校なのと意味合いは近い。それだけ兵士としてのエリートが集められているのだ。
リストに並んだ私たちの名をじっと見た。すると文字が意味をなさなくなってくる。南波と書かれた文字と、あの軽薄な彼の顔が繋がらなくなるのだ。入地とは何者か、蓮見の姿、桐生の声。字面だけをじっと見ていると、偏も旁もすべてがバラバラになる。ゲシュタルト崩壊だと教えられた記憶があったが、それを私に言ったのが南沢教授だったか丹野美春だったのか、記憶が曖昧になっていた。
どちらにしろ、私はまた赴く。
墓標を作りに。
私や南波や、チームメイト以外の名前を刻みに。
そして、きっと、また私はここに来るのだ。
必ず。