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   <インターローグ>


---録音記録---

 日時……修文一七年五月二日午後二時三六分開始

     修文一七年五月二日午後三時一一分終了



 いやね、そういう噂があるのはね、俺も知ってたさ。でも実際見た奴なんて俺は聞いたことがなかったし、そんな場所があったところで行きたいとか思ったことはなかったわけさ。

 なんで俺、空軍に入ったかって?

 そりゃ、空軍で戦闘機に乗ってるような人間に、そういう質問しちゃいけないよ。飛行機が好きなんさ。まあ、そうね、飛行機っていうか、空をね、飛ぶのが好きなわけ。

 飛行機を見たことがなくて飛行機に乗りたいって奴は聞いたことがないなぁ。飛行機に乗ったのが、候補生試験の適性検査でって奴はいっぱいいたけどね。うん、俺もそう。

 あんた、飛行機乗ったことあるかね。ある? あんな旅客機、そう、中島のG33とか、あんなのは飛行機って言わないよ。あれは輸送機っていうの。実際ね、旅客機ってね、もとは輸送機だったり、輸送機の原型がもとは旅客機だったりするからさ。窓は小さいし、ただね、路線バスみたいにまっすぐ飛ぶだけでさ。

 飛行機ってね、こう、軽くバンク取ってね、すーっと高度を下げたりするときのマイナスGだとか、操縦桿をくっと引いたときに、すっと機体が浮き上がっていくあの感じが気持ちいいんでね、旅客機なんてね、あんなのつまらないよ。初めて乗ったときは怖かったもの。

 グライダーでもいい。あんた、一回乗ってみたらいい。グライダーだってバカにできないさ。操縦方法は戦闘機と同じなんだ。スロットルレバーがないだけさ。雲の上は、いつだって晴れてるんだ。本当に気持ちがいい。

 ああ、なんの話をしていたっけね。

 天国の話か。

 俺の言うこと、真に受けて発表とかしないほうがいいよ。なんで? そりゃ、そうだろうさ。誰も俺の言うことを本気にしないからな。夢を見ていたって思ってるんだ。誰が夢なんか見るかってね。そうだろう? 夢を見るにしても、もっと気の利いたものを見たいものでね。そんな、一面のワタスゲの原なんて夢で見たところでおもしろくも何ともないだろう。実際ぜんぜんおもしろい場所じゃなかったからな。

 あんたはどう思う? 本当だと思っているのか? 違うだろう?

 だから、俺のところに来たんだろう?

 あんた、聞いたよ。

 陸軍に入隊するんだって?

 このまま、学者さんになったらどうなんだ。あんた、なんだって軍隊なんかに入ろうなんて思ったんだ。それも陸軍か。

 体力には自信があるのかい?

 そうは見えないな。

 かわいらしい顔をしてるくせに、世間知らずなのかな。

 気分を悪くしたかい?

 何も、一兵卒から地べたをはいつくばって、穴掘って歩こうなんて思っていないんだろう? 士官学校にでも入隊するのかな? 違う? なんで? ますます分からないな。

 物好きなんだな。

 あんた、休みの日は何してるんだ? この街はいいところだな。なんでもある。暖かい。

 あんた、どこ出身だ?

 柚辺尾? ずいぶん寒いところから来たんだな。

 そうか、土地勘があるんだな、北洋州に。それでスカウトされたのか?

 俺みたいに南出身だと、あっちの寒さにはついていけない。雪がきれいだとか食い物が旨かったなんてのは、最初の一週間だけさ。あんたには悪いけどね。

 戻りたいとは思わないよ。だから訊いてるのさ。もし陸軍に入ったなら、あんたは間違いなくあっちに飛ばされる。人手不足らしいからな。いや、皮肉で言ったんじゃない。

 俺の祖父さんが、……大洋戦争のあとの動乱でね、北洋州に派遣されて帰ってこなかった。俺の祖父さんもパイロットさ。血なのかね。戦闘機に乗ってた。プロペラ機さ。分かるかね。二二式戦闘機ってね。水冷十二気筒エンジンの、すごい奴さ。機銃は二〇ミリと七.七ミリでね。機会があったら俺も乗ってみたかったな。低空だったらきっと気持ちがいいだろう。

 そう。

 飛行機ってね、あんまり高いところを飛んでも気持ちよくないんだよ。飛ぶだけでいっぱいになっちまうからな。二万メートルとか。もうそのへんまで行くと空じゃないね。

 本当に飛んでるって実感するには、まわりに何か見えた方がいい。雲でもいい。まあ、でかい積乱雲なんてのは願い下げだけどな。分からないか。分かる? あんなかに飛び込んだら、そりゃ洗濯機の中みたいなもんだ。グルグル。そんなのが真夏はね、太鼓叩いて次から次へとやってくるんだ。空に壁ができたみたいにね。遠くから見る分には、真っ白できれいなんだけど。

 飛ぶなら、そうだな、この街のタワーくらいの、あれ、何メートルあるんだ? 電波塔さ。五〇〇メートル? 案外低いんだな。下から見てるともっと高く見えるけど。上ったことはないけどね。あんた、あるのか?

 一人で?

 そりゃよくないね。あんた、学生さん、若いんだから。本当は彼氏の一人くらいいるんだろう? 聞かなかったことにするよ。

 あの塔、おれは上ったことがないんだけどな。まあ、あれくらいの高さで飛んでると気持ちがいい。道路を走ってる車も、煙吐いて走ってる汽車も見える。結局、人間は雲の上を飛んでると不安なのかもしれないね。地面が遠いからね。俺だけかもしれないが。

 結局は戻ってこなくちゃならない。

 パイロットって仕事はね、敵を撃ち墜とすだけじゃダメなんだ。必ず帰って来なきゃならない。貴重な飛行機、そして自分自身が貴重な存在だからな。無鉄砲な命知らずは、実はパイロットにはいちばん向いてないんだよ。

 そんな話はどうでもいいって顔しているな。

 あんたが俺の話を聞きたいってのは、北方戦役に参加するからか。そういうことなのか? だったらあんまり役には立たないかもしれない。それとも、「天国」の話が聞きたかったのか? このあいだ話したとおりだ。

 俺は本当に行った。

 帰ってきた。

 見たんだよ。

 だから、あれは天国じゃない。祖父さんもいなかった。妹もいなかった。誰もいなかったよ。俺だけさ。天国ってのは、死んだ連中がごまんといるんだろう? 誰もいなかった。俺しかいない天国ってなんだ? そんなところ、天国であるはずがないじゃないか。

 そう思わないか?

 だから、あの場所は、本当にあるのさ。

 偵察機?

 そんなことをしていたのか。無駄な話だな。

 空から見た地上ってのは、狭く見えるもんさ。もしかしたら、俺はあの場所を相当広く感じていたのかもしれないけど、本当は狭かったのかもしれないな。俺は正気だったが、普通じゃなかったから。そりゃそうさ。ためしにあんたも撃ち墜とされてみれば分かるよ。普通じゃいられないからな。

 海の上じゃなくてよかったさ。

 海の上だったら帰ってこられなかった。きっとね。

 冬も夏も、あっちの海は冷たいからな。地面の上で助かった。

 まあ、どうでもいいか。

 あんたは、向こうに行って何がしたいんだ?

 天国でも捜しに行くのか?

 そんな場所、言っておくがないぜ。

 ……疲れたな。

 よくもまあ、……学生さんだから暇なのか。こんなところまで来るもんだ。

 中庭? ああ、ここの中庭か。アトリウムって言うんだって? 固有名詞じゃない? あの温室だろう? ときどき行くよ。あんたによく似た女の子がいるんでね。知り合いか? 違うのか。俺は寒い場所は嫌いだな。あのアトリウムはいい。水も流れているし、木も草も生えてる。奥へ行けば果物も成ってるじゃないか。柵があるから入れないけど。

 そうだ。

 今度、一緒に行くか。

 ワタスゲの原じゃない。アトリウムだよ。俺はこの建物からはなかなか出してもらえないからな。

 おっと、そろそろ時間かね。いい時計をしてるじゃないか。嵯峨精工舎のマークⅦって奴だ。俺の航空時計も嵯峨精工舎だ。高いけどな。一秒も狂わない。自動補正されてるからだって? それでもいいじゃないか。故障知らずなんだ。あんたのもだろう。……もらい物か? 学生さんが買えるような値段じゃないからな。しかもそれ、男物だ。

 いろいろあるんだな。あんたも。幸せそうな顔をしてるが、人間、外見じゃわからねぇ。

 じゃあ、また来ればいい。

   五、



 水路潜入は経験がなかった。

 私が持つ軍事特技区分(MOS)に、水路潜入のスキルは含まれていないからだ。ヘリコプターからのリペリングや空挺降下、迷彩装備を生かした隠密潜入など、そうした訓練はやってきた。が、水路潜入はチームが違う。そのMOSを持った隊員は別チームで編成されているのだ。私や南波がこうした任務に就くことなどあり得なかった。

「シグナス、シグナス、ゼロワン」

 南波の声がCIDS……ヘルメットと一体化されたイアフォンから聞こえてくる。作戦本部を呼んでいる。なぜだ。無線封鎖しているはずだ。私たちが許されているのは、衛星からの一方通行で得られる情報の表示と、高度に暗号化された個々人の体内に埋設された生体マーカーの発報だけだ。

『ゼロワン、シグナス。花は咲いたか』

 信じられない。応答が来る。

「種を蒔いた。花はあと十五分で咲く。カウントダウン」

『ゼロワン、シグナス。了解した』

 それにしても、私は……ここはどこだ?

「ゼロトゥ、」

 私は南波を呼ぶ。声帯を発振させず、口から吐息を漏らすように言うだけで、CIDSのリップマイクが解析・増幅して、相手に伝える。

「どうした」

 南波は私の前方五メートルほどを先行している。あたりは一面の水。足先がつくが、ほとんど泳いでいるような状態だ。何も見えない。暗闇だった。おかしい。CIDSを装備しているのに、なぜ見えない。水の感覚も怪しい。私は自分が相当に疲労しているか、あるいは精神的平衡感覚を失っているのではないかと一瞬恐慌に駆られそうになる。まずい。

「ここは、どこ」

「入地、」

 作戦中に、南波が私の名前を呼んだ。

「岸から上がるぞ。もうすぐだ」

「蓮見や野井上は」

 信じられないことに、私は彼らの今作戦でのコールサインを失念している。本名で通話しあうなんて考えられないはずだった。

「先行している。大丈夫、ついてこい。いつもどおりだ。何を怖がってる。お前らしくない」

 ブーツがしっかりと地面を掴まえた。全身が水を吸って思い。水路潜入用にはドライスーツに似た機能の戦闘装備が指定されるが、いまの私が着ているのは、いつもどおりのチェストハーネスに、黒っぽい迷彩の戦闘服だった。装備がすべて水に浸かっている。自動小銃も、拳銃も、予備弾倉も、何もかも。本来ならすべて防水処理をした上で隔離されていなければならないのに。

「……、」

「南波」

 南波が銃を構えている。その前に、なんて言ったんだ?

「南波!」

「静かに、……!」

 私の名前だ。名字ではなく、南波は私の名前を呼んでいる。

「行くぞ、……」

 なぜか、そこだけ音声として聞こえない。なのに、彼が私を名前で呼んでいることがはっきりと分かる。なぜだ。なぜ。

 目の前が真っ白になった。

 足許も、両手も、南波も、何も見えない。

「……南波!」

「……!」

 相変わらず、南波は私の名前を呼んでいる。やめろ。私を名前で、呼ばないで。

 不意に照明弾でも撃ち込まれたか、それとも敵の拠点からサーチライトでも照らされたか。サーチライト? そんな設備?

 ……!

 南波を呼んだはずが、まったく音にならない。CIDSも沈黙している。真っ白だ。何も見えない。私はCIDSをあわてて跳ね上げた。それでも視界は真っ白だった。真夏の日なたのような、まぶしさだった。

 身体が重い。

 耳のすぐ横を、何かが空気を切り裂いた。

 銃弾。

 撃たれた。やや遅れて発砲音。

 見つかってる。

 潜入は失敗だ。

「南波、ダメだ、撤退しよう」

 南波?

 いない。

 破砕機のような連続音。機関銃で撃たれている。私はとっさに伏せたが、相変わらず何も見えない。白い。

 南波、ダメだ、行こう。

 どこへ?

 すぐそばを次々に銃弾が掠める。

 着弾。

 完全に私は敵の射線に入っている。撃たれるのは時間の問題だ。

 南波!

 彼が私を呼ぶ声も聞こえない。

 聞こえない。

 遠くから凄まじい雷鳴が聞こえる。

 私が南波を呼ぼうとする努力も、その長く響く雷鳴にかき消されてしまう。

 そこで……、目が覚めた。


 汗の臭いがする。

 簡素なベッドに、私は横になっていた。窓が近く、傾きかけた陽が差し込んでいてまぶしい。毛布一枚を戦闘服の上からかぶり、私は横になっていた。

 大きく息をついた。肺の中の空気をすべて入れ換えるつもりで。

 ……帝国空軍豊滝前線基地。

 自分の現在位置を思い出すのにわずかなタイムラグ。私眠っていたのだ。そのことに気付くのにもわずかな時間を要した。

 私は腕時計を見る。伊来中尉とエプロンで別れてから、一時間半。砺波大尉に言われた連絡機の出発まで、あと三十分ほどだった。

 仮眠室だから、設備は恐ろしく簡素で、スプリングがキイキイ言うようなマットレスのベッドが四つ並んでいて、仮眠室というよりは病室に近かった。天井の蛍光灯は点っていなかったが、ペラペラのカーテンが半分開いていて、そこから陽射しがあるのだ。二重のガラス窓の向こうは兵舎なのだろう。木造の建物がいくつか見えた。そしてその向こうが滑走路だ。凄まじいアフターバーナーの轟音は、窓を閉めていても地面から響いてくるようだった。

 半身を起こす。

 南波と二人、基地の厚生係に案内されてここへ通され、とにかく仮眠を取ろうという話で合意した。チェストハーネスを解き、防弾ベストをはずし、ホルスターもはずし、戦闘服の上も脱いだ。アンダーウェアも汗やら汚れでひどい有様だった。ブーツを引っこ抜くようにして脱ぎ、ソックスも脱いだ。両足はふやけたように真っ白になっていて、凄まじい異臭がした。それを見て南波が笑っていた。ひどいもんだなぁ、と。またこのソックスとブーツを履くのは正直憂鬱だったが、南波はまったく気にしないようで、両足の指を閉じたり開いたりと器用なことを私にしてみせた。ズボンからベルトも抜き、とりあえず大きく息をついた。

 厚生係からもらった水を飲み干し、トレイに載せられた簡単な食事ををもらい、私たちはそれらを瞬く間に胃の中に入れた。やたらと大きく分厚いパンに分厚いチーズとハムをはさめたサンドイッチだった。あの国道脇の農園で戴いたトマトは旨かったが、体力の足しにはあまりならなかったようだ。食べ物を胃に入れただけで、血流が幾分早くなったように感じた。何より、パンの持つうまみと微かな甘さが沁みた。

 そして、私は言葉もなく、ベッドに横になったのだ。吐息が漏れた。そして、横になった瞬間に意識を失ったのだろう。CIDSに頼ることなく、私の身体の判別する脅威判定レベルはゼロであり、警戒スイッチも何もかもが切れた。そして私は眠った。

 一時間ほど眠ったことになる。ただ、私自身の主観では五分も経過していないように感じる。なのにその間、しっかり夢を見ていた。

 私はよく夢を見る。

 だから、私は少なくとも、<PG>ではないということだ。もとより私は自覚症状もなければ、私の実家に第二世代選別的優先遺伝子保持者を育てる由縁もなかったろう。もっとも、自覚症状の件は、「新型」の<PG>に付加された新機能に、「夢を見る」という項目が追加されていなければの話だが、そこまで疑うと、私の存在理由が脅かされる。もはや生きていくことができなくなってしまう。私にとって、夢を見ること、そしてその見た夢を鮮明に覚えていることは、当り前の自前の機能だった。

 南波の姿がかなった。彼が寝ていたベッドはきっちり整えられていた。まるで、最初から私しかいなかったかのように。

 南波。

 夢を思い出す。

 夢は……現実世界に戻ってきた瞬間から劣化していく。憶えていようと努力をしなければ、見た夢は端から劣化し、夢の中の時系列もバラバラになっていく。それを防ぐには、覚醒したとき、できるだけ詳しく見た夢を思い起こし、それを意図して記憶していかなければならない。私は勝手に「夢の録画」と呼んでいた。憶えようとする努力が不要なほどに印象的な夢ももちろんあるが、だいたいの夢は、現実世界に戻ってくると、時間を追うごと、加速度的に霧散していくのだ。

 南波。

 私はもちろん水路潜入の経験はない。そうしたMOSを持っていないからだ。実際水路潜入が必要な任務があれば、別斑が充てられる。私や南波が出撃することはない。

 ベッドに腰かける。この部屋に鏡がなくてよかった。私は今の自分の顔を見たくなかった。……泣いていたら困る。泣くって? 私が?

 一時間でも眠ると違う。水と空軍式の巨大サンドイッチも効いているのだろう。明らかに身体が楽だった。そして、頭もすっきりしていた。幾分緊張も緩和されている。

 私はふだん、あまり任務の夢を見たことがない。

 自分で南波に講釈しておいて……私自身はどれほど過酷な任務を経ても、任務の夢を見なかった。『追体験』も『予習』も、どちらもだ。だから、南波には悪いが、夢の中で南波を喪ったこともなければ、私自身が戦死するような夢もほとんど見ない。私の精神が楽観的にできているのかもしれないし、ひどく鈍感なのかもしれない。私は自分を比較的感受性は敏感だと思っていたが、戦闘地域を渡り歩くような任務をこなし、凄惨を極めるような景色をいくつも見ても、それを夢に見たりしないあたり、本当の私は相当に鈍感なのだろう。

 凄惨な現場。

 筆舌に尽くし難いとはよく云ったもので、だから私がいくら口で説明しても、文章を書いても、一割も伝わらないと思う。できることなら、私はそうした光景を説明したくなかったし、文章にするなどもってのほかだった。……面倒だからだ。口頭での説明にしろ文章にしろ、第三者の反応をいちいち確かめ、補足し、同情したふりをするのが疲れるのだ。

 やはり私は鈍感なのだろう。

 大きく息を吸い、吐く。

 南波がいれば、「ため息はやめろ」と無粋なことを言う。ため息ではない。深呼吸だ。だいたいため息だとして、いちいち咎められる理由などないはずだ。大きなお世話だ。ここは酸素が貴重品の衛星軌道ステーションではないのだから。

 それでも、一見がさつで大雑把に見える南波は、気配りが行き届き、繊細な一面があるのは認める。余計な気を使わせないのも気遣いなのだ。簡単なようで難しい。私にはできない。南波はわきまえているのだ。バディとして組んでいながら、彼も私の領域を必要以上に侵さない。

 たとえば。

 彼は私の名前を作戦中に一度も呼んだことはない。駐屯地でもそうだ。

 コールサインか、だいたいが私の名字を呼ぶ。

 彼は馴れ合いを嫌うのだ。そうは見えないが、事実そうなのだ。適度な距離を保つ。それが縮まることはない。永久に。おそらく。だから当然、私も南波の名前は呼ばない。呼んだこともない。

 私の名前。

 こんな生活を始めて、私は自分の名前を時折忘れそうになる。誰も私の名前を呼ばないし、部隊は私を十二桁の識別コードで管理するから、余計そうだ。私の識別コードは011471322701。南波少尉は011478227590。コールサインは作戦によって変わるし、私を識別する固有名詞は名字だけで十分で、コンピュータはコードがあれば問題ないのだ。

 最後に名前を呼ばれたのはいつだったろう。

 おそらく、この戦役に参加してからは一度もない。ずいぶんと時間をさかのぼらないといけない。

 窓から外を見る。

 タンポポが一面に生えていた。陽射しを浴びて、まぶしい。タンポポの向こうのDの字を横倒しにした形の兵舎はくすんだ淡いグリーンの木造だ。もともとここは軍事的な施設ではなかったのだろう。中継的な飛行場か、その類だ。それを空軍が接収して、前線基地にしてしまったのだろう。私がいま腰かけているベッドも、その頃から使われていたものかもしれない。物に記憶があるなら、それを呼び戻すとおもしろいだろう。軍が保有する装備はICタグで管理されていて、移動履歴や故障、修理の履歴、戦闘機ならば出撃回数、そうした情報が埋め込まれているが、ベッドや机の記憶はどうなのだろう。備品管理用に簡易チップがついているかもしれない。が、それ以上、このベッドに誰が寝たのか、どんな夢を見たのか、一日の大半を「孤独に」過ごすこいつが、私のような「来客」をいままで何人迎えてきたのか、それを知ることができたら。……なぜこんなことを考えてしまうのだろう。

 窓辺にスチーム暖房があり、ぼんやりと熱を出していた。無骨なラジエータータイプのスチーム暖房はオンかオフかの二パターンしかない。猛烈に熱いか冷え切っているか。ぼんやり温かいということは、いまこいつは稼働していないということなのだろう。あらかじめ私と南波はそこにソックスと戦闘服を載せておいた。乾けば異臭も多少は抑えられるだろう、と。見ると、ソックスはパリパリになって塩を吹いていた。臭いのことは考えずに足を通した。ブーツの湿気はどうしようもない。あと三十分。

「おはよう、姉さん」

 南波。

 ベストは着けていなかったが、戦闘服姿だ。隙のない格好。ただ、4716自動小銃は持っていなかった。拳銃も、部屋の片隅の机の上に載せたままだ。

「すっきりしたか、多少は」

「多少は」

「晴れたな」

「そうなのか、」

「快晴さ。気づいたら」

「お前は寝たのか」

「俺は十分ほど前に起きたんだ。しっかり寝たよ」

 私はベッドを降りる。戦闘服を身につける。

「気分はどうだ」

 南波はタクティカルベストを着ける。メルクア・ポラリスMG-7Aをホルスターに挿し、自分の4716自動小銃を取ると、ベッドに腰かけた。

「いい」

「俺もだ。でも寝たりないな」

「それは同感だ」

「夢でも見たか」

 私ははっとして南波を見返した。

「なんで」

「眼が赤い。ちゃんと眠れてない証拠だ……それともあんたも夢を見ない子どもなのかな」

「違う」

「冗談だよ。ムキになるな。分かってるから」

 南波は低く笑った。おそらく本音だろう。私たちの間に疑念や秘密は存在しないからだ。そんな雑念のために判断が鈍ってはかなわない。ただし、知らなくてもいいことはお互いに知らない関係だ。知る必要がないことは無理に知ろうとしない。それが不文律だ。

「どこに行ってた」

「売店(PX)」

「そんなものがここにあるのか」

「キオスクみたいなのがあったぜ」

 言いながら、南波は私にチョコレートとコーラを差し出した。

「悪い」

 コーラの缶はよく冷えていた。

「高泊に帰ったら返してくれればいい」

「自分のは」

「ちゃんといただいた。気にするな」

 私はプルタブを引き、コーラをあおった。炭酸が喉を灼く。喉が鳴った。旨かった。

「こういうのを見ると、日常が帰ってきたって気がする」

 ぼんやりと思う。

「姉さんでもそんなことを考えるんだな」

「なぜ」

「どこに行っても非日常に文句を言ってる、そういう印象だからな」

「ひどいな。なんだ、その『どこに行っても非日常』って」

「表裏なんだろう。あんたにとって、日常ってのは。どこに行っても日常の延長で、帰ってくるときは、いままでの日常が非日常になってるんだろう」

「難しいことを言うんだな」

「難しいことを言うのは、あんただけの得意技じゃないんだよ」

 南波の声が穏やかに私の耳へ届く。CIDSもインターコムも何も通さない肉声だ。銃声も間に割って入らず、ジェットエンジンの轟音は聞こえるが、ここは私がなんとなく理解できる日常の世界だと思う。思いながら、チョコレートをかじった。これも旨かった。

「悪いが、コーラとチョコレートは、合わないな」

「そうか?」

「コーラが……ただの炭酸水に感じる。チョコレートの甘さに負けてさ。なんか残念な気がしないか」

「それって真理じゃないか?」

「なにが」

「強い甘みの前に、弱い甘みは無味になる、ってね」

「意味が分からない。なんだ、入地准尉の格言集その一か」

「いいんだ。気にするな」

 気にしようがなかった。

「さっさと食え。行くぞ」

 私はチョコレートを口に放り込み、無理矢理咀嚼して、それをコーラで流し込んだ。もう少しゆっくり味わいたいと思ったのは、口の中にチョコレートの余韻を確かめてからだった。


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