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四、
空軍救難隊の七七式汎用ヘリコプターは高度三〇〇メートル程度を飛行した。スライドドアは開け放たれていて、私も南波も無言だった。無言で4716自動小銃を抱えるように、吹き抜ける風を感じていた。やはり寒い。傍らの救難員は私たちを時折向くが、声をかけてこようとはしなかった。救難隊のヘリコプターは国道脇に着陸し、まず伊来中尉を乗せ、そして私たちが続いた。彼らは何も言わずに我々をヘリコプターに招いてくれた。
針葉樹、低湿地、森を貫く国道、そしてさほど遠くもない場所に、黒煙を上げる縫高町の市街地が見えた。あの荘厳さまで感じさせた鉄道橋は崩壊し、川の流れに沈んでいるようだ。南波が遠くを見ていた。北洋州のこの島……椛武戸は、南部はだいたい平野で、上空三〇〇メートルから見渡しても、地平線が望めた。地平線が切れるあたりに微かに見えているのは中部から北部へ連なる山地で、もっと近寄ればまだ雪を頂いているはずだ。激戦が続いているのはそのあたりだ。ここから二〇〇キロ近い距離がある。
私はあまりヘリコプターが好きではない。なにより不安だ。武装らしい武装は私たちが持つ自動小銃だけというこの救難ヘリにしても、下方から襲われたら一撃だ。武装ヘリコプターも、ドアガンの射線をかいくぐった敵に狙われたら、墜ちる。その点でも、攻撃ヘリコプターを除くと、装甲車よりはやはりバスに近い乗り物だと思う。
本物の乗り合いバスなら、都野崎にいた頃は毎日乗っていた。その頃の私は、4716自動小銃やメルクア・ポラリス拳銃の代わりに、テキストやペン、それを入れたバッグを肩から提げていた。よもや自分がバッグの代わりにライフルを、普及していた携帯電子端末の代わりに拳銃と予備弾倉を持ち歩くようになるとは、思っていなかった。
都野崎はこの北部自治域……北洋州のこの島から南へ二〇〇〇キロ。いまごろは気温も二〇度を超え、花の季節も過ぎ、すっかり色濃くなった木々の緑が賑やかだろう。開けた湾から吹き込むやや湿った風も、北極圏から吹き下りてくる寒気よりはずっといい。私は長く暮らしたはずの北部自治域の鬱屈した気候より、穏やかで冬も降雪がない都野崎の季節が懐かしかった。今年は都野崎の紀元記念公園、その満開の桜の花を見ることはできなかった。去年も、一昨年も見ていない。私にとってあの街はすでに遠く、四年過ごした間にできた友人たちも縁遠くなった。
この地の桜はいつ咲いたのだろう。あるいはまだかもしれない。桜前線がじりじりと北上し、首都近郊が初夏の声を聞くころ、ようやく前線は国境を超えるのだ。
ヘリコプターから森を見下ろす。背の高い針葉樹は樹高五〇メートルに近い。針葉樹帯を取り囲むように、白樺が見えた。白樺は広葉樹の中では生命力が強く、たとえば野火で焼き尽くされた森林で最初に復活するのは白樺だともいわれる。白樺の枝からは淡い萌葱の若葉が映える。曇り空でも映える。南で暮らした四年で唯一私が北の風景で思い起こしたのは、晩春に見られるこうした緑の芽吹きだった。この喜びは、南のそれの比ではないからだ。
呼ばれた、ように思えた。
顔を機内に戻す。ヘリコプターのローター音が凄まじく、誰が私を呼んだのかわからない。南波は目を閉じてじっとしていた。メディックはコクピットに首を突っこんで何かやっている。私を向いているのは伊来中尉だった。
「中尉、」
私はにじり寄るようにして、伊来を向いた。
「呼びましたか」
「礼を言ってなかった」
伊来の栗色の髪がダウンウォッシュに舞っている。こうして見ると、彼女は純粋培養のエリート色がさらに強く見られた。撃墜されたパイロットならばもっと精神的にダメージを受けているはずで、それは外からもわかるはずだったが、彼女にはそれがない。あくまでも涼しげな視線、そして穏やかな表情。印象的なのは彼女の目だ。今は閉じられている南波の目と比べるとよくわかる。彼女の目は規格外に澄んでいる。やはり、彼女は遺伝子的エリートとして生を受けた可能性があると私は感じていた。
「どっちみち、このヘリコプターがあなたを見つけていましたよ。礼を言うなら私たちだ」
そのとおりだと思っていた。事実、伊来と出会ってから、二時間も経たないうちにヘリコプターがやってきた。あと半日近く歩かなければならないところ、不謹慎ながらも私と南波にとっては幸運だったのだ。
「この機は、豊滝へ?」
空軍の前線基地だ。常設部隊はいないが、今は空軍の飛行隊が駐留している。私たちが目指そうとした高泊からは内陸に車で半日ほどの距離だ。場所は知っているが行ったことはない。陸軍の部隊は駐屯していない。
「おそらく、」
「あなたは、伊来中尉は、そこから?」
「そう……もともとは御津納沢だけど」
北東自治域の空軍拠点でかなりの規模の基地だ。彼女が駆る六四式戦闘爆撃機が二個飛行隊、八一式要撃戦闘機が同じく二個飛行隊、八九式支援戦闘機も一個飛行隊が所属している。早期警戒機も所属しているし、救難部隊に高射砲部隊、気象に医療に後方支援と、空軍関係者だけで御津納沢市には万単位の関係者が居住している大所帯だ。ここには陸軍も師団が駐屯していて、列車で一時間も行けば海軍の基地もあるから、あたりは一大軍事拠点ということになる。北部自治域にはここまでの拠点はない。海峡からこちら側の北部自治域……おおざっぱにいって北洋州を外地とするならば、長く武家政権の文化を背骨に持つ海峡の向こう側こそが本当の「帝国」で、御津納沢基地は「帝国」の北限といえるだろう。
「寒いだろうな……」
伊来中尉は目を細めるようにして、曇天の低湿地と針葉樹林を眺めていた。私はつい、ややあどけなさまで残るその横顔に、声をかけていた。南波が私を見た。一瞬目を細めて。
「もう慣れた」
伊来が返す。私を見ないで。眼下は芽吹いたばかりの新緑の木々と、鉛色の湖沼、川、簡素な道路に、延々と続く送電線。殺風景を絵に描いたような光景だ。しかし、一ヶ月季節が逆戻りすれば、さらにこのあたりは殺風景になる。雪解け直後の北洋州の風景は、おそらくどんな人間でも厭世的になる。ところどころにはびこる永久凍土は膿み、舗装していない道路は泥濘に沈む。装輪車はおろか、装軌車ですら往生するような場所もある。演習で五五派遣隊所属の九七式戦車が泥濘につかまり、履帯すべてが没してしまったことも一度や二度ではない。かつての大洋戦争の時代、同盟国が列強諸国と相まみえたとき、国土深くまで地上部隊の侵入を許さなかったのは、同盟軍そのものの戦力というよりも、冬将軍を筆頭として、果てしなく膿む大地をはじめとする気候的要因のほうが大きかったのだ。それはわが帝国との北方戦役でも構図自体は変わらない。北洋州には大規模なツンドラの大地こそないが、初春の季節はめまぐるしく高気圧と低気圧が行き来するため、二日と青空が安定しない。思い出したように降る雪を恨めしく仰ぎ見、あきらめかけた頃にようやく本格的な春が来るのだ。
「伊来中尉は、どこの出身で?」
立ち入った質問かと思った。黙って基地到着を待てばよかったかもしれない。南波が意外そうな顔をして私を見ている。普段私がこんな質問をしないからだ。
「私は、……京。」
帝が住まう場所……帝国の首都だ。意外だったが……すぐに私はしかし納得した。伊来の表情に、ふと洗練された何かが見える気がしたからだ。選ばれた子供。「第二世代選別的優先遺伝子保持者」……ただ単に<PG>と呼ばれる遺伝子的エリート。きっとそうだ。
「慣れましたか」
「慣れた」
「寒さに?」
「……この風景に」
ヘリコプターの騒音が凄まじい。翼断面形状を改良し、ローターの羽ばたき音そのものが過去の機体と比べて大幅に低減されているとはいえ、ドアを開けた状態のヘリコプターはそれなりに騒々しい。ターボシャフト・エンジンの排気音やタービンブレード、圧縮機が空気をこねくり回す音もかなりのものだ。私たちはインターコムを付けていなかったから、大きな声を出す必要があった。伊来の声は周波数が高く、私の耳によく届いた。南波がぼそぼそしゃべっても、彼女の声ほどには届かないだろう。
「京には、……昔行きました」
学生の頃だ。都野崎から高速鉄道に乗り、桜の季節に行った。都野崎の桜も美しかったが、首都……京の桜は格別だと聞いていたからだ。丹野美春が京の近郊の出身だった。だから丹野美春の言葉には、独特の訛りがあったことを憶えている。都野崎から七〇〇キロ。私の生まれた北部自治域の中心都市・柚辺尾からは二五〇〇キロ近い距離。もはや別の国だ。私が育った自治域では、一度も首都へ上京せぬまま、北の果てで朽ちる者も多いのだ。
「上洛してなにを?」
「桜を見ました」
「……そうか」
人口三〇〇万人を超える大都市だが、帝国の首都として一三〇〇年以上の歴史がある。地下鉄工事をすれば数メートルおきに遺跡が出土するとまで言われる都市で、世界的にも貴重な寺院や神殿が連なる街だ。一度として外患の危機にさらされたことはなく、経済の中心地として発展した都野崎とは別の雰囲気があった。
「准尉は、」
伊来が私を向く。薄い茶色の目。南波が何か言ったようだが聞こえなかった。もう、よせ?
「私は北洋州出身です。……見慣れた風景ですよ。こういうのは」
ヘリコプターはペースを変えず、しかしゆったり旋回していた。ぶ厚い雲も、ところどころで割れ、『天使の梯子』と呼ばれる光のカーテンが垣間見えていた。
「殺風景ですけどね。こういうのは悪くない」
針葉樹と湿地と原野が続くその上空から、天使の梯子が下りてくる。正面左の奥側は線を引いたように真っ平らで、それはシェルコヴニコフ海の水平線だ。ずいぶん飛んだ。当初私たちが目指していた拠点など通り過ぎている。このまま空軍の前線基地まで運ばれるのだろうが、私と南波が原隊に復帰するなら、さらに高泊までいく必要があった。が、友軍の拠点までたどり着くことができれば、連絡を取るのもたやすく、また足の確保もどうにかなるだろう。まずは食事をしたかったし、わがままを言えば、シャワーも借りたかった。そして、一時間でもいいから横になりたい。南波はヘリのキャビンで目を閉じたりしていたが、眠っているわけではないだろう。ときおり頭が私を向く。
会話はそれで止まった。南波がまた私を見ていた。
(話しすぎだ)
明らかに表情はそう言っている。同盟軍の<THINK>などなくても、この程度の思考は読める。むしろわからなければ、私たちは相棒たり得なかった。
(反省してる)
私は話しすぎるのだ。南波相手でもだ。彼はそれをわかって付き合ってくれているし、私が果てしなくしゃべる、トーキングマシンのようなものだと理解した上で、彼なりの疑問や話題を私に向けても来てくれる。本来は必要ないのだ。私たちはバディだが、それは戦闘地域や任務中だけの話で、それ以外の時間を共に過ごしたことはない。南波は非戦闘地域……本拠地にいて、完全に任務からはずれて休息しているとき、市内の料理店を廻り、肉料理を食べるのを何よりの楽しみにしているようだが、どちらかといえば私は肉より魚が好きだったし、そもそも外食は好まなかった。だから彼と食事に出かけたこともない。駐屯地の食堂で同じテーブルに着くことはあるが、それは同じチーム、同じスケジュールで行動している故の話であり、南波がいくら食堂の肉の味付けや焼き方に文句を言おうと、普段彼がどのような調理を好んでいるのを知らないから、相づちの打ちようもなかった。それでも私に最も近い人間は誰かと訊かれれば、南波だと答えるだろうし、そう答えるしかないのだ。現実、私たちは幾度となく死地を踏み越えてきたからだ。
南波はふたたび目を閉じていた。眠らなくても、目を閉じているだけで、少なくとも眼球から入力される情報は遮断できるから、その分の脳の処理能力をセーブできるだろう。意図的に耳をふさぐことができれば完璧だろうが、人間にそのような機能はなかったから、意識的にこのやかましいヘリコプターのターボシャフトエンジンの咆哮と、空気を切り裂く周期的なローター音を無視するのだ。コンピュータがなかなか模倣しきれない人間の脳の機能の一つに、「関心を寄せる対象以外を無視する」ことがあげられるという。気づかなかった。見えなかった。聞いていませんでした。感覚器としての目や耳や鼻があっても、それらから入力された情報を処理するのは脳だ。脳が関心をよせなければ、入力された情報は処理の優先順位を下げられる。
いま、南波は最低限の情報を除いて、外界から自らを遮断しているのだろう。ヘリコプターが前線基地に到着したといっても、わずかな時間しか休息は取れまい。いまはなにより歩く必要もなければ、警戒の任務はこのヘリのクルーが負っている。私も南波も休めるのだ。事実私の身体は、一種心地よい疲労感に満たされはじめていた。まずい、とも思った。この心地よい疲労感に絡め取られると、ふたたび歩くこともできなくなる。身体を再起動させるのに凄まじい労力を必要とするのだ。新兵時代の訓練でそれは身にしみて分かっていた。南波はそのあたりの切替が上手いのかもしれない。過酷で知られる陸軍の遊撃戦闘訓練を経て、その資格を持っているのだから。
私はしかし、目を閉じることなく、ヘリコプターから北洋州の殺風景極まりない晩春の風景を眺め続けた。よく見れば、湿原や原野の日なたには、可憐と形容するのが一番似合う野花が咲いている。桜よりも健気で、桜よりも目立たず、そして桜ほどに愛されないが、毎年必ず春が訪れると、桜よりも早く花弁を広げる。南向きの斜面一面を埋め尽くす、淡い青や紫のカタクリやエンゴサク、残雪の間から気も早く顔を覗かせるフクジュソウ、内地では高原でしか見られない草花……。艶やかな、という形容よりも、可憐な、という言葉が似合う草花たち。
都野崎や京の風景、雰囲気が懐かしくないはずがない。私は北部自治域の厳しい冬が好きかと訊かれれば、ためらわずに嫌いだと答える。マイナス三〇度を下回る厳冬期、溶いたばかりの青い絵の具を、エアブラシで塗ったような空、日を浴びてきらめくダイアモンド・ダスト、まばゆいばかりの新雪の平原、そうした景色を美しいとは思うが、私は冬が嫌いだった。土地の言葉で言うならば、身体の底まで「凍れて」しまうからだ。
マイナス三〇度を下回ると、空気中の水分はみな音を立てて凍りつく。車のエンジンはなかなかかからず、人家もまばらな街道を行く自動車の故障は、大げさでもなく死を覚悟させる。盛大に白い息を吐きながら歩く住民たち、凍りついた川、流氷に埋め尽くされる海、わずかな間しか顔を出さない太陽。
伊来中尉はここへ来るまで、Iidや写真でしか知らなかった風景だろう。冬期間の戦闘は訓練からすでに地獄だ。実戦のそれは筆舌に尽くし難い。戦う相手が敵だけでなくなる。季節そのものと戦わなければならなくなる。食料の現地調達は不可能で、液体のまま水を保持することも難しくなる。私はこの地を一度離れ、陸軍に入り、五五派遣隊に配属されると、冬の戦闘技術をいやというほど学ばされた。あまりに過酷な訓練だった。祖父と冬の山野を巡った経験がなければ、間違いなく挫折していた。そのときから南波とは同じチームだったが、彼は終始無表情だった。最初は何を考えているのかわからなかった。次第に、何も考えていないのだとわかった。そして、時折何かを考えているのだということもわかった。助教や指導官はうまくチームを編成するものだと思う。今では南波と私の最低行動単位は不可分のものになっているのだから。
「もうすぐ着陸する!」
メディックが怒鳴る。南波がSTANDBYモードから復帰する。私はやや弛緩していた上半身を引き締める。伊来中尉は、クルーを失いこそしたが、けがもなく帰還できたことに幾分安堵しているように見えた。
「陸軍さん、ここでいいな」
メディックは航空ヘルメットにバイザを降ろした姿だ。表情はわからず、口調も強かった。歓迎はされていないのだろうと思いながら、
「助かった。ありかどう」
私はそう伝えた。南波が親指を立ててみせていた。連邦合衆国の兵士がやるような仕草だが、南波がやっても似合わない。私は南波に小さく首を振ってみせたが、私の仕草が彼には理解できなかったらしく、私にも親指を立ててみせた。いまいち似合わないのは、連邦合衆国軍の兵士のような底抜けに明るい表情を見せなかったからだろう。
ヘリはぐっと右に旋回し、高度も落ちていた。豊滝前線基地は二五〇〇メートルの滑走路一面と平行誘導路、建造物のやたらと少ないエプロン、ひょろ長い管制塔と、必要最低限の設備だけがある、例えはおかしいが、国道沿い、不意に現れた小さな売店とガソリンスタンドしかないパーキングエリアのようだった。急ごしらえのようなコンクリート造りの掩体が森とエプロン地区のあいだに並んでいて、出撃待ちなのか、列線には六四式戦闘爆撃機と八一式要撃戦闘機の姿が見えた。
私たちが乗った七七式救難ヘリコプターは、ゆっくりと、エプロンの端のヘリパッドに着陸した。
メディックが先に降り、エスコートされるように伊来が続き、私と南波は言葉や意思を介しないアイコンタクトを交わして、4716自動小銃を手に、短い空の旅を終えた。
私たちは空軍基地に降り立った異質な黒い染みだった。空軍の兵士たちは空色の制服を身につけていた。警衛の兵士はいるのだろうが姿は見えない。自動小銃や拳銃といった飛び道具を持った隊員の姿はない。戦闘機に取り付く機付員たちは濃いグリーンの作業服を着ていたが、黒の戦闘服上下は私たちだけだった。伊来はヘリコプターを降り、メディックが付き添いながら、離れていく。彼女がこれからすることされることは多いに違いない。とりあえずは医官の診察を受けるのだろう。上官への報告、あるいは審問も受けるかもしれない。そしておそらく、私たちはもう会うことはないだろう。悲観的意味ではなく、彼女は空の住人であり、任務は戦闘機を駆って空を切り裂くことだ。私たちは地を這い、銃を撃ち、駆けるのが任務だ。住む場所が違う。今まで伊来中尉に出会わなかったように、これからも会うことはないだろう。ただ、会おうとする意思があればまた出会えるかもしれない。邂逅の機会があったとして、私たちは会おうとするだろうか。私は彼女の後ろ姿に、首都で見た桜の花を思った。満開の。
「伊来中尉」
ヘリコプターはエンジンを切っていたから、ローターが空を切る音と、出撃を控えてエンジンをかけている八一式要撃戦闘機のタービン音があたりを支配している。
伊来中尉。振り返る。
「よかったら、……タクティカルネームを、教えてもらえませんか」
私の声は届いただろうか。私の声は彼女ほどに高周波ではない。南波が私の隣に並ぶ。
「……!」
伊来が答えた。スロットルを開いたらしい八一式要撃戦闘機のエンジン音に、彼女の声は紛れてしまった。
私と南波、そして伊来中尉との距離は、もう開いていた。私たちが彼女に歩み寄るには不自然なほどに。そして、私たちは彼女の言葉を二度聞き返すほどに親しくはなかった。彼女は先任だったが、彼女の言葉は命令ではなかったから、確認する必要もなかった。
「南波、」
私は前を向いたまま、伊来中尉を見送ったまま、南波を促す。
「中尉!」
エンジン音に負けない大きさで、南波が声を張り上げた。肺活量の大きな南波の声はよく通る。伊来は私たちを向いたまま。
「武運長久を!」
伊来中尉。じっと私たちを見る。そして、機敏な動作で脱帽時の敬礼……いわゆるお辞儀をした。
彼女と並んでいたメディックも、倣った。
私たちは挙手の敬礼。陸軍式の、正式なスタイルで。
そして、伊来は踵を返し、しっかりとした足取りで、エプロンから離れていく。
「陸軍さん、」
後から呼ばれた。振り返る。
「高泊まで、あんたら乗ってくか」
私たちを乗せてきたパイロットがバイザーをあげ、にやりと笑っていた。
「え、」
南波が聞き返す。
「ここは前線基地だからな。救難機は連絡機も兼ねてンのさぁ。……今すぐじゃないけんど、今日中に高泊の統合司令部まで行くから。行きは空荷だからよ。よかったら乗っていけばいいべ。誰もそったらことで文句は言わんべよ」
南波が私を見る。大尉の階級章とウィングマークをつけたヘリコプターのパイロットは、すさまじい訛でしゃべりながらコクピットから降り、腕を組んでエプロン地区を見渡す。
「いきさつは知らネが、五五派遣隊の名前は知ってるから。なにをやってンだかは知らネが、まあ、いろいろ大変なんだべ?」
パイロットは北洋州の南側の出身だろうか。そんな響きだった。。
「まあ、そうだね」
南波が答えた。伊来と話したときとは声音が違った。
「俺も五年前までは、戦闘機に乗ってたンだがな」
「そうなのか、」
南波は階級章に気付かないふりをしている。そしてパイロットもそれを許している。
「あんた、夢は見るかね」
「夢?」
「夢さ。さっき、俺のヘリん中で寝てたべ、」
「寝てない」
「目ェ閉じてたべや」
「見てたのか。脇見運転は勘弁して欲しいね」
「空に障害物はなかなかないから平気なんだ?」
聞き覚えがある訛りだった。間違いなく北部自治域……北洋州本島の南側、海沿いの出身に違いない。そういう匂いがした。
「困った運転手だぜ」
南波に並ぶと、パイロットはやや南波より背が高かった。南波は標準的な身長だから、やや長身といえる。私は……私も標準的なほうだろう。
「あの子は、また飛べるべかね、」
今にも煙草でも吸い出しそうな口調だ。パイロットは伊来のことを言っている。
「なぜ」
「馬から落ちたらすぐに馬に乗れ、っていうけんども、はぁ、あの子はどうだかね」
「やさしいんだな。若い女の子だからか」
「違うさ。俺がそうだったからさ。……撃ち墜とされっと、怖いもんね。飛ぶのがさ?」
CIDSもヘルメットバイザーも上げた彼の左の眉が分割されていた。大きな傷がある。外科的手術で目立たなくしているのだろうが、完全には消えていない。
「あの子は<PG>だからな」
パイロットの言葉に私は勢い、振り向く。
「やっぱり?」
「見ただけで分かるさ。どうせあんたもわかってたんだろうよ」
そうだ。伊来中尉は、間違いなく、<PG>だと感じた。遺伝子的エリートだ。生まれながらにして将来を拘束された存在。国家的エリートとして生を受けた子どもたち。
「空軍には多いんだ?」
パイロットは機長側のシートにもたれて言う。「陸軍さんには、いないのか」
「……俺の中隊にはいなかった」
「あんたは。それっぽい顔はしてるけんど」
パイロットが私を向く。飛行服のネームには、砺波とあった。砺波大尉だ。
「私は、違います」
「本当はそうだったりしてな」
南波が平淡に言う。
「やめろ」
「気づいていないだけかもしれないぜ」
「南波、」
「そういう話も、聞くなぁ」
砺波大尉が言う。
「本人が気づいていないって、あり得る話か?」
南波。私に言ったのか、砺波に言ったのか、両方か。
「いや、いずれ気づくらしい。……だいたい中等課程に入学するあたりで」
私が答える。
「なんでだ」
南波が知らないとは思えなかったが、もしかするとこの手のたぐいの話には「興味がない」のかもしれない。興味がなければ強制的に教育されない限り、知識は得られない。そして、遺伝子的エリート……<PG>の存在は、いわば公然の秘密であり、一種のタブーだ。誰もが知っていながら触れてはいけない話題。そういうたぐいの話。
「夢を見ないんだそうだ」
私は彼に答える。
「夢を見ない?」
「そう。寝ても夢を見ない」
救難ヘリの副操縦士はいつのまにか機体を離れて、私たち三人になっていた。
「それで訊いたのか、」
南波が砺波大尉を向く。
「まあ。実際、あんたァ、俺のヘリん中で目ェ閉じてたしな、顔見りゃ分かるべ。あんたァ違うって」
「俺は違うか」
「あんたは違う顔してるから、すぐわかる」
「そうか」
「いやァ、実際そうなんだわ。顔見りゃ、分かるからなぁ」
「あんたは、……砺波さんは、<PG>が嫌いなのか」
「好きとか嫌いってンじゃないべなぁ。まあ、気持ちの問題だ?」
「気持ち?」
「気の毒なんだ、」
気の毒。ちょっと違うとは思ったが、私もおおむね砺波の言葉にうなずいた。
第二世代選別的優先遺伝子保持者。Priority genetic screening children……PG。
夢を見ない子どもたち。
遺伝子的に精神的補強がされていると言われている。……言われている、というのは、今のところ政府も厚生省も<PG>の存在を公式には認めていないからだ。存在は間違いないが、見て見ぬふりをしている。夢を見ない子どもたちは、極限状態に生来強いからだ。
「フラッシュバックしない。……夢を見ないからな。悪夢も見ない。もちろん楽しい夢も見ないけど」
「うなされるってことがないのか」
「原理的には」
「そりゃめでたいな」
「南波、あんたでもうなされるなんてあるのか」
「俺は繊細にできてるからな」
「嘘をつけ」
「姉さん、ひでぇなそりゃ」
「けど、あんたらァ、耐えられっかね。夢ェ見ない人生なんて」
「俺は……夢を見たかどうかなんて、憶えてないぜ」
「でも夢を見たことはあるはずだろう」
「まぁな」
「<PG>の子たちは、まったく夢を見ないんだ」
「だったら……さっきの伊来中尉だって、また飛べるだろう、いくらでも。撃墜されたショックなんて、なんとも感じないってことだろう?」
「そう、思うべなぁ」
砺波はヘルメットを取ると、腹の前で両手で抱えた。ヘルメット一体型の航空用CIDSのインターフェースはディスコネクトされている。砺波はヘルメットを抱え、私たちは自動小銃を抱えていた。空軍基地において自動小銃を扱うのは、基地警衛の兵士と、基地防衛隊の隊員だけだ。やはり私たちは相当にここでは異質に思えた。少なくとも、<PG>のパイロットよりも、特殊作戦部隊の隊員のほうがはるかにめずらしい存在だろう。
「夢ェ見ないってことは、逃げ場もねェってことだべ?」
砺波が言う。
「逃げるって、どこに逃げる? 夢の中に逃げ込むのか? おいおい、そりゃ危ないぜ。病気だ。兵隊向きじゃないな。転職をお勧めするぜ」
南波がまぜっかえす。
「夢の世界は精神的な防御反応の避難先としては有効なんだよ」
私が答えると、南波は口を半分開き、あきれたように聞き返す。
「夢の世界?」
「そう。夢の世界」
「そんなに……、眠いのか。空軍にベッドでも借りて寝るしかないな」
「本当の話だ」
「なにがだ」
「……夢を見ないってことは、追体験も『予習』もできないってことなんだ」
「なんだそれ」
「南波、自分が死ぬ夢、見たことあるか」
「……」
「自分じゃなくてもいい。私でもいい。いや、家族でもいい。そういう夢、見たことあるだろう」
砺波は黙っている。
「……お前が殺られる夢なら、死ぬほど見てる」
「そうか、」
「俺も、何回殺られたか分からないな」
「なるほど」
「それがどうした」
「それが『予習』だ」
「なにが『予習』なんだ」
「お前の脳が、勝手に予習してるんだ。私が戦死するときの体験、自分自身がやられるときの体験を」
「どういう効能があるんだ、そんなもん。……悪夢なんだぞ」
悪夢。そうだろう。悪夢だ。
「耐性ができる。免疫みたいなものだと思えばいい。精神的な」
「免疫?」
「私が殺されるときの、シーン、とでもいうのか、それをお前は何回も『予習』して、現実に備えているわけだ」
「俺は……お前を戦死させるつもりはない」
「わかっている。けれど、夢の中での体験で、お前はもう、私が殺られたらどんな感情を抱くか、もう知っているわけだ」
「……そうだな」
「自分が殺られるときのシーンも、憶えているわけだ」
「憶えてる」
「何度も何度も見れば、……夢を見ているあいだはそれが現実としか思えないだろうが、目が覚めればそれが夢だったと分かる。夢で人生が変わることだってあるだろう」
「あるべな」
砺波が口を開く。
「それが夢の世界だ」
「伊来中尉は、それがないっていうのか。それがどうしたんだ」
「精神的耐性がないってことだ」
「強いんじゃないのか」
「フラッシュバックしない、悪夢で精神疾患を誘発する心配がゼロ、そういう面では強い。はるかに私たちより強い。けれど、『体験の予習』……これは私の言葉じゃなくて、グスタフ・ロールバッハっていう精神科医が言い出したんだけど……これがあるのとないのでは、予見される『悲劇』を実体験したとき、一部のグループで、精神的破綻を呼び込むことが分かったんだそうだ」
「なぜ、」
「その『悲劇的体験』を、あとになってから、現実と区別不能の夢として脳が追体験して、ヒトは過去にしていくわけだ。分かりづらいと思うが」
「ようするに、辛い体験をしても、何回も夢で見れば、免疫ができるってことか? 」
「ホラー映画を何回も見たら怖くなくなるだろう? 南波がお好みの戦争映画だって、Iidであれだけ見たら、恐怖も興奮も何もないだろう? 慣れるから」
「まあな」
「伊来中尉は、それができない。とびきり恐ろしいホラー映画を一度しか見られない。その強烈な恐怖は心に焼き付いて、それっきり劣化もしなければ、慣れることもない。とてつもないスケールの戦争スペクタクル映画も見られない。夢の中でフラッシュバックはしないが……物理的に夢を見ないからだな……覚醒時に『思い出す』ことはあり得る。
たとえば南波、私が戦死する夢の話だけれど、風連の発電所でチームメイトの野井上が敵の狙撃で殺られた場面と、明確に区別できるか。お前の記憶の中では、『私が戦死した』のは夢だとタグがついているから区別できるだけで、それがなければ、私もあそこで現実に戦死したチームメイトも等しく『戦闘中に戦死』している記憶になっていないか」
言いながら、自分の言葉がまとまりきっていないよう感じる。それは南波の表情で分かる。唇を歪めて、考えている。砺波はそれを興味深そうに見ている。
「記憶の中で、私も野井上も戦死しているが、けれど、お前は過去に夢の中で、私が戦死するシーンを何度も体験している。……だから、たとえば風連で私も野井上と同じく戦死していたとしても、お前が私の死で受ける精神的衝撃は、より少ない、そういうことなんだ。ものすごく乱暴だけど。……この話をきちんとしたら二時間くらいかかっちゃう」
「だから、」
「伊来中尉は、訓練でしか墜落を経験していないはずだ。シミュレータさ。シミュレータはしょせんシミュレータじゃないか?」
「そうだべな……俺もそう思うわ」
砺波がうなずく。
「シミュレータでいくら敵に撃ち墜とされても、痛くもかゆくもねェべ。……思い出したところで辛くもねェ」
「そう言うことか。……あんたが、あの子がもう飛べなくなったんじゃないかって言うのは」
砺波がうなずいた。
「けれど、<PG>は強いんだろう?」
「強い」
と私。
「けれど、弱い。……きっと伊来中尉は、今日のことを何度も思い出す。それを乗り越えられなければ、きっと彼女はもう飛べない。砺波さん、あなたはそう思うんですよね?」
砺波がうなずく。
「いままでそういうパイロットを、見てきた?」
うなずく。
「復帰できた奴はいないのか」
南波が問うと、砺波は私たち向き直り、唇を固く閉じ、そしてゆっくり目を閉じた。
「砺波大尉」
私が訊く。
「飛ぶだけなら、誰でも戻れるさ」
静かに言った。
「彼女は、」
私。
「さあ……あの子次第だべなァ」
そう言って、砺波は目を細め、笑った。
轟音。
見ると、爆装した六四式戦闘爆撃機がアフターバーナーに点火し、猛烈な勢いで離陸滑走を開始。容量六〇〇ガロンの航空燃料を入れた増槽にGPS誘導式GBU-4爆弾、そして自衛用の空対空誘導弾を鈴なりにした機体は、双発のエンジンノズルから盛大にアフターバーナーの炎を吐きだし、滑走路を延々突っ走り、ようやく浮いた。曇天にアフターバーナーの炎は鮮やかなオレンジ色で、主翼端からは白いヴェイパートレイルを曳く。ジェットブラストもまだ余韻の残る滑走路に後続機が進入、同じようにアフターバーナーを全開にして離陸滑走をはじめる。あたりは凄まじい轟音に包まれる。私たちのつまらない会話も終わりだ。
「陸軍さん。飛行隊本部に顔を出して来い。高泊まで飛ぶ便があるって聞いたって。して、……飯でも食べてくんだな。飛ぶのは二時間後だ。一眠りしてこい」
離陸機の爆音が遠ざかり、後続がエンジンを吹かす前に、砺波が怒鳴った。
「了解」
南波が親指を立てた。
「サムアップは陸軍さんには似合わねぇべ」
砺波が笑った。
「武運長久を」
「そのセリフはまだ早ェえなぁ」
「南波、」
「了解、行くぞ、准尉」
「了解、少尉」
本当は駆け出したかったが、私は歩いた。
南波も。
4716自動小銃が、重く感じなかったというと、嘘になる。
そういえば。
伊来中尉のタクティカルネーム。
タービンの甲高い音にかき消された彼女のもう一つの名前。
私の耳には微かに届いていた。
南波はどうだったろう。
……それは、花の名前だった。
北洋州の野に咲く花ではなく、格調高い、首都……帝都に咲く満開の花。
彼女の名前は、そう聞こえたのだった。
桜。
ぱっと咲いて、ぱっと散る。
この国の人間がもっとも愛する、春の花。