【SS】駅
駅に向かう私の足取りは重い。それはまるで夢の中にいるようで、遠浅の海を行くように、足元にねっとりとした質感のある空気がまとわりついていた。
東京駅はいつものように人でごった返していた。人々は川のように複雑に入り組みながら流れていく。その中を置いていかれないように、一人前の魚のように、私は急いだ。
私は駅の並ぶ改札口の中の三番目を通る。いつも、何となくここを通るのが私の日課だった。
導かれるように歩いて行く。見上げ、ホームに続く階段の出口に切り取られた空が白いのを見つけた。雪が降りそうだった。
私は電車を待っている。白線の内側にはすでに何人か並んでいた。
今日は何か特別な日なのだろうか。行列には黒い服が目立つ。
空の白、人の黒。まるで一昔前の映画のような風景。時間がコマ落としのようにゆっくり流れて行った。
ホームに電車の来訪を告げる。アナウンスが流れた。
その直後に構内に滑り込んできた電車は空だったが、順番に入って行く人々ですぐにいっぱいになった。
私も電車に乗り込もうと一歩を踏み出した。
りん りりりり
りん りりりり
まさに電車に乗ろうというその時、ケータイの着信音が鳴った。私は重い手を持ち上げ、ケータイを胸ポケットから取り出す。
ケータイのディスプレイを見る。電話は娘からだった。
「お父さん」
娘は泣いていた。
「ど、どうしたんだ?」
「お父さん……」
娘にはこちらの声が聞こえていないのか、ただ、お父さんと繰り返し泣いていた。
「どうしたんだ!?何があったんだ?」
私は動揺して聞いた。
次の瞬間、空間を引き裂くように、悲鳴のように警笛が鳴った。
「どうしたんだ?おい!」
娘が泣いている。
心臓が高鳴り、血が血管を巡る潮騒が耳に響いた。
私は胸が苦しくてその場にうずくまった。
すると、その私の隣を一人の壮年の男が通り過ぎて行った。
その男の姿。黒服に黒い傘を杖代わりにしていると言う出で立ちだった。
不意に男がこちらを向く。その男と目が合って、私は更に驚愕した。
岩盤のようにのっぺりとした男の顔に、裂けたように細い目が刻まれている。それだけで十分異様だったが、何より驚いたのは、男の瞳が血を染めたかのように真っ赤だったと言うことだ。
恐怖で背筋が凍った。私はその場から動けなくなった。
「乗らないのですか?」
男は私に聞く。私は相変わらず動けず、答えなかった。
「乗らないのですか?……そうですか」
男は口の端を吊り上げ、にやりと笑った。
「お父さん!!」
娘の声が今度は耳のすぐ側で響いた。
はっとして振り返ろうとすると、電車から突風が吹き、私は思わず目をつぶった。
次に目を開けた時、私の目に入って来た光景は白い天井だった。
「お父さん!」
娘の声に我に返り横を向くと、涙で顔をぐしゃぐしゃにした娘の顔があった。
「お父さん!気付いたんだね!よかった!!」
「何なんだ……何が起きたんだ?」
辺りをゆっくりと見回す。私はどうやら寝かされていて、周囲を白衣の集団…救急隊と看護師らしき人々に囲まれていた。
「あなたは駅に向かう途中、倒れられたのですよ」
「何だって?」
私は愕然として目を開いた。
駅に向かう途中?
「駅には確かに辿り着いたはずなのに…」
思わずつぶやいた私に救急隊員の一人がふとこんなことを言った。
「ああ。あなたは電車に乗りましたか?」
「いや…」
「それはよかったですね」
「何だって?」
「とにかく乗らなくてよかったのですよ」
私の手首をとって脈を見ていた白衣の天使が微笑んだ。
それ以上に天国の笑顔で娘が安堵のため息とともに笑う。
ああ。私はどうやら命拾いしたらしい。
そして思った。あの時、娘からの着信に出なかったら……。
そう思うと今でもぞっとする。