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ぼくは、てをのばした






 誰か 罰をください

 誰か 償いをさせてください

 でないと 勘違いしてしまうから


 望まれて生まれた子供だったのだと


 勘違い してしまうから




+++




「……っ!」


 真っ暗な闇の中で首を締め上げられる、酷く嫌な夢を見て飛び起きた。

 どきどきと心臓が五月蠅くて眉が寄る。

 目覚めた先は自分のベッドの上で、窓の外は明るい。

 明るさからして、もう昼時だろう。どうやら、いつもの起床時間を寝過ごしたらしい。


「……っ……夢、だよな……」


 締め上げられた首の感触がまだ残っているようで、恐る恐る首をさすった。

 もしかすると、少し魘されていたかもしれない。

 そのままベッドを降りて、寝汗を吸ったシャツを脱ぎ捨てる。ひとまずは着替えて、それから部屋を出た。

 階下からは食事を支度する物音が聞こえる。

 覗くと、台所でおかあさんが昼食を作っていた。

 父さんはまだ戻ってきていないらしい。

 良かった、と一息吐き、階段を下りきる。

 その物音で気がついたのか、おかあさんが振り向いた。


「あら、おはよう。もうすぐご飯出来るからね」


 微笑みながらの言葉に頷いて、それから、テーブルの上に食事がまだ用意されていないのを確認する。


「……ちょっと、外に出てくるよ」


 目が覚めるように散歩してくると告げると、ちゃんとご飯食べに戻ってきなさいね、と優しげな声で言われた。

 頷いて答えて、俺は外へと出る。

 父さんが仕事先から戻って昼食を摂る間、何処かで時間を潰してこよう。

 せめて父さんが俺を見ることなく楽しく食事出来るように。

 それは、俺の日課だった。

 森の中に出来た小道をゆったりと歩いて、空を見上げる。

 空は腹立たしいほどに真っ青だ。

 森の中の綺麗な空気を、胸一杯に吸い込む。

 木々の枝を潜って小川を飛び越えて、凹凸のある獣道を、俺は歩いていく。

 淡々と進むその足を、ふと何かが呼び止めた。


「……ん?」


 振り向いても見回しても、誰もいない。

 けれど、その何かは確かに、俺を呼んでいる。


「……なんだ?」


 声じゃない。

 何かの気配が、俺を何処かへ連れて行こうとしているみたいだ。

 まぁ、時間潰しくらいにはなるだろう。

 俺は、その誘いに従って進む方角を変えた。まだ整地されていない草むらや茂みの間を、ずかずかと進む。

 俺が樹の精霊だから、枝達は俺のことを避けてくれた。

 そうして、茂み達の間を抜けて、俺を呼ぶその何かのある場所へ、ようやく辿り着く。

 高く高くそそり立つ崖があって、高いなとそれを見上げてからそのまま視線を下へと辿らせて、眼を見開く。


「な……!?」


 崖の真下に、子供が落ちていた。

 黒い髪と、顔の左半分を覆っている白い包帯。

 目を閉じて、仰向けで、まるで眠ってでもいるかのように動かない。

 いや、もしかしたら死んでるのかも知れない。凄い量の血が出ている。

 崖から落ちたのだろうことは明白だった。

 俺は駆け寄って、俺と年齢はそう変わらないだろうその子の傍に膝をつき、その顔を覗き込む。


「……おい、生きてるのか……!?」


 ぶしつけに呼び掛けると、少し間を置いてから、弱々しくその瞼が開かれた。

 闇の淵みたいに真っ暗な瞳がそこから覗いて、俺を見る。


「あ、良かった、意識あるんだ? 聞こえてる?」


 意識があることにほっとしながら訊ねると、頷こうとしたらしい子供は、僅かに動いて顔を顰めた。

 白い包帯がじわじわと赤くなっていく。

 今の動きで更に出血したらしい。

 大丈夫か、と手を伸ばし掛けた俺は、しかしそれを途中で止めた。

 少し動いただけで今の出血だ。下手に触ったら不味いかも知れない。

 しかし、そうなると、抱き上げて治療が出来るところへ運ぶなんて事は出来そうにない。

 風の精霊を呼ぼうかとも思うけれど、あの運び方は風任せで力加減が上手く出来ないからか、結構荒っぽい。

 運んでいく間に死んでしまったら大変だ。

 ここに、治療が出来る精霊を呼んだ方が良いだろう。

 そう考えて、すぐにひとりの顔が浮かぶ。他に水の精霊の知り合いなんていないのだから、それも当然だ。

 俺は決めて、子供を見下ろしながら立ち上がった。

 そしてすぐに踵を返して、言葉を置いていくのさえも惜しんで走り出す。

 早く。

 早く早く早く。

 早くしないと、あの子は死んでしまう。

 そう思ったから、だから一目散に走った。




+++




「スイキ、スイキ、スイキぃー!」


 走る間に見えてきた館の方へ向かって声を張り上げながら、俺は忙しく足を動かした。

 ばたばたばたと足音を立てて、上がる息も整えられないまま、駆け込んだのは大きな館の中だ。

 ちょうど歩いていた使い女さんが廊下で目を丸くして、ちょっと、と声を上げたのも無視した俺は、この館に住む友達の名前を呼びながら廊下を走った。


「スイキ、スイキ、スイキぃーっ!!」


「……おい、どうしたんだ?」


 通り過ぎた扉が開いて、そこから顔を出したのは俺が捜し求めていた水の精霊だ。

 足を止めた俺はそのままの勢いで身を翻し、その扉の方へと駆け戻った。


「スイキいた! 今すぐ! 今、出られないか!?」


「……本当に、どうしたんだ?」


 不思議そうに、スイキが首を傾げる。それも当然だ。

 俺は、慌てて説明した。


「さっき、そこで! ほら崖あるじゃん、あそこの下で! 子供が落ちてたんだよ、酷い大怪我で! だから早く行こう!」


「……は!? 何だと!?」


「だから、子供だよ! 髪が黒くて、そうだ顔に包帯も巻いてた! 左半分くらい覆ってたし、他に悪いところあったのかも! 早く、早く行かなけりゃやばいよ!」


 思い出してまた青くなってしまって、俺は手を伸ばして半開きの扉を大きく開かせる。

 スイキは触られるのが嫌いですぐに気分が悪くなるから、手を差し出したりはしない。

 スイキは、俺の言葉に目を見開いて、それから後ろを振り向いた。

 その動きで、俺も部屋の中へと目を向ける。

 そこには、スイキ以外に人影が二つあった。

 一人は、男の人。<氷王>様だ。いつも通りの厳しい無表情で、ソファに座っている。

 その向かいにも、一人。

 見たことのない顔の、俺と同い年くらいの奴だ。

 そいつは物凄く真っ青な顔をして、こちらへと駆け寄った。近付きすぎたのか、スイキが慌てたように廊下へ出る。


「そ、その子、チノじゃなかったか!?」


 燃えるように真っ赤な目を不安で揺らしながら、そいつは俺の手を捕まえた。

 必死な指には力が込められていて、僅かに痛い程だ。

 言われても、俺はその名前を知らない。


「分からない、見たこと無い子だったのは確かだけど……」


「黒い髪で、黒い目で! ……そうだ、しゃべらなかっただろ?! 呻き声一つ出さなかっただろ!?」


「声?」


 言われて、ええと、と考える。

 確かに、声を聞いた憶えは無い。声も出せないくらい痛かったのかも知れないけれど。

 俺が頷くと、俺の手を放したそいつは、今度は俺の襟首を掴んだ。


「何処だ!? 何処にいたんだ!?」


「わ! ちょ、ちょっと待てって!」


 言葉と共にがくがくと揺すられて、慌てて突き飛ばす。

 今はこいつと遊んでる場合じゃない。

 喚きそうな目の前の相手から目を逸らして、俺はスイキを見た。


「早く行こう、スイキ! あのまんまじゃ危ないって!」


「ああ、分かった。……父様!」


 頷いたスイキが室内を見やる。

 『父様』という言葉に、そういえば<氷王>様も居たということを俺は思い出した。

 かなり酷い怪我だったから、もしかすると<王>様を連れて行った方が良いんだろうか。

 そう思って見やってみたけど、<氷王>様は自分が行こうとか言うこともなく、ただ俺達の方を見ているだけだった。


「私はすぐに出ることが出来ない。スイキ、先にお前が行け」


 そうしてあっさりとそう言い放たれて、む、と眉間に皺を寄せる。

 焦っている様子が全く見当たらない。

 自分が行かなくてもスイキが行くなら大丈夫だとか思っているのかもしれないけど、死にそうだって俺は言ってるのに。


「分かりました。もしも手におえないほどなら、すぐに引き返してきます」


 抗議しようと俺が口を開く前に、スイキがそう言い放った。

 <氷王>様が頷いて、それから立ち上がった。


「おい、そこの」


「……俺ですか?」


「そうだ。モクカ、だったか。お前だ」


 何だろう、と思っている間に、上背のあるその人が、茶髪少年の後ろに佇んで俺を見下ろす。


「お前が言う、その怪我をしている子供というのは、恐らく忌み子だが。それでも、助けたいか?」


 囁いて訊ねる声には、何の感情もこもっていないみたいだ。

 俺は、湖の底みたいに静かなその目を見返した。


「……忌み子?」


 その呼び名は知っている。

 額に魔法石もない、呪われた出来損ないの化け物だとか、そんな風に聞いたことがある。

 聞かされた時にだって浮かばなかった嫌悪感は、焦りすぎた俺の心には変化も与えない。

 だって化け物なのは俺も同じだし、忌み子がどんな『化け物』にしたって、俺以上に最悪な存在がいるはずが無い。

 それに。


「だって……」


 血塗れで倒れていた、小さなあの子を思い出す。


「だって早く助けなきゃ死んじゃうだろ!」


 俺の叫ぶような声に、そうか、とヒョウガキ様は頷いた。

 その動きを見ている暇すら惜しいのか、早く連れて行け、と、茶髪の奴が声を上げた。

 それに弾かれたように、俺も走り出す。

 来た道を辿るように、廊下から玄関、そして外へ。

 肩越しに振り返ると、ちゃんとスイキも付いて来ていた。

 俺のすぐ後ろを走る茶髪と目が合って、話しかけようとして、名前を知らないのを思い出す。


「なぁ! お前! 名前、なんて言うの!」


 走りながら問いかけると、走りながら答えが返った。


「カエン、だ!」


 暑苦しそうな名前だ。

 そんな風に思いながら、俺は更に足を速めた。

 後ろからは足音が二人分。

 俺達は、森の中を走り続けた。




+++




 辿り着いた森の、すぐ傍で。

 落ちていた木の枝で地面に、風の精霊を呼ぶ印を刻んだ俺は、座り込んでいるスイキから、少し離れて隣りに座った。

 疲れ果てた様子のスイキを見ながら口を開く。


「なぁ、大丈夫か?」


「……ああ」


 頷いて、スイキは自分の顔をその手で覆った。


「……力が、全然足りなかった……」


 さっきまで、スイキは森の奥の崖下に倒れていた子供の怪我を治療をしていた。

 あんまりにもその怪我が酷すぎて、スイキの手には負えなかったらしい。

 スイキはその出血と痛みを抑える応急処置をしてくれた。

 それで、俺達は今からヒョウガキ様を呼びに行くのだ。

 だったら最初から来てくれたらよかったのに、と呟いたら、スイキが<氷王> 様はすぐに館を出られない務めなんだと教えてくれた。

 確かに、治して欲しくて怪我人とかを抱えて館へ飛び込んだのに、治す人は今出かけています、なんて言われたら最悪だもんな。

 抗議しなくてよかった、とこっそり思った。


「……駄目だった……」


 落ち込んでいるのか、スイキが呟く。

 俺は首を傾げて呟いた。


「仕方ないだろ? 足りなかったんだから」


 ちょっと言い方が冷たかっただろうか。

 スイキが弾かれたように顔を上げ、俺を睨んだ。

 その視線を見返しながら、だってさ、と続ける。


「俺達まだ子供じゃん? 勉強し続けて人生もようやく下り坂って感じの<氷王>様達と、張り合える訳ないしさ」


「下り坂って……」


 スイキの呆れ顔に笑いながら、俺は肩を竦めた。


「でもさ、背伸びしたって仕方ないし。出来ないことを誤魔化したって、出来るようにはならないしな」


 ただの事実を呟いて、俺はにやりと笑った。

 だって、どうあがこうとも、出来ないことがすぐに出来るようになるわけがない。

 もしそんなことが出来るんなら、俺は今すぐレイカの病気を治してあの場所から連れ戻して寂しがりやなレイカを父さんとおかあさんの側に居させてやるし、何の保護もいらない存在になって父さんの前から姿を消してみせる。


「だけどさ、これから勉強して出来るようになれば良いだろ?」


 それすら出来ない無力な手で、俺はぴんと人差し指を立てた。


「俺もスイキも、まだまだこれからだって!」


 分からないことがあったら、素直に聞いて学んだらいい。

 俺は一人でも生きられるように、強くしてもらえるよう<精霊王> 様達にお願いした。

 <風王>様のしごきは厳しいけど、着実に自分が強くなっているのを感じるし、もう少し大きくなったらひとり立ちできるから、そしたらレイカの病気を治す方法を探してくれている<氷王>様の手伝いだってできる。

 出来ないことは努力して物にすればそれでいい。

 俺にはまだまだ時間があるし、スイキだってそれは同じなんだ。

 俺の言葉に、スイキは幾度か瞬きをした。

 それから、俺ににやりと笑み返す。


「……当たり前だ」


「あ、何それ。人がせっかくさぁ」


「慰め方が下手だな。私ならもっと上手く出来る」


「うっわ、酷ぇ」


 むっと頬を膨らませて見せながら、俺はそれでも内心胸を撫で下ろした。

 初めて会った時からスイキは強気な奴だったから、落ち込むなんてらしくなくて、こちらが落ち着かない。

 よしよし良くやった俺と、笑っているスイキを見ながら自画自賛していた時、突然何かが俺の頭の上に落下した。


「あぅー」


 同時に、そんな鳴き声。


「ぅわ、何!?」


 驚いて、俺はそれを掴み降ろす。

 それは、柔らかそうな頬をした、赤ちゃんだった。

 歯もまだ揃ってなさそうな、本当に小さな赤ちゃんだ。

 にこにこ笑って俺を見上げ、その視線をスイキへ向ける。

 くりくりした瞳が、大変可愛い。


「……こいつ可愛いなぁ」


 呟いて、俺はそのうす緑色の髪に頬擦りしてみた。独特のミルクの匂いが鼻をくすぐる。

 レイカもこんな風だったな、などと思い出して、それから目の前のスイキにも下のきょうだいが居たのを思い出した。


「スイキも抱っこしてみるか?」


 言いながら子供を差し出してみる。

 スイキは、頷く代わりに俺から少し離れた。


「迂闊に近づけるんじゃない、馬鹿者」


「……こんなに小さい子でも、駄目?」


 怒られたので、赤ちゃんを抱き直しながら俺は訊ねた。スイキが頷く。


「絶対、私に触れさせるな。倒れる」


 スイキは、しっかりと言い放った。

 どうしてかは分からないけれど、俺の目の前に座る<氷王>様の子供は、他の人に触ることが出来ない。

 気分が悪くなって、最終的には倒れてしまう、らしい。まだ見たことはないけれど。

 以前、レイカにやるようにスキンシップを取ろうとしたら殴られたのだ。

 殴るのは大丈夫だということは、やっぱり自分から意識して触る分には我慢できるってことなんだろうし、だから赤ちゃんは抱っこできるかと思ったんだけれど。


「……それって、やっぱり、タイジンキョウフショウとかって奴なのかな」


「いや、昔は平気だったし、別にトラウマは無いんだ。多分……体質になってしまったんだろう」


 スイキが、少しだけ苦々しげに呟く。

 それから首を振り、とにかく私の傍には寄るなと俺に告げて、もう少し離れた。

 それは当然の対策だ。

 赤ちゃんというのはとにかく興味を引く物は何だって掴みたがるし、たぐり寄せられる物は何だって口に入れたがるのだから。

 俺の髪みたいに。


「痛い痛い痛い痛い、痛いから止めてくれー」


 物凄く純真な目をして人の髪を引っ張る子供に、首を捻って髪の毛を取り上げながら請う。

 子供はまったく気にせずに笑いながら、髪を取り上げられても不機嫌にはならずに、うぅだのあぅだの喋っていた。

 髪を避難させてから、その顔をもう一度見つめる。


「で、お前は一体何処の子なんだぁ?」


「うちの子さ」


 低い声と影が落ちたのは、殆ど同時だった。

 驚いて仰いだ空に、男が一人、寝そべって浮かんでいる。

 黒い長髪の、大きな体の、優しい笑みの人。


「セイクウ様」


 俺が呼ぶと、セイクウ様はその穏やかな笑みを深くしながら、その手を俺へと伸ばす。

 伸ばされた腕に赤ちゃんを差し出しながら、俺は立ち上がった。

 ただ風の精霊を呼んだだけなのに、<風王>様がくるなんてとんだ過剰サービスだ。


「こんにちは、ヒョウガキの子供。それから、モクカくん」


 俺から我が子を受け取った風の<王>様が、ゆっくりと大地の上に降り立った。


「呼んだのは君たちかい?」


 俺が大地に書いた印を見て言うから、俺は頷く。


「ヒョウガキ様の所まで、よろしくお願いします」




+++




 ヒョウガキ様は、呼びに来た俺達に館に残っているように言って、そのまま子連れの友達をひっつかまえて行ってしまった。

 応接間にはどうやらヒョウガキ様が呼んだ他の水の精霊が何人かいるらしく、 俺とスイキは、スイキの自室でソファに座って、とりあえず使い女さんが入れてくれたお茶を飲んでいる。

 スイキの部屋にあったチェス盤を間に敷いて、黒と白の駒戦争を始めてから、もう十分くらいだろうか。


「……あー、駄目だ」


 盤上はどう運んでも俺の負けになる状況で、俺は溜息と共に降参した。


「スイキやっぱり強いなぁ」


「お前は詰めが甘すぎる」


 スイキは笑って俺のクイーンを弾いて倒し、こちらを見た。

 スイキは綺麗な顔をしていると思う。澄んだ水みたいだ。

 少し眠くなっていた俺の頭が、そうやって見つめられることで緊張してクリアになる。

 その海色の眼はじっと俺を見たまま、ふと眇められた。

 睨まれる覚えなんてないのだけれどと思いながら、何となく居住まいを正す。

 スイキが、改めて口を開いた。


「眠れていないのか?」


「……は?」


「目が疲れてるぞ。目の下に隈もある」


 何を突然と眼を丸くする俺に構わず、スイキは続ける。そして俺の目を覗き込むように見た。

 俺は、ぱちくりと目を丸くする。

 まさか、気付かれてるなんて思わなかった。

 スイキはじっと俺を見ている。話さないと解放しない、とでも言うような目だ。

 だから、仕方なく俺は答えた。


「最近、悪い夢ばっかり見るんだ。それだけだよ」


 答えると、どんな夢だ、と問われる。

 だから俺は正直に答えた。


「暗闇の中で誰かに首を絞められる夢、かな」


 それは母さんが死んだあの時、父さんが俺を殺そうとした瞬間の夢だった。

 申し訳なくて申し訳なくて、哀しくて、俺はいつも跳び起きる。

 いつの間にか俺は、父さんの顔を真っ直ぐ見れなくなった。

 いつからだろうか。

 もしかしたら、初めからだったのかも知れない。

 そんな事を想いだしていると、スイキが口を開いた。


「モクカ」


「ん、何?」


「この間、私は本を読んだ」


「……は?」


「古い本だ。父様の手書きの。日記みたいな走り書きばかりの、けれど知識の詰まった本だった」


 何を突然と眼を丸くする俺に構わず、スイキは続ける。

 何だろう。

 俺は、胸に手を当てた。

 何でだろう。

 酷く、嫌な予感がする。


「その本の中に、ある子供の事が書いてあった」


 スイキは言う。


「生まれるその瞬間に、母親を死なせてしまった子供の事が、書いてあった」


 ひやりと。

 背中を冷たい刃が辿った。

 俺は呼吸すら忘れてスイキを見つめる。

 まさか。

 まさかまさかまさか。

 まさか。

 そんな。


「その子供は、近い血筋の間にだけ生まれる、一般から見れば『禁忌』と呼ばれる類に属する子供だった」


 スイキの言葉が頭の中を殴りつける。

 目の前が真っ暗になっていくようだ。

 俺の顔を見ていたスイキが、ふと俺の顔色に気付いて微笑む。

 酷く綺麗なそれは、嘲りであったとしても、綺麗だった。

 悲しいような、なんと言って良いか分からない気持ちになって、そっと目を伏せる。

 俺の仕草を見つめていたスイキが、けれど、と小さく呟いた。


「私は、その子供が生まれて良かったと思った」


 言われて、一瞬、何もかもが止まる。

 今、スイキは何と言ったのだろうか。

 スイキはまだ続けている。


「私とその子供は出会えたのだから。だから、生まれてくれて良かったと。そう思った」


 言われて、俺の口が知らずに動く。


「……母親を殺してるのに?」


 そうだ。

 その、『禁忌の子供』は、生まれてくる瞬間に母親を殺してるのに。

 俺の言葉に、ああそれでもだ、とスイキは答える。


「母親が望まなければ、子供が生まれるものか。恐らくは何もかも承知で。……何も知らなくても、子供が生まれることを喜ばない母親なんて、そいないだろう?」


「……」


「それに、『禁忌』の子供は必ず母親を死なせてしまうのだという」


 本で読んだのだという知識で、スイキは言った。


「だから、それはその子供の罪である筈がない」


「……じゃあ、誰が悪いんだよ」


 そっと、俺は囁いた。

 だって俺は憶えている。

 この世界に生まれたその瞬間のことを。

 今まで生きていた母親の胎内という世界を、この手で壊して生まれたその時のことを。


「殺してしまったのは、確かに小さな子供の手だったのに」


 言いながら、ああけれど、と思い出す。

 あの人も、確かそう言っていた。


『あの子、に、罪は、無い、の……』


 女の人の声が、蘇る。

 俺を殺そうとしていた父さんを、そう言って落ち着かせていた。

 他にも何か言っていたけれど、俺の耳には届かなかった。

 ただ、腹を真っ赤に濡らして青ざめた彼女を、見ていることしか出来なかった。


「罪人なんて何処にもいない。ただ愛し合う二人がいて、その間に子供が生まれた。その子供を責めてどうするんだ。望まれたから生まれてきたのに」


 スイキは、あっさりとそう言う。

 繰り返し繰り返し、望まれた子供だったのだと言う。

 それは酷く優しくて、とてつもなく残酷だと思った。

 それでも。


「……ありがと、スイキ」


 それを嬉しいと思う俺の方が、残酷だ。

 俺の言葉にスイキは笑った。

 それは優しくて、優しくて。

 やっぱり綺麗だ、と思った。




+++




 日が暮れだした頃。

 ヒョウガキ様を連れて帰ってきたセイクウ様は、チノというあの子とカエンは二人とも家に送ったと言った。

 それから、そろそろ君も帰るかい、と俺を見て言う。

 だから俺は頷いて、スイキの横から立ち上がった。


「明日も来るか?」


「おう。大丈夫?」


「問題はない」


 にんまり笑って答えると笑みを返されて、その綺麗さで幸せなつもりになりながら、じゃあね、と声を置いて歩き出す。

 空気が動いたなと思ったら、セイクウ様が付いて来ていた。もう帰るのだろうか。

 その腕の中では小さなフウキが眠っている。

 俺達二人は、何か言葉を交わすでもなく廊下を歩き、そして二人揃って玄関から外へ出た。

 外はもう薄暗くて、日は殆ど完全に落ちている。早く月が昇ればいいのにと空を見上げた時、後ろから声が掛かった。


「モクカくん、大丈夫かい?」


 言われて振り向くと、セイクウ様は既に空中へ浮かび上がっていて、俺を見下ろしていた。


「何のことですか?」


 俺はゆっくりと首を傾げた。

 すると、セイクウ様は俺の頭上を通過し、俺の正面でゆったりと浮かびながら俺の顔を見つめてくる。空色の瞳が、薄暗い世界でもはっきりと見えた。


「無理でもしているのかい、モクカくん? 目が疲れてるね」


 俺は目を見開いた。

 スイキもこの人も、どうしてそんな事が分かるんだ。


「……最近、怖い夢ばかり見るんで」


 俺の答えに、セイクウ様が首を傾げる。今更隠す事でもないから、俺ははっきりと告げた。


「俺が、母さんを殺した時のことを思い出すんです」


 花びらみたいに散った赤い水と、普通じゃないにおい。

 初めて見た外と、男の人の泣き叫ぶ声。

 『純血種』である俺は、自分が生まれたその瞬間から自我を持って、そしてその時からの全てを憶えている。

 父さんに首を絞められたことも、母さんがそれを止めたことも、今この瞬間のことも、ずっとずっと、憶えているのだ。


「それと……」


 俺は、ゆっくりと自分の首に触れる。


「……父さんが……」


 父さんは俺を殺す気だった。

 自分が愛した人を殺した化け物の首へ、あの人はその手を押し当てた。

 俺があの時死ななかったのは、それを止めた優しすぎる被害者がいたからだ。

 だから、俺はこの世界に今も存在している。

 誰も、俺がここにいることを望んでいないのに。

 暗い思考へ沈んだ俺の頭に、何かが触れた。

 我知らず俯いていた俺の髪を、優しくそれは撫でる。

 セイクウ様の掌だった。


「そうか……君は、あの時のことを全て憶えてるんだったね」


 そうだったねと思い出したように呟いて、セイクウ様は俺の頭をなで続けた。


「ねぇ、モクカくん。あの日、ナノハは死んでしまった。けれど……けれど、君は生きているだろう?」


 セイクウ様は俺の母親をナノハと呼ぶ。その小さな声に、俺は俯いたまま頷いた。

 分かってる。

 俺は、あの日殺されるべきだったのに、殺すべき一番の復讐者が被害者に止められてしまったから、今も尚生きながらえている。

 本当なら、殺されているはずだったのに。


「君は生きている。それが、どういう意味なのかは分かる?」


 セイクウ様は囁き、その手を止めた。


「それは、君が彼に必要とされたからだよ」


 その言葉に、俺は弾かれたように顔を上げた。

 薄暗いこの場所で、けれどセイクウ様の表情は伺える。

 <風王>様は笑んでいた。

 そうして、あんまりにも酷くて残酷なことを言う。


「君は、彼に……シヨウに、必要とされているんだ。それを忘れちゃ駄目だよ」


 セイクウ様が囁いたのは、俺の父親の名前。

 何て酷いことを言う人なんだろう。俺は呆然と彼を見上げた。

 俺が、必要とされている、だなんて。

 それも、あの人に。

 俺の呆然とした視線の前で、愛しげに幼い息子を抱き上げたまま、セイクウ様は笑んでいる。

 そしてふわりと俺の体を風へと乗せた。足の下から地面の感触が無くなる。


「暗くなるからね、送っていくよ」


 セイクウ様の申し出を聞いても、頷くとか、礼を言うとかそれどころじゃない。

 俺は、懸命に声を絞り出した。


「……んで……そんな、こと……!」


「だって、本当のことだろう?」


 俺の眼の前でセイクウ様は微笑んだまま、ふわふわと風を操り、俺も伴って移動を始める。


「ナノハは死んでしまった。いつだって、幼くてか弱い君を殺せたのに、けれどシヨウはそうせず、君を育てた。……そうだろう?」


「そう、だけど……でも、でもあれは……!」


 あの、優しい優しい女の人が、己が傷付きながらも懸命に父さんを止めてくれたからだ。

 あの子は悪くないのよと、酷く優しくて残酷なことを言って、母さんは自分の夫をがんじがらめにした。

 だから、父さんは俺を殺さなかったのだ。


「死者は決して蘇らない。死者は何も知ることが出来ず、何も感じない」


 セイクウ様は、ぽつん、と呟く。


「ナノハが死んでしまった時点で、シヨウは君を殺せたんだ。そうしなくても、捨てていくことだって出来た。けれど、そうしなかった」


 どうか、分かってあげて欲しいと、低く響く優しげな声が言う。


「シヨウには君が必要だったんだ。もちろん、今も」


 その声は、風に紛れるようにして消えていくほどに穏やかで小さくて、けれど確実に俺を突き刺した。

 ゆるゆると飛び上がっていた俺達の高度が下がり始め、足の下に短い草の感触が訪れる。

 いつの間にか、俺は家の前まで送り届けられていた。


「さ、着いたよ?」


 家を認識して尚立ち止まったままの俺へと、セイクウ様が囁く。

 それを聞いて、俺はセイクウ様を振り仰いだ。


「セイクウ様」


 そっと、俺は、この世界で最も強い四人の内の一人に尋ねる。


「けど、俺は確かに母さんを殺した」


 それは事実。俺はそうすることでしか生まれられない、化け物だ。


「どうすれば俺は、それを贖えるんですか」


 必要とされていないことで、存在を否定されることで償えるならそれでも良かった。

 けれどそれすら出来ないというのなら、俺はどうやって父さんへ詫びればいいのか。


「死者は決して蘇らない。だから、失った命を還すことは出来ない」


 セイクウ様は、そう呟いて腕の中の息子を抱き直す。

 セイクウ様に向かってすり寄ったその幼い子供は、未だ眠り続けている。


「それでも、相手に失わせた何かを贖いたいと言うのなら……まずは、自分を許してあげるといい」


 セイクウ様の囁きは優しいまま、けれど俺の耳を突き刺し続ける。


「そうして、自分を許してから。自分が出来る事へと、手を伸ばせばいいんだよ」


「……でも、それじゃあ……」


「自分が出来ない事へ手を出したって、仕方がないだろう? 君に、ナノハの代わりは出来ない。シヨウに、ナノハの代わりが出来ないように」


 なんと言えばいいのか、分からない。

 俺は、多分阿呆面を晒してセイクウ様を見上げていた。

 その顔は、きっと、泣いているような安心しているような悔しがっているような、そんな訳の分からない顔だったのだろう。

 セイクウ様は微笑んだまま、かんしゃくを起こしそうな子供を慰めるように俺の頭を撫でた。


「そんなに一生懸命考えなくたって、すぐ分かるよ。とっても簡単な話さ。とりあえず……今日はこのまま家へ入ればいい。ただいま、とでも言いながらね」


 そう告げて、<風王>様の手が俺を前へと押す。

 たたらを踏む形で、俺は前へと進まされた。反射的に、手がドアノブを捕まえる。

 肩越しに振り返ると、セイクウ様はそこに漂いながら俺を見ていた。中に入るまでそうしているつもりなんだろう。

 俺は、扉へと向き直った。

 もう、日は完全に落ちている。父さんは帰って来ているだろう。

 少しだけ深呼吸をして、それから勢いよく扉を開く。


「ただいま!」


 半ばやけくそ混じりで声を上げて扉を閉めた俺は、目の前にいた人を視界に収めて硬直した。

 それは、夢の中で幾度も俺への殺意を叫んでいる、たった一人だ。

 父さんが、目を丸くして立っていた。

 多分、リビングへ移動する途中だったんだろう。

 セイクウ様はここまで計算ずくで中へ入れと言ったんだろうか。まさか。

 どうしよう、どうしたらいいのだろう。俺は立ちつくしながら、負け犬のように父さんから顔を逸らす。

 だって、父さんが俺の顔を見たいとは思えない。

 俺の記憶の中のこの人は、いつだって俺を殺すと泣き叫んでいる。大切なものを奪われた悲しみの中で慟哭している。

 そんな人が、俺を見て楽しいとは思えない。

 早く立ち去ってくれればいい、と思ったけれど、何故か父さんが動く気配は無かった。

 俺の部屋への階段は父さんの背後だ。部屋へ逃げ込むには父さんの横を通り抜ける必要がある。俺には無理だ。

 いっそもう一度外出しようか。けど、もしかしたらセイクウ様が外で見張っていないとも限らない。

 ああもうそれでも良いから一度外へ出ようか、と沈黙に耐えられず選択しようとした時、俺へ向かって声が降った。


「……おかえり」


 驚いて、顔を上げる。

 目の前で、父さんが微笑んでいた。眉を少し下げて、困ったように笑っていた。もしかしたら、俺から話し掛けた所為かも知れない。

 でも。

 その顔に、憎しみなんて見つけられない。

 困惑する俺へと、改めたように父さんは言う。


「おかえり、モクカ」


 優しい声で。

 なんだか、それだけで、泣いてしまいそうで。


「…………ただいま」


 俺は、無理矢理、笑った。 





+++




 奪った物は戻らない


 俺は化け物で 償う術すら知らぬ愚かな獣で

 なのに

 勘違いして 手を伸ばして 求めて

 それでも良いなんて


 あたたかなひだまりに 涙が出た





END

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