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全捧与罰





 俺だったら良かったのに

 俺に傷つけられる者は

 俺だったら良かったのに


 血塗れのこの体には何の罰も無くて

 今も、あの時の手を想う




+++




「……今日はもう、終わりだよ」


 囁かれて、俺は顔を上げた。

 俺のことを優しい眼で見下ろした黒髪の男が、目の前に佇んでいる。

 その長い髪が風に揺れて光を弾いて、眩さにほんの少し目を細くした。

 この人は風の精霊の、王様。<風王>のセイクウ様だ。

 どうしてこんな森の中で、俺とこの人が二人で立っているかと言うと、まあ色々とあるからなのだけれど。

 俺は一つ頭を下げて、ありがとうございました、と声を出す。

 すると大きな手が俺の頭に触れて、柔らかく掌が俺を撫でた。


「来月、『門』が開くから。近くなったら、連絡が行くからね」


 穏やかな声へ、はい、と頷いた。

 『門』とは便宜的な呼び方で、それはつまりただの裂け目だ。

 俺はその『門』を心待ちにしていて、いつも、この人や、他の3人の<王>の手助けを受けてあちら側へ行く。

 あの子に会うために。


「じゃあ、家まで送ろうか」


 囁き声が落ちて、俺は首を振った。

 風の精霊の力を借りれば、そう遠くない俺の家までなんて数分も掛からない。

 急いで帰りたいわけじゃないから、そんなの必要ない。


「俺、走って帰ります。鍛錬でしょ」


 笑いながら言うと、身体を壊さない程度にね? と微笑みながら、それでも<風王>様は了承してくれた。

 それで、もう一度頭を下げてから身を翻す。


「じゃあ、セイクウ様! また今度!」


 多分来月までは会わないだろう相手にそう告げて、俺は走り出した。

 樹木や森を司る精霊達によって整地された道を、ただ駆ける。

 途中にある小枝は、俺が近寄る事に気付くとそっとその身体を避けてくれた。

 だから俺は傷一つ付かないまま、ただその道を駆けていく。

 やがて、息が弾む頃になると、目の前が拓けて小さな家が現れた。

 穏やかな光に包まれた、こじんまりとした家だ。

 俺は、そっとその家に近付く。


「……ただいま、帰りました」


 呼び掛けて扉を開くと、奥から小さな足音がぱたぱたと近付いて来た。


「お帰りなさい、モクカちゃん」


 微笑んだ声を掛けてきたのは、女の人だった。

 光に透ける淡い金髪と、空色の瞳。柔らかそうな指には菜箸が握られていて、多分料理中に慌てて出迎えに来たんだろうと思う。


「……ただいま、おかあさん」


 そっと言うと、嬉しそうに微笑んで見せるその顔は、あの子とそっくりだった。

 その顔からそっと目を逸らして、家の中を見回す。


「父さんは?」


 小さな家の何処にも、家の主はいないようだ。

 俺の問いに、お仕事よ、と目の前のその人は答えた。


「南の方の大きな森を拓きに行ったわ。帰りは、少し遅くなるみたい」


「ふぅん……」


 父さんは、俺と同じ、樹の精霊だ。森の開拓に駆り出されても不思議は無い。

 俺は小さく頷いてから、二階に上がるための階段へ向かった。


「もう少しで出来るから、呼んだら降りてきてね」


 柔らかな声が、俺へと掛かる。

 背中だけで、俺はうん、と答えた。




+++




 俺の部屋は、窓が開いてない所為か、とても暗かった。

 その中をそろそろと歩いて、ベッドの上に倒れ込む。


「……あー……疲れた」


 今日も<風王>様のしごきは厳しかった。

 上から拳を振り下ろしているくせに、どうして足払いが出来るんだろうか。とても不思議だ。

 のろのろと仰向けになると、暗闇を孕んだ天井が俺を見下ろしている。

 その暗い天井に、ぼんやりと浮かんだ顔があって、俺は目を閉じた。

 淡い金色の、長い髪と、俺と同じ青緑の瞳。


「レイカ……」


 俺の、母親の違う妹。

 俺が生まれてかなり経ってから生まれたその幼い妹は、今、この家にはいない。

 彼女は、『中界』と呼ばれる異界にいるのだ。

 俺の腹違いの妹は、俺よりも誰よりも、その成長速度が速い。

 そういう病で、それを治すことは今は出来ない、と<氷王>様が言っていた。

 けれど、いつかは治療方法が見つかるかもしれない。

 もちろん、見つからない可能性だってある。

 けれど、もし一縷でも望みがあるならそれまでは自分たちと同じ速さで生きて欲しい、と願ったのは父さんとおかあさんだった。

 俺達が住むレニア・シャームと、ルーズ・キャールという負で満ちた世界の狭間にある、『中界』と呼ばれるその世界は、流れる時間の速度が遅い。

 だから、あの子はあそこへと閉じ込められた。

 俺は、それを引き止められもしなかった。

 今だって、レイカをあそこから連れ出す事も出来ない。

 ただ、<王>様達に頼み込んで、不定期に開く向こうへの狭間から、様子を見に行くくらいだ。

 父さんとおかあさんは、あまり行ったことがない。会えば会うほど離れがたくなってしまうからだと、そうしてあそこで過ごすようになってしまったら意味がないと、そういっていた。

 通っている使い女達も、定期的に入れ替わる。

 常に周囲の人間が入れ替わる状態で、レイカは今どうしているんだろうか。

 そんな風に思ったって、レイカが今泣いていたって、俺にはどうする事も出来ないのだ。

 溜息を吐いて、寝返りを打つ。

 横向いた先には、自分で閉めた扉がある。

 暗い部屋で目を閉じれば、更なる暗闇が俺を包んでいく。

 沈黙が鳴って、それに浸かっていくと不意に声が蘇った。


『……殺してやる!!』


 それは男の低い声。

 初めて聞いたその声を発したのは、黒い短髪の、青緑の瞳の男。

 その言葉の後で男の手が伸びて、俺の首を締め上げた。

 最初の泣き声を上げる前に呼吸を絶たれて、俺はただはくはくと口を開け閉めしたまま、赤黒い雫に塗れた男を見上げた。

 苦しくて、苦しくて、でも俺の体はあまりにも幼かったから抵抗一つできない。

 それを止めてくれたのは、白くて細い手だった。


『止めて、あげて……! その子に、罪は……』


 声は、擦れた細いもので。

 慌てたように男が俺を降ろして、その声の方へと近寄った。

 俺は、床の上に転がされたままで、必死に呼吸をしつつ男の行方を追う。

 男が駆け寄ったのは、床に寝ている女の傍だった。

 その人は白い肌で、黒髪で、青緑の眼をした、男とよく似た顔の女の人で。

 その腹が抉れて、真っ赤に染まっていた。

 それを見て、俺は唐突に理解する。

 俺は、あれを突き破ってここにいるのだ。


『あの子、に、罪は、無い、の……』


 女の人が言う。

 男はでも、と言って、その顔を女の白い指が撫でた。

 本当にそうなのかと、問いたくても俺の口は呼吸にしか使われていないから声は出ない。

 だって、俺はまだ言葉を話すこともできなかった。


「……っ くそ」


 呟いて、不快な記憶を振り払うために眼を開けた。

 そこには、先程よりは明るい暗闇がある。

 どうしてレイカだったんだろうと、ぼんやり思う。

 レイカが、どうして、あそこにいるんだろう。

 どうして、俺じゃないんだろう。

 俺こそが、ここではない世界にでも隔離されるべき存在なのに。


「モクカちゃん、降りてきて?」


 声が、扉の外からかけられた。

 俺は、それに応じて唇を噛む。

 母親を殺した俺が、あそこに行くべきだったんだ。




+++




 夕飯を終えてから、ふと思い立って俺は家を抜け出した。

 遅くから外出すると止められるから、こっそりと部屋の窓から。

 走り出して、もう真っ暗な森の中を進む。木々は俺を避けたから、転ぶことは無く。

 日頃走り回って鍛えている肺が、ふいごの様な呼吸しか出来なくなるまで走ると、ようやく、目的地に着くことが出来た。

 そこは、森の奥深くにある小さな泉。

 木々が円形に作り上げ、今は月光を反射している。

 大きく息をしながら、俺はようやく走りを歩みに変えて、その泉に近付く。

 冷たそうな水を湛えた、深い泉が俺を反射して映した。

 それに、ゆっくりとかがみこみ、顔を近付ける。

 冷たくて、深くて、暗い泉。

 この奥にはいつも小さな次元の裂け目が出来て、俺は毎回ここからレイカの傍へと行っていた。

 今は、もちろんそんな道は無い。

 顔を、そっと水に浸す。

 冷たい。

 一度上体を起こしてから、俺は、冷たい水へと服のまま飛び込んだ。

 しぶきの上がる音がする。

 俺は泳がず、ただ体の力を抜いて浮いたまま、泉の底を見つめた。

 空からの月光も届かない位に深い、底へと目を凝らす。

 ここからしか、誰も、行くことは出来ない。

 一番レイカに近い場所。

 ここにいれば、少しは、満たされる気がした。

 だから、息の続く限り漂っていようと決めて、俺は目を閉じた。




+++




「…………おい!」


 不意に声が水を隔てた鼓膜まで届いて、突然、水が俺を弾き上げた。


「うわ!?」


 泉の岸まで弾かれて、驚きに声を上げながら尻餅を付く。

 まるで拒まれたようだった。いや、実際拒まれたのだろう。

 驚きながら、俺は周囲を見回す。

 そして背後に、そいつを見つけた。


「何やってるんだ!」


 怒鳴るように上がる声は低くなく、かといって高い物でもない。

 月の下で見たその顔は透けるように白くて綺麗で、髪の毛は水の色をしている。

 多分水の精霊だろう、耳は魚の胸ビレみたいになっていて、意志の強そうな蒼い瞳がこちらを見ていた。


「こんな所で溺れたら、誰も助けになんか来れないだろう!」


 言いながら、そいつの手が俺に向けて広げられた。その指の間に大きな水かきが見える。多分、泳ぐの速いだろうな。

 そいつが小さく何かを呟くと、水がぱらぱらと俺から剥がれた。服からも逃れて、急速に体が乾いていく。

 驚いている間に、つい先程泉に浮いていたとは思えないほどに、俺は乾いていた。


「あぁ……ありがとう」


 とりあえず言いながら、立ち上がる。


「でも、俺、自分で入ったから。溺れてないからね」


 誤解を解くためにそう言うと、そいつは怪訝そうな顔をした。


「……泳ぐなら、昼間にしろ」


「いや、泳いでた訳でも無いんだ」


「じゃあ何だ」


「え? ええっと……」


 何、と問われても困る。

 俺は眉を寄せた。

 あの暗がりの向こうを思ったなんて話したら、自殺願望者と言われても仕方ない。

 もしも親とか、あと<王>様達に報告でもされたらと思うとちょっと言い辛い。

 少し考えて、俺は口を開いた。


「やっぱ、泳いでた」


 そう言うことにしておこう。

 前言撤回した俺に、そいつは呆気にとられた顔をした。


「……そうか」


 けれど、何も聞かない事にしてくれたらしく、ただ小さくそう言葉を零す。

 優しい奴なんだろう。俺は笑って、もう一度泉へ目を向けた。

 暗くて深くて蒼い泉。

 ここから、俺は、レイカのところへ行く。

 繋がっていない今は、潜ったって行けない。

 自分を納得させるように胸のうちで繰り返してから、俺は視線を水の精霊の子供へ戻した。


「あ、なぁ、あんた、誰?」


 そういえば名前も聞いていなかった、と思って訊ねると、そいつの眉が片方上がる。


「……私を知らないのか?」


「うん」


 少しばかり不思議そうな言葉に、もしかして有名な奴なんだろうか、とじっと目の前の顔を見る。

 けれど、やっぱり見た覚えは無い。蒼い目も白い肌も整った顔も、一度見たら忘れるのは難しそうだ。


「そんな綺麗な顔、見たこと無い」


 だからあっさりとそう告げると、綺麗なその顔にとても嫌そうな色が登る。

 それを見ながら、俺はそいつへと近付いた。


「俺、モクカって言うんだ。あんたは?」


「……私は、スイキだ」


 答えながら、スイキは俺を睨んできた。

 蒼い目には別に感情なんて浮かんでなくて、きっとそれがいつもの表情なんだろうと俺は思う。

 じっとその顔を見てから手を差し出すと、スイキは戸惑ったようにそれを見下ろした。


「何だ?」


「家、何処? 送るよ」


「何?」


「一人歩きは危険だよ。綺麗だしさ」


 そんなに変態なんていないけど、万が一も在ることだし。

 俺が言うと、スイキはまた嫌そうな顔をした。

 それから、少し思案して、その白い手をこちらへと伸ばしてくる。

 水かきの大きな掌が、俺の袖を掴んだ。

 そして、一瞬で俺の視界が反転する。


「あだ!」


 草花があるとはいえ硬い大地へと背中をしたたか打ち付けて、情けない声が出た。

 俺の手を掴んだまま、立ち上がったスイキはこちらを見下ろしている。


「結構だ。自分の身くらい、自分で守れる」


 こんな風に、と呟いて見てくる目は凛々しいことこの上ない。

 俺は笑って跳ね起きた。


「すっげ、スイキって強いんだ!」


「……あ、ああ。まあ、な」


 俺の弾んだ声に戸惑ってか、怪訝そうな顔をしながら、それでも律儀にスイキは頷く。

 油断していたとは言え、簡単に転ばされるなんて驚きだ。

 一度、ちゃんと手合わせをしたい。

 考えたらすぐ言っておくに限るから、その手を放して、なあ、とお願いしてみる事にした。

 どうせ、来月まで<風王>様のお稽古は無いのだ。


「俺と、今度組み手してくれない?」


 俺の突然の言葉に、スイキは少しばかり驚いたような顔をした。

 急な発言だから当然だろう。


「……私が?」


「そう!」


 問いかけられて、しっかりと頷く。

 この場にはスイキと俺しかいないのだから、今の発言で他のやつが対象だったらそれはそれで問題だとも思うけど。


「……いいぞ」


 少し黙ってから、スイキは頷いた。

 その顔が笑っていたので、俺も嬉しくて笑う。


「明後日、で良いか?」


「明後日? うん!」


 頷いて、約束だねと手を掴もうとしたら避けられたので、その袖を掴んで上下に振る。

 袖を預けてくれたスイキは、じゃあ帰るから、とやんわり腕を振って、俺の手を離した。


「あ、送ってく」


「……もう一回投げ飛ばされたいか」


「いやいや、家見たいだけだから。行く行く」


 手を掴みにくるのを避けて、ただ笑った。

 俺の顔を見たスイキは、嘆息して肩を竦めながら、勝手にしろとただ一言置いて歩き出す。

 その後を追いかけて、俺も歩き出した。

 歩きながら、空を仰いでみる。

 葉の間から、月と星がちらちらと見え隠れしていた。

 何かの本で、あの光はずっと昔に死んだ輝きだと読んだ事がある。

 死んだのに、何処までも届いて来る光。

 もしかしたら、あの星の煌めきの幾つかは、レイカのところまで届くのだろうか。

 一緒に見ていたのだと言ったなら、少しは笑ってくれるかも知れない。


「……おい、あー……モクカ」


「え?」


 呼ばれて、驚いて視線を戻した。

 呆れたように振り向いていたスイキが、転ぶぞ、と言う。

 空を仰いだまま歩いていたからだろう。

 あははごめん、と笑って、俺は頭を掻いた。

 それから、そう言えば、と口を開く。


「ねぇスイキ」


「……なんだ?」


「スイキって、男? 女?」


 俺の問い掛けに、スイキの歩みが止まる。

 その奇妙な様子に、あ、分化してないのかな? と俺は口に手を当てた。

 水の一族の内の一部には、小さな頃性別が確定していない種族がいる。

 一定の時期になると性分化して、それでようやく一人前なのだと聞いたことがある。

 もしかしたらスイキはそれで、まだ決まっていないのかも知れない。


「……どちらでもない」


 少しして歩みの再会と共に返されたのは予想通りの台詞で、そっか、と俺はただ返した。


「あれだね、スイキは綺麗だからどっちでも特だね」


 これなら大きくなれば美人になるだろう。女でも男でもモテモテだ。間違いない。

 ぼんやりと呟いた俺を、スイキが肩越しに振り向いた。


「……どうかな」


 そんな風に呟く、スイキの顔は少し暗く見える。何故だろう。月が葉で隠れているからだろうか。

 俺は首を傾げながら、それでもスイキを付いていった。


「ここだ」


 やがて立ち止まったスイキが示した先には、湖と花畑をまたぐように建てられた大きな館だった。


「え? ここ?」


 驚いて、目を丸くする。

 ここは知っていた。

 むしろ、知らない精励のほうが稀に違いない。


「だって、ここ<氷王>様の家じゃない?」


 問いかけながらスイキを見やると、そうだ、とスイキはあっさり頷いた。


「で、ここがスイキの家?」


「そうだ」


「……えっと」


 つまり。


「スイキって、ここの使い女とかの、子供とか?」


 大真面目に聞いた俺に、スイキは吹き出して、それから違うと言った。




+++




 スイキは、<氷王>様の子供だったらしい。

 驚きながらも、俺は改めて明後日の約束を取り付けた。

 それからスイキと別れて家に帰り、扉を開いたところでぴたりと動きを止める。

 小さな家だから、入ったところからすぐにリビングが見えるのだ。

 いつもの席に座っている、俺より大きな背中。

 父さんが帰っていた。


「……お帰り」


 声を掛けると、父さんが食卓から振り返って黒い髪を揺らし、俺と同じ色の瞳に俺を映す。


「何処行ってたんだ?」


 あんたのいない所。

 そう言いたいのを堪えて、散歩だよと答えた。

 それから、こちらを向いたままの視線から逃れる為に、自室へ上がる階段に足を掛ける。


「モクカ」


「もう眠いんだ。寝かせてよ」


 登ろうとしたところで名前を呼ばれたのに、振り向きもせずにそう返して、俺は自室へ駆け上がった。

 モクカ、ともう一度声が掛かったけれど、それは無視する。

 部屋に入り、扉に鍵を掛けて、真っ暗なそこでずるずると座り込んだ。

 真っ黒に染まった、部屋だ。

 闇に目を凝らす事にも疲れて、のろのろと手探りで動き、ランプに火を入れる。

 部屋の中に灯りが宿って、闇を端へと追いやる。

 その中で立ち上がり、部屋に備え付けられた姿見の前に立った。

 父さんとは色の違う、土色の房と緑色の房が入り交じった無造作に伸びた髪と、父さんと同じ色の青緑色の瞳。それから、浅黒い肌。

 指を伸ばして、姿見に触れた。

 硬くて冷たい、硝子の感触がする。

 数秒を置いて、溜息を吐いた。


「何で帰ってきてるんだよ……」


 もう少し遅くなると思ったのに。

 顔を見たくなかったと呟いて、俺は鏡から離れ、ベッドに転がる。

 軋んだ音がして、ベッドは柔らかく俺を受け止めた。

 白いシーツは、少し埃の匂いがする。

 レイカも、今頃は眠っているだろうか。

 ああ、でも、あそこは時間の流れが遅いから、もしかしたらまだ昼かも。

 そんなことを思うと、掴んだシーツが少し暖かい気がした。

 早く逢いたいなと、思う。

 会いに行ってあげるんじゃない。

 俺が会いたいのだ。

 レイカ。

 たった一人の、俺の妹。


『にー、た』


『にーちゃ』


『にいさま』


 幼い声と幼い指。同じ瞳。

 この小さな生き物を守ることが出来たら、それだけでいい。

 そう思っていたのに、俺はレイカを守ることすら出来なかった。

 俺は、無力だ。

 大切な物を守る力すらない。


「無駄な物は、あるくせに」


 呟きは宙に浮いて、空気に溶けた。

 それを見送って、目を閉じる。

 自分で作った暗闇にわずかな恐怖を感じて、息を吸い込み、上がってきた心拍数を落ち着けるように努力した。

 こんな恐い思いを、きっとレイカは一人で耐え続けているのだ。

 代われるものなら代わりたかったと、唇を噛みしめる。

 だって、俺は奪ったのだ。

 赤い飛沫を散らした、優しい声音のあの人を殺して。

 そして、この手で父さんから、何を捨ててもいいくらい大事だった存在を奪ったのだから。

 まともに父さんの顔も見れないくらいに申し訳なくても、この体には何の罰の跡も無い。

 与えられる筈だった罰も、奪われたから。

 でも。

 罰は、受けるべきだ。




++++




 血塗れのこの体には何の罰も無くて

 今も、あの時の手を想う


 あの時

 あの人が

 止めなかったら



 何を捧げてもいいから

 罰を与えてはくれないだろうか




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