表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『無能な飾り妻はいらない』と婚約破棄された私——王国の経済・防衛・聖女制度を一人で握っていたのですが、どうぞお好きに。隣国の若き皇帝が、私を娶りたいそうです

作者: 戸坂咲
掲載日:2026/04/30

「お前のような無能な飾り妻はいらない」


王太子レオンハルト・オルディスの言葉は、王宮の第七応接室に淡々と落ちた。


「華のない女だ。十年も婚約者でいて、一度も私を笑わせたことがない」


「お前と過ごす時間は、まるで葬儀に出席している気分だ」


「政略結婚など互いの利益のためのものだろう?だが、お前の隣にいるのは苦痛そのものだった」


「私はもっと愛らしい令嬢を選ぶ。エマリアこそ、私に相応しい」


「分かるな?ヴィオレッタ」


その声は薄く笑っていた。空色の瞳に宿るのは軽蔑と倦怠。十年間、彼の唇から零れる言葉は、いつもこの種類の冷たさだった。


公爵令嬢ヴィオレッタ・アッシェンドルフは静かに頷いた。


「分かりました、レオンハルト殿下」


応接室の燭台の灯りが揺れ、彼女の紫色の瞳に薄く反射した。


レオンハルトの隣には、子爵令嬢エマリア・ファルテル。華やかな夜会服に身を包み、王太子の腕に絡みついている。その背後には、王太子の側近ハインスが書類を抱えて立っていた。


——婚約破棄の書類。


ヴィオレッタはそのすべてを淡々と見つめた。


(……ようやく終わるのね)


胸の奥で軽く息を吐く。


(——十年。長かった)


(——ですが、もう、何も惜しくはありません)



ヴィオレッタが王太子妃の婚約者として王宮に通うようになったのは、十二歳の時だった。


オルディス王国の最高位の公爵家——アッシェンドルフ家の長女。父は王国経済界の重鎮、母は聖女の血を引く神官の家系。その血統に相応しい教育を、彼女は幼少から受けてきた。


経済学、政治学、魔導工学、神学、外交学、軍事戦略、暗号学。


家庭教師はそれぞれの分野の最高権威。公爵家の巨額の出費と、彼女自身の貪欲な吸収力で、王国の最高水準の知識が彼女の中に蓄えられていった。


ヴィオレッタの中には、もう一つ、誰にも明かさない情熱があった。


——亡き祖母、ヘレナ・アッシェンドルフ。


王国で最も賢明な公爵夫人と呼ばれた女性。ヴィオレッタが十歳の時に病で世を去った。


祖母は最期の床で、孫娘の手を握って囁いた。


「ヴィオレッタ、よくお聞きなさい」


「お前は私の血を最も濃く受け継いでいる。聡明で、忍耐強く、そして優しい」


「だからこそ——いつか必ず、お前を利用しようとする者が現れる」


「その時はね、ヴィオレッタ」


「——自由を、選びなさい」


「忍耐は、自由を選ぶための準備に過ぎないわ」


祖母の青ざめた手が、十歳のヴィオレッタの頬を一度だけ撫でた。それが最後の触れ合いだった。


ヴィオレッタはその言葉を、二年後、王宮で初めて思い出した。



十二歳の春、ヴィオレッタは初めて王宮の応接室に通された。


王太子レオンハルトとの初対面。彼は当時十六歳。すでに王太子としての地位を確立し、自尊心の塊のような少年だった。


ヴィオレッタが入室すると、レオンハルトは彼女を上から下まで眺めて、軽く笑った。


「これが、私の婚約者か」


そう、隣に立つ家臣に呟いた。


「華のない女だな」


「だが、まあ、政略結婚だ。家柄さえあれば顔は問わない」


「飾り妻として置いておくなら、十分だろう」


——飾り妻。


その言葉が、十二歳のヴィオレッタの胸に、薄い氷のように突き刺さった。


彼女は深く頭を下げた。


「初めまして、レオンハルト殿下。ヴィオレッタ・アッシェンドルフでございます」


声は震えなかった。家庭教師から「公爵令嬢たるもの感情を表に出してはなりません」と教えられていた。


レオンハルトは満足げに頷いた。


「素直で結構。お前のような女はそれでいい」


(——ああ)


ヴィオレッタはその瞬間、祖母の言葉を思い出した。


(——お祖母様、これですね)


(——「利用しようとする者」とは、こういう人のことですね)


(——いつか自由を選ぶための忍耐の始まりが、今日でしたのね)


彼女は十二歳の春に初めて理解した。


——自分の人生は、長い忍耐の中にある、と。


そしてその忍耐は、必ず終わる、と。



王宮に通い始めて間もなく、ヴィオレッタは王宮の異変に気づき始めた。


王国の中枢機構が、ほとんど機能していない。


経済決裁権——王国の財政決定。本来は国王陛下が最終決定するはずだった。だが国王は年齢を重ね、重要な決裁を王太子に委ねていた。


その王太子レオンハルトが、決裁権を行使する能力にまったく長けていなかった。


決裁書類は何ヶ月も王太子の机の上で滞留していた。国家の財政は停滞し、地方の公共事業は止まり、商人たちは関税の不整合に苦しんでいた。


ヴィオレッタは見かねて、王太子妃の職務として書類整理の補助を申し出た。


王太子は鼻で笑った。


「お前のような女には難しすぎる。書類整理くらい家臣にやらせれば十分だ」


——だが王太子妃の職権の中には、補助権限があった。


ヴィオレッタは静かにその権限を行使し始めた。


最初は小さな決裁。税の徴収方法の最適化、公共事業の優先順位の調整、貿易関税の軽微な修正。彼女は「整理した結果」と称して書類を王太子の机に戻した。


王太子は何も読まずに印を押した。


「お前が整理した書類か。お前の整理した結果なら何でもいい」


そう、笑って。


王太子はそれが自分の決裁の最終形だと信じていた。実は内容を最終的に決定していたのが十二歳のヴィオレッタだとは、彼は知らなかった。


書類は王太子の印を押されて、国家の決裁として執行されていく。


——王国の経済の実質的な決裁者は、十二歳のヴィオレッタだった。


それから十年。彼女は徐々に決裁の規模と複雑さを上げていった。


二つ目の機構——魔導防衛網。


オルディス王国は北方の魔王軍前哨と対峙していた。魔導防衛網は王国の最重要防衛システム。その制御鍵は本来、複数の要職者が分散管理しているはずだった。


——だが王太子レオンハルトは面倒くさがりだった。


「お前が管理しろ。私にはもっと重要なことがある」


王太子の言う「重要な事」とは、子爵令嬢エマリアとの密会だった。


ヴィオレッタは深く頷いた。


「はい、私が管理させていただきます」


——彼女は魔導防衛網の制御鍵をすべて握り、十年の歳月をかけて運用を最適化した。


魔素の流れ、結界の強度、非常時の緊急発動の手順。


ヴィオレッタはそれらを一人で把握していた。北方の魔王軍前哨が王国に侵入できなかった十年間——それは彼女の沈黙の働きの結果だった。


王太子はもちろん知らなかった。「お前が管理しているなら安心だ」と笑っていた。


三つ目の機構——聖女制度の認証印。


王国の聖女制度は教団との政治的な繋がりを保つための重要な制度。聖女の認定は本来、王太子妃の職務だった。


ヴィオレッタは聖女の血統を引き、神学にも精通していた。彼女は聖女制度の認証印を握った。


王国に認定されるすべての聖女は、ヴィオレッタの印を経て地位を得ていた。教団との外交カードも、彼女が握っていた。


王太子はそれを「面倒な事務作業」と認識していた。「お前がやってくれて助かる」と、印を彼女に預けたままだった。


——王太子の知らない間に、ヴィオレッタは王国の経済決裁権、魔導防衛網の制御鍵、聖女制度の認証印——三つの最重要機構を一人で運用していた。


それを知っているのは、ただ彼女一人だけだった。


(——だからね、ヴィオレッタ)


(——あなたは無能な飾り妻ではないの)


(——あなたは王国の影の女王よ)


彼女は自分自身に、十年間そう囁き続けてきた。


その囁きが、彼女の唯一の慰めだった。



十年。


ただ職務をこなしてきた。王太子の無能を補い、王国の機能を保ち。その間も王太子は子爵令嬢エマリアと密会を重ね続けた。エマリアは派手な性格で、王太子に取り入るのが上手かった。


ヴィオレッタはそれを知っていた。だが何も言わなかった。


——彼女にはもっと重要な職務があった。


それに、彼女は知っていたのだ。いつか必ず、王太子はエマリアを選ぶことを。


そしてその瞬間、彼女は自由になれることを。


(——お祖母様、もう少しですね)


(——もう少しで、私は忍耐を終えられます)


ある夜、ハインス——王太子の側近——がヴィオレッタの私室をひっそりと訪ねてきた。


「ヴィオレッタ様」


ハインスは深く頭を下げた。


「殿下が……近日中に、婚約破棄を、お考えのようです」


「……そうですか」


ヴィオレッタは穏やかに頷いた。


「お知らせ、ありがとうございます、ハインス様」


「ヴィオレッタ様」


ハインスは唇を噛んだ。


「私は、これまで——薄々、貴方様の働きに気づいておりました」


「経済決裁書類が、ある時期から急に整然と仕上がっていく。魔導防衛網の運用記録が、見たこともない繊細さで残されている。聖女制度の認証印が、教団との外交を絶妙な距離で保っている。すべて、貴方様のお仕事と存じておりました」


「……」


「ですが、王太子殿下の側近として、私は何も申し上げられませんでした」


「私は、弱い人間です」


ヴィオレッタは軽く笑った。


「ハインス様。それは責められることではありません」


「殿下に逆らえば、貴方の地位も命も危ない。私が貴方の立場でも、同じことをしたでしょう」


「ヴィオレッタ様……」


「ですが、ハインス様」


彼女はそっと続けた。


「もし私がこの王宮を去った後、殿下が何か困ったことを口にされた時は——」


「正直に答えてあげてください。『すべて、ヴィオレッタ様が運用していました』と」


「私を庇う必要はありません。それが——殿下に課された、最後の試練です」


ハインスは深く頭を下げた。


「……承知いたしました」


その瞳には、十年間積み重ねた罪悪感と、初めて出会えた光が、薄く揺らいでいた。



そして、その日が来た。


晩秋の夜、王宮の第七応接室。


王太子レオンハルト・オルディス。子爵令嬢エマリア・ファルテル。側近ハインス。そしてヴィオレッタ・アッシェンドルフ。四人の人影が、冷えた空気の中で向かい合っていた。


「正式に伝える」


王太子が淡々と口を開いた。


「アッシェンドルフ公爵令嬢ヴィオレッタとの婚約を破棄する。理由は——」


王太子の空色の瞳がヴィオレッタを見下ろした。


「お前のような無能な飾り妻はいらない、からだ」


——飾り妻。


十二歳の春に初めて投げつけられた言葉が、十年後、再び彼女の耳に届いた。


ヴィオレッタはただ頷いた。


「分かりました、殿下」


「分かったな?では書類に署名を」


ハインスが書類をヴィオレッタの前に差し出した。彼女はそれを丁寧に読んだ。


——婚約破棄の正式な宣告書。それと「公爵家への賠償金免除」「王太子妃の職務の即時剥奪」「王宮からの追放」。


(……周到ね)


ヴィオレッタは軽く笑った。


(——殿下、貴方一人でこの書類を考えたわけではありませんね)


(——どなたかに相談なさったのね。エマリア様か、それとも、彼女の生家の侯爵か)


(——でも、結構です)


(——私はこれをずっと待っていたのですから)


「殿下」


ヴィオレッタは静かに口を開いた。


「一つだけお願い、よろしいですか?」


「何だ?」


「書類に署名する前に——お返しすべきものがございます」


「お返しするもの?」


王太子が軽く首を傾げた。


ヴィオレッタはハインスに合図を送った。ハインスが用意していた革の鞄を応接室に運び入れた。応接室の絨毯の上に、革の鞄が静かに置かれた。


「これは何だ?」


王太子が訝しげに聞いた。


ヴィオレッタは鞄を開けた。その中には三つの束が入っていた。


——王国の心臓部三つ、すべて。


「殿下、ご覧ください」


彼女は最初の束を机の上に置いた。


巨大な書類の山。革紐で何重にも結ばれた、十年分の重み。


「これは王国の経済決裁書類です」


「……経済決裁?」


「ええ。過去十年間、私が運用してきた王国の経済決裁の、すべての記録です」


王太子の表情が軽く固まった。


「殿下が署名された全ての決裁書類——その実、内容を最終的に決定していたのは、私です」


「な、何を言って——」


「税の徴収方法、公共事業の優先順位、貿易関税の調整、領地の経済発展計画、商業ギルドの統制、貨幣鋳造の管理——」


ヴィオレッタは淡々と列挙した。


「これらすべてが私の運用です」


王太子はハインスを見た。ハインスはゆっくりと、しかし、はっきりと頷いた。


「殿下。ヴィオレッタ様の仰る通りでございます」


「な、何だと?ハインス、お前は知っていたのか?」


「殿下が机から書類を放置されている間、ヴィオレッタ様が水面下で運用しておられました。私はそれを承知の上で、お声をかけませんでした」


「な——」


王太子の額に汗が滲んだ。


「殿下」


ヴィオレッタが静かに続けた。


「これは書類整理の補助権限の範囲をはるかに超えています。実質的な経済決裁権の行使です」


「ですが——」


彼女は淡く微笑んだ。


「すべての書類には、殿下の印が押されています。ですから、決定者は殿下で間違いありません」


「……」


「ただし、その内容を殿下が確認していなかった、というのは——もはや殿下個人の責任です」


王太子の唇が震えた。


「これらの書類をすべてお返しいたします。これからは殿下がご自身で決裁なさってください」


書類の山が王太子の前に押し出された。十年分の王国の経済決裁の記録。王太子はそれを見て息を呑んだ。


(——これを、自分で、やる、と?)


(——どうやって?)


王太子は書類をほとんど読んだことがなかった。決裁の内容を理解する能力もなかった。


(——どうすればいい)


ヴィオレッタは、二つ目の束を机に置いた。


「次にこれです」


——金属の複数の鍵。鈍い銀色の光を放つ、古い細工の鍵束。


「これは魔導防衛網の制御鍵です」


「……魔導防衛網?」


「ええ。北方の魔王軍前哨に対する、王国の最重要防衛システム」


ヴィオレッタは続けた。


「殿下が私に預けてくださった、複数の制御鍵。すべてお返しいたします」


「な——」


「殿下、これらの鍵の運用方法をご存じですか?」


王太子は答えなかった。


「魔素の循環の調整方法。結界の強度の設定。非常時の緊急発動の手順——これらすべてを、私が十年間、一人で運用していました」


「お前が、勝手に——」


「いいえ、殿下が預けたのです」


ヴィオレッタは優しく訂正した。


「『お前が管理しろ。私にはもっと重要なことがある』と仰ったのは殿下ですから」


王太子は唇を噛んだ。ハインスの顔が深く沈んでいた。


「殿下、これらの鍵の運用は明日から殿下がご自身でなさるのですよね?」


ヴィオレッタは軽く首を傾げた。


「私はもう王太子妃ではありません。職務外です」


「だ、だがお前、引き継ぎは——」


「引き継ぎですか」


ヴィオレッタは軽く笑った。


「殿下が過去十年間、書類をほとんど読まれなかった事実を踏まえると——引き継ぎ書類を用意しても、殿下がご理解できるとは思えません」


「な——」


「魔素の循環の調整方法だけでも、二百ページの専門書を必要とします」


彼女は淡々と続けた。


「私は十年かけてそれを修得しました。殿下が同じレベルに達するまで、おそらく五年はかかるでしょう」


「五年……」


「その間、魔導防衛網は機能しません」


「……」


「北方の魔王軍前哨が、王国に進撃する可能性があります」


王太子の額に冷たい汗が流れた。エマリアは口を開けたまま、何も言わなかった。彼女の華やかな夜会服は、燭台の灯りの下で、徐々に色褪せて見え始めていた。


「最後にこれです」


ヴィオレッタは三つ目の束を机に置いた。


——金色の印。そして、その印に結ばれた、小さな羊皮紙の巻物。


「これは聖女制度の認証印です」


「……」


「過去十年間、王国に認定されたすべての聖女——彼女たちの地位を保証してきたのが、この印です」


ヴィオレッタは続けた。


「教団との外交カードでもあります。これからは殿下がご自身で運用なさってください」


「だ、だが、私は神学なんて——」


「分かっています、殿下」


ヴィオレッタは優しく頷いた。


「ですが——王太子妃の職務ですから」


「エ、エマリア、お前——」


王太子はエマリアを振り向いた。


エマリアはゆっくりと、王太子の腕から手を離した。


「私、子爵家の出ですから」


その声は震えていた。


「経済決裁とか、魔導防衛網とか、聖女制度とか——そんな難しいこと、私にはとても——」


エマリアは数歩後ずさった。


「私、これはお役に立てません——」


そして、応接室を走り去った。


王太子は絨毯の上に立ち尽くした。机の上には、王国の心臓部三つ。その重みが、突然、彼の肩に乗った。


「ハインス——」


王太子の声が震えた。


「これ、本当に私が運用するのか?」


「殿下」


ハインスは深く頭を下げた。


「殿下が預けたものですから、殿下が運用なさるしかございません」


「私には、できません」


ハインスは静かに付け加えた。


「私はヴィオレッタ様の補助はできました。ですが、ヴィオレッタ様の代わりはできません。十年の積み重ねがあります」


——応接室の沈黙。


王太子は書類の山を見つめたまま、震えていた。


ヴィオレッタは静かに立ち上がった。


「殿下」


彼女は最後に口を開いた。


「私が十二歳の春、初めてこの王宮に伺った日のことを覚えていらっしゃいますか」


「な、何のことだ——」


「あなたは家臣に向かって、私のことを『華のない女だな。飾り妻として置いておくなら十分だろう』と仰いました」


王太子の表情が凍りついた。


「私はあの日からずっと待っていました」


ヴィオレッタの紫色の瞳が、初めて感情を宿した。


「あなたが私を本当に必要としなくなる日を」


「あなたが私を捨てる日を」


「——その日、私は自由になれるのです」


「だから、十年、忍耐できたのです」


(——お祖母様、ご覧になっていますか)


(——忍耐は、自由を選ぶための準備に過ぎない、という、あなたの言葉)


(——私、果たしましたよ)


彼女はペンを取り、流れるような筆跡で婚約破棄の書類に署名した。


「これで私はもう王太子妃の婚約者ではありません」


「ヴィ、ヴィオレッタ、待て——」


「殿下、お引き止めはご無用です」


ヴィオレッタは軽く礼をした。


「お返しするべき物はすべてお返ししました。これからは殿下とエマリア様で——王国をお守りください」


「私はもう関係ありません」


——彼女は応接室の扉を、自らの手で開けた。


「どうぞ、お好きに」


最後にその言葉だけ残して、ヴィオレッタは王宮を後にした。


その背中は、十年ぶりに、軽く、まっすぐだった。



翌朝。アッシェンドルフ公爵領、屋敷の応接室。


ヴィオレッタは一人で紅茶を口に運んでいた。


窓の外には霜の降りた庭が、朝の薄い光に照らされている。


(……これで私の王太子妃としての人生は終わったわ)


(——十年。長かった)


(——でも、これから、私は自由よ)


ヴィオレッタは軽く笑った。


久しぶりに、感情を表に出した笑い。


——その時、屋敷の執事が応接室に入ってきた。


「お嬢様、お客様です」


「お客様?こんな朝早くに?」


「はい——ヴァルディム帝国皇帝陛下、アレクシス・ヴァルディム様でございます」


——ヴィオレッタのティーカップが止まった。


「……ヴァルディム帝国の皇帝陛下が、なぜこちらに?」


「予告なしのご訪問でございます。すでに玄関にお通ししました」


(……予告なしの訪問)


(——予告なしで皇帝が私の領地に来るということは——)


ヴィオレッタは軽く息を整えた。


(——彼はすべてを知っていた、ということね)


「お通しして」


「はい」


——応接室の扉が開いた。


入ってきたのは、二十五歳ほどの若い男性。銀色の髪を後ろに撫でつけた整った顔立ち。紫色の深い瞳。帝国の軽装の軍服を纏っていた。


——アレクシス・ヴァルディム。ヴァルディム帝国の若き皇帝。


「ヴィオレッタ・アッシェンドルフ公爵令嬢でよろしいでしょうか」


低く落ち着いた声。


「はい。私がヴィオレッタ・アッシェンドルフです」


ヴィオレッタは軽く頭を下げた。


「皇帝陛下、ご挨拶申し上げます」


「アレクシス、とお呼びください」


皇帝は優しく笑った。


「私は貴女にご相談したいことがあって参りました」


「ご相談、ですか」


「ええ」


アレクシスはヴィオレッタの向かいのソファに腰を下ろした。その視線はまっすぐ彼女を見つめていた。


「貴女が現オルディス王国の真の支配者だと、知っていました」


——ヴィオレッタの心が軽く震えた。


(——やはり彼は知っていたのね)


「過去十年間、貴女が運用してきた王国の経済決裁・魔導防衛網・聖女制度。それらの記録は、我がヴァルディム帝国の諜報機関が把握しています」


アレクシスは続けた。


「貴女が王太子妃として王宮に通い始めて一年で、王国の経済の流れが変わったのを、私たちは確認しました」


「以来、私は貴女を観察してきました」


「貴女の知略・統治力・忍耐——それらすべてを」


ヴィオレッタの頬が軽く赤らんだ。


十年。誰にも見られていないと信じていた十年。


——彼は、見ていた。


(——私の本当の姿を)


(——王太子が、見ようとしなかった、私の本当の姿を)


「貴女がいなくなれば、オルディス王国は半年で機能を失います」


「……ええ、そうですね」


ヴィオレッタは軽く頷いた。


「殿下がこれからご自身で運用なさいます。それで十分だと思います」


「ふふ」


アレクシスは軽く笑った。


「貴女は本当に淡々とその判断をなさるのですね」


「もう、私には関係ありませんから」


「ご立派です」


アレクシスは頷いた。そしてまっすぐヴィオレッタを見つめた。


「ヴィオレッタ嬢」


「はい?」


「私の妻になっていただけませんか」


——応接室が静まり返った。


ヴィオレッタはティーカップをゆっくりと置いた。


「皇帝陛下、それは突然——」


「アレクシス、とお呼びと申しました」


皇帝は優しく訂正した。


「私は突然ではありません。貴女のことを、十年前から見守ってきました」


「十年前から、いつか貴女がこの王国を離れるであろうことを、私は確信していました」


「そしてその日、私は迎えに来る、と決めていました」


ヴィオレッタはしばらく無言だった。


胸の中で何かが温かく揺れていた。


(——彼は、私の本当の姿を見てくれる)


(——王太子が、絶対に見ようとしなかった、私の本当の姿を)


(——お祖母様、これが自由ですね)


(——忍耐の、その先に、こんな日が、待っていたのですね)


「アレクシス陛下」


ヴィオレッタは軽く頭を下げた。


「謹んでお受けいたします」


——応接室の時計が、四時十五分を刻んでいた。


(——アレクシス陛下が訪問されてから三十五分)


(——もう、私の人生は変わった)


ヴィオレッタは静かに笑った。


その笑みは、十二歳の春以来、初めて心の底から零れた、彼女自身の笑み、だった。



ヴィオレッタはその夜、ヴァルディム帝国へと旅立った。


オルディス王国は彼女の不在をすぐに感じ始めた。


王太子レオンハルトは経済決裁書類を前にして、何ヶ月も決定を下せなかった。


書類が滞留し、税の徴収が止まり、地方の公共事業が破綻した。商人たちは王国を見限り、次々と隣国へ流出した。国家の財政は急速に停滞した。


魔導防衛網は、ヴィオレッタの運用方法を誰も理解できなかった。三ヶ月後、北方の結界の一部が崩壊した。魔王軍前哨の小規模な部隊が、王国の北端の村を襲った。


聖女制度も、認証印の運用方法が分からなかった。教団は王国との外交を断絶した。新人聖女リリアの「聖光」だけでは、何の権威も維持できなかった。


——半年後、オルディス王国は隣国・ヴァルディム帝国に同盟の締結を申し入れた。


(——まあ、自業自得ですわね)


ヴァルディム帝国の皇后となったヴィオレッタは、夫の隣で軽く笑った。


「アレクシス、オルディス王国からの同盟、どうなさいますか」


「貴女のご意見を伺いたい」


アレクシスは優しく答えた。


「これからのヴァルディム帝国の外交は、貴女と私で、共に決めていきましょう」


ヴィオレッタの紫色の瞳が軽く揺れた。


(——共に、決めていく)


(——王太子が、絶対に、私に言わなかった、言葉)


「では、同盟はお受けいたしましょう」


ヴィオレッタは軽く頷いた。


「ただし条件として——オルディス王国の経済決裁権を、ヴァルディム帝国が補助すること。魔導防衛網の運用も、我が帝国の専門家を派遣すること。聖女制度の認証印は、私が引き継ぐこと」


「すべてお受けしましょう」


アレクシスは笑った。


——オルディス王国は実質的にヴァルディム帝国の属国となった。


王太子レオンハルトは形式上の王太子として残った。だが、すべての決裁はヴァルディム帝国を経由して行われた。


エマリア・ファルテルは王太子から離れた。子爵家の令嬢として地味な結婚をしたと記録されている。彼女は最後まで、自分が王太子妃になれなかったことを嘆いていたという。「私は王太子妃に相応しい女だった」と、年老いた彼女は呟き続けた。だがその言葉を聞く者は、夫一人を除いて、もう誰もいなかった。


王太子レオンハルトは最終的に、王位を継承する能力がないと判断され、廃嫡された。彼は辺境の修道院に送られた。修道院の薄暗い独房で、彼は一冊の書類を毎日読み続けた。それは——ヴィオレッタが十年間運用してきた、王国の経済決裁の最初の一枚だった。


彼はその書類を最後まで理解できなかった、と伝えられている。


王国は、彼の弟、第二王子に引き継がれた。第二王子はヴィオレッタの指導のもと、王国の復興に尽力した。


ハインス——元・王太子の側近——は、第二王子の補佐官として、新しい王国の再建に尽力した。彼はヴィオレッタの教えに従い、王国の機構をゆっくりと立て直していった。


「殿下、これは、ヴィオレッタ様が十年間お一人で運用していた書類です」


ハインスは第二王子に、書類の一枚一枚を丁寧に説明した。


「ヴィオレッタ様の沈黙の働きを、私たちがこれから引き継いでまいります」


二十年後、オルディス王国はヴァルディム帝国の影響下で復興を果たした。そしてヴァルディム帝国は、ヴィオレッタの知略のもとで、大陸の最も繁栄した国家となった。


——大陸の、黄金期の幕開けだった。



歴史書にはこう記されている。


『——ヴァルディム帝国黄金期の礎を築いた皇后、ヴィオレッタ・アッシェンドルフ・ヴァルディム』


『「礎の母」として、その名は千年の後まで伝わった』


『彼女が若き二十二歳の夜に自由を選んだ、その判断が大陸の歴史を変えた』


——ヴィオレッタの肖像画は、ヴァルディム帝国の王立図書館の最も奥に、今も飾られている。


その紫色の深い瞳には、十年の忍耐とその後の自由が、静かに宿っている。


肖像画の隣には、皇帝アレクシスの肖像画。二人の瞳の視線は永遠に交わったまま。


肖像画の額の下には、小さな金色の銘板が嵌められている。


——『忍耐は、自由を選ぶための準備に過ぎない』


それは、ヴィオレッタが王立図書館の落成式の日に、自らの手で刻んだ言葉だった。


(——お祖母様)


晩年のヴィオレッタは、銘板を見上げた。


(——あなたの遺言、私は果たしましたか)


(——忍耐の、その先に、私の自由がありました)


(——そして、その自由は——)


彼女の隣で、夫アレクシスが、静かに彼女の手を取った。


(——共に決めていく誰かが、いる、自由)


「礎の母」と「黄金期の皇帝」の夫婦愛は、千年語り継がれた。


——終


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ