9 悪魔の囁き
「そろそろ、お昼だな……ご飯の用意をしなきゃ……」
掃除を終えて、キッチンに戻ると、ハロルド様はまだぐっすりと眠っていた。
「お昼はパンと……野菜とベーコンの炒め煮にしようかな」
私は寝かせてあったパン生地で、ロールパンを作るとオーブンに入れた。
「よし、次は……」
私が野菜をリズミカルに刻んでいた時だった。
ソファーでハロルド様が動いたと思ったら、のっそりと身体を起こした。
そしてハロルド様は私を見て微笑んだ。
「……とてもいい匂いがします」
私は野菜を切るのを中断して、ハロルド様のそばに近寄ってしゃがみこんだ。
「おはようございます。ハロルド様。もう大丈夫ですか?」
ハロルド様は、眉を下げながら「はい。お腹が空きました……」と言った。
それはそうだ。
3日も何も食べなかったのだ。
「3日間、何も食べなかったのですか?」
ハロルド様は少し考えた後に答えた。
「缶が落ちていたので、ナッツを食べていたと思います」
「ナッツ……では何も食べていないわけではなかったのですね……」
どうやら、3日間何も食べなかったわけではないようだった。
「ええ」
「お仕事、大変ですね」
ハロルド様は困ったように笑うと「そうですね……」と答えた後に、再び「ぐぅ~~」とお腹の音が鳴り響いた。
私はハロルド様を見た。
「パンと、野菜の炒め煮ですが食べられそうですか?」
「はい!! 先ほどからパンの美味しそうな匂いがして楽しみにしていたのです」
私は立ち上がるとハロルド様を見ながら言った。
「もうしばらくかかりますが、ここで待たれますか?」
ハロルド様は笑って「ここで待ちます」と言って立ち上がった。
立ち上がった拍子に毛布が床に落ちた。ハロルド様はそれを拾い上げると私を見た。
「この毛布……アリシアさんがかけてくださったのですか?」
「はい。眠ると少し寒いかと思いまして。では、料理に戻ります」
私がハロルド様に背を向けると、手を取られた。
「ハロルド様?」
「あ、あの……ありがとうございます」
私はにっこり笑って「どういたしまして」と答えると、料理に戻った。
ハロルド様はにこにこと笑いながら、テーブルの前の椅子に座った。
私は野菜を刻むと、大きなフライパンにベーコンや野菜を入れて炒め、少しだけ水を入れて蒸し焼きにした。
ふと顔を上げると、ハロルド様と目が合って微笑まれた。
(もしかして、ずっと見ていたのかな?)
私は少しだけ恥ずかしくなって料理に視線を移した。
結局私は料理をしている間中ずっと、ハロルド様の視線を感じていた。
◇
「出来た!」
料理が完成した頃、ちょうどパンも焼ける頃合いだった。
私は両手にミトンを付けて、石窯のオーブンのフタを開けた。
(うん、いい感じ)
最近は毎日、パンを焼いているので失敗もほとんどしなくなった。
総菜パンなどを作るとたまに焦がしたり、逆に中は生で失敗することもあるが、オーソドックスなロールパンは成功する。
私はパンを出して、カゴに入れて食卓の中央に置いて、トングを添えた。
そしてパンを乗せるためにお皿と、スプーンとフォークを並べる。
「わぁ~~美味しそうですね~~ああ、いい匂いだな~~」
ハロルド様が目を閉じて、匂いを嗅いでいた。
私はすぐに、先ほど作ったベーコンと野菜の炒め煮をそれぞれのお皿に盛りつけて、テーブルに置いた。
「これも美味しそうですね!!」
ハロルド様が目をキラキラさせながら私を見上げた。
「ふふふ、ありがとうございます。パンはいくつ取りましょうか?」
「そうですね、2つお願いします。おかわりをしてもいいですか?」
私はハロルド様のお皿にパンを乗せながら言った。
「もちろんです。たくさん焼いたので食べてください」
そして自分のお皿にはパンを1つ置いて、席に座った。
食事の前に二人で祈りを捧げた後に、ハロルド様がすぐに「ふふ、熱くてふわふわだ……」と言って嬉しそうにパンをちぎると口に入れた。
「わぁ、焼きたてのパン……美味しいな……こんな美味しいパンを作って下さってありがとうございます」
本当に幸せそうに食べてくれるので、見ているだけで幸せになれそうだ。
「ふふ、そう言っていただけると私も嬉しいです」
ハロルド様はパンだけではなく、おかずも気に入ってくれたようで、何度もおかわりをしてくれて、パンもおかずも全てなくなってしまった。
「はぁ~~美味しかった~~」
ハロルド様は嬉しそうに笑った後に、少しだけ頬を染めて天井を見ながら言った。
「あの……アリシアさん……この後、またお仕事はありますか?」
「そうですね……もう少し掃除をして洗濯物を取り込んで夕食の支度をしようかと……」
するとハロルド様が私を見ながら真剣な顔をした。
「あの……掃除はまた今度にして……絵の……モデルになってもらえませんか?」
「え!? 私がですか?」
「はい、ぜひお願いします!! 先ほど料理を作るあなたを見てどうしても描きたくて……」
料理を作る?
つまり、顔というより雰囲気を描きたいという感じだろうか?
(そういえば、人物の絵はアトリエの庭を見ながら座っている人ばかりだった……私というより、料理をする人が描きたいのね!)
人物画ではなく、風景画。
「わかりましたいいですよ」
私は風景画だと理解して、うなずいた。
「本当ですか!? ありがとうございます!! では準備しますので、手が空いたらアトリエに来てください」
ハロルド様は、小走りでキッチンを出て行った。
「準備? アトリエ? え……ここじゃないんだ……」
てっきりここで描くのかと思ったが違ったのだろうか?
とりあえず、私は食事の片付けを済ませて、洗濯物を取り込んだ後に畳んだ。
そしてそれぞれの場所に片付けると、アトリエに向かった。おそらくそんなに時間はかかっていないはずだ。
ノックをすると、ガチャリと扉が開いてハロルド様が笑顔で迎えてくれた。
「お待ちしていました!! 準備はできています。これを身に付けていただけませんか?」
私はハロルド様に、白い布を渡された。
(何かな? ワンピースかな?)
「はい」
「ありがとうございます、こっちです」
私は着替えて欲しいという服を持ったままアトリエの奥の部屋へ通された。
(ああ、着替えは別の部屋があるのか……)
ふとアトリエの中を移動していると、たくさんの女性の絵が見えたが、みんなそれぞれが選んだと思われる服を着ていた。
(あれ? みんな着替えてないけど……)
違和感を感じたが、すぐに着替える理由を思いついた。
みんなきれいに着飾った服を着ているが、私は動きやすさを重視しているので、とても絵のモデルになれるような姿ではないのかもしれない。
(いい服を用意してくれたってことね……)
「こちらです」
私は納得すると、ハロルド様に案内された扉の中へ入った。
「アリシアさん。着替えたら、ここで待っていてください。そのままここで絵を描きます」
「え!? ここで!?」
アトリエの奥の部屋は、大きなベッドが置いてある。
てっきり料理風景を描くのかと思っていたので、全く想像していなかった場所で驚いた。
ベッドの前には、キャンバスが置いてある。
「はい。それでは着替えたら声をかけてください」
ハロルド様は部屋を出て行った。
(え? ここ……ベッドしかないんだけど……ハロルド様、ここで一体どんな絵を描きたいの??)
私は困惑しながらハロルド様に手渡された服を開いた。
「え……」
服を広げて私はまたしても驚愕した。
折り畳まれた状態だったので、てっきり白いワンピースかと思ったが、真っ白なシーツだった。
(これを身に着ける?? 一体、どういうこと??)
私は困惑しながら、声を上げた。
「ハロルド様~~!!」
するとガチャリと扉が開いて、急いでハロルド様が入って来た。
「はい。出来ましたが……あれ? まだ着替えていないのですか?」
私はハロルド様の前にシーツを差し出しながら尋ねた。
「あの……着替えと言われましても……これをどうやって身につければ……」
ハロルド様は当たり前のように言った。
「ああ、できれば腕がでるように身体に巻き付けていただければ……」
「身体に巻き付ける!?」
私が驚いていると、ハロルド様が首を傾けた後に、興奮したように言った。
「も、もしかして、何も身に付けずに描かせてもらってもよろしいのですか!?」
(何も付けない!? それって、つまりヌードってこと!? いやいやいやいや、それは……ない!!)
でも……だからと言ってシーツを巻き付けるというのも……
私は、ハロルド様に尋ねた。
「あの……普通の服では……」
ハロルド様が私の手を握って真剣な顔をした。
「実は、ずっと描きたい絵があって、でもずっとモデルが見つからずに、描きたい絵にふさわしい方を探していました。何人もモデルの方に来ていただいたのですが、どうしてもこの部屋に合わなくて……でも昼食を作るあなたを見て、ここにいるあなたが描きたいと思ったのです!! お願いします!!」
あんなにきれいな人をたくさん描いているのに、私がこんな姿で描かれるなんて……
「そんな……」
私が『……無理ですよ』と断ろうと思ったときだった。
ふと、脳裏にアリシアと婚約破棄をしたジャンの顔が浮かんだ。
ハロルド様は、美術関係者なら知らない人はいない。
そして私の頭の中に悪魔の囁きが聞こえた。
(もしもこの話を受ければ、私は有名な画家の絵の中で永遠に輝き続けることができる……ジャンと結婚していたら、絶対に無理だった……)
少しだけでもいい、ジャンを見返してやりたかった。
誰もが憧れる画家の絵の中で生きることができる。
(もう、私にはちゃんとした結婚の話なんて来ない……それなら……)
そう、私にはもう失う物など何もない。
希代の天才画家ハロルドが描きたいと言っているのだ。描いてもらえばいいではないか。
シーツを巻き付けているのだ。服を着た状態とかわらない。踊り子さんの服はもっと大胆に胸元や背中が空いていたではないか……それならシーツなど大したことはない。
私はハロルドを見つめた。
「わかりました」
「ありがとうございます!!」
ハロルドは嬉しそうに笑うと、部屋の外に出た。
部屋に一人になり、私はシーツを握りしめた。




