6 手足を伸ばして
食器の後片付けを終えて、テーブルを拭いていた時だった。
「アリシアさん、私は終わりましたが……少し汚いかもしれません」
ハロルド様が首にタオルをかけたままキッチンに入って来た。
髪が拭けていないのか、水滴がポタポタと落ちて床を濡らしている。
「ハロルド様、頭が濡れてます。あの……拭きたいので座っていただけませんか?」
「え!? あ、お願いします」
ハロルド様はいそいそとキッチンの椅子に座った。
私は、ハロルド様の首にかかっているタオルでハロルド様の頭を拭いた。金色の髪はオイルランプのオレンジ色の光に照らされると、少しだけオレンジ色に見える。ハロルド様の髪はサラサラとして指通りもいいが、せっかくなのでブラッシングしたい。
「ハロルド様、櫛はお持ちですか?」
ハロルド様は、眠そうに閉じかけた目を開けて答えた。
「くし……くし?」
もしかしてぼんやりとしているのだろうか?
「ふふふ。髪を梳かす櫛です」
「ああ、わかりません。持っていたような……持っていないような……もうずっと使っていませんねぇ」
もうずっと使っていないのに、この髪を維持しているのはすごいと思った。
「そうなのですね。はい、そろそろ終わりました」
髪が短いので、早く乾いた。私ではこうはいかない。
「あ……終わりですか……」
なぜかハロルド様が捨てられた子犬のような顔で私を見上げた。
「気持ちよかったのですか?」
ハロルド様の顔をのぞきこむと、彼は素直にコクリと首を縦に振った。
「そうですね……気持ちよかったです……とても……」
そしてハロルド様は立ち上がり、今度は私を見下ろして微笑んだ。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、ハロルド様」
私もあいさつを返すと、ハロルド様はしばらくじっと私を見つめた後に、キッチンを出て行った。
もう暗くなったので、私もお風呂に入って寝たいと思った。
今日はさすがに疲れた。
お風呂は温泉だと聞いていたので楽しみだ。そして、私ははっとした。
(……少し汚いっておっしゃっていたような?)
そしてここに来た時の惨状を思い出して、急ぎ足でお風呂に向かった。
「う……これはちょっと……」
行ってみると、緑の藻が生えていたりと酷い状況だった。
「これにハロルド様は入ったの?」
お風呂を見ると、シャワーの前だけ不自然に藻がないので、もしかしたら湯舟には浸からずシャワーで済ませたのかもしれない。石造りで大人が二人くらいがのんびりと足を伸ばせるくらいの大きさの湯舟の周りにはレンガが組まれていてとても可愛い作りだ。
(せっかく温泉があるのに入らないなんてもったいない!!)
私は周囲を観察すると、温泉のお湯の流れを調節しているであろう石の板を差し込む場所を見つけた。
おそらくこの石の板を斜めに差し込めば、別の場所に流れる仕組みだ。
「お湯を抜いて掃除しよう」
周囲を見渡すと、デッキブラシも見つけた。
「ブラシがあった!!」
私はお湯を抜きながらとにかく洗い場の藻を磨いた。そして周辺を磨き終わった頃、お湯が抜けた。
「あれ? お風呂の周りは汚れているけど……中はそれほどでもないわ……」
お風呂の周りは汚れていたが、浴槽の中は比較的きれいだった。
(これなら、なんとか今日中にお風呂が復活する!!)
私は温泉のためにひたすらデッキブラシで磨き続けた。
(温泉、温泉、温泉、温泉!!)
私は温泉に入ることをモチベーションに掃除をした。そして空にはくっきり月が出た頃……
「終わった……」
私は掃除を終えて、息を吐いた。
信じられないくらい汚かったお風呂が、きれいになり自分でも大満足だ。
石の板を取って流れをお風呂に戻ると、お湯が溜まる間に脱衣所の掃除もした。
「明るい!!」
掃除をすると、お風呂がとても明るく感じた。
掃除が終わったが、まだまだお湯はたまらない。
「今のうちに、タオルとか着替えを持ってこよう」
私はリネン室からタオルを持ってきて、先ほど掃除した脱衣所内のタオル置き場と思われる場所に置いた。
(ああ、脱衣所内から洗濯場って繋がっているんだ……)
脱衣所の壁の隙間から、隣の洗濯室に洗濯物を入れることのできるシステムのようだった。
その後、3階の自分の部屋に戻って寝着や替えの下着を持って来た。
そんなことをしている間に、お湯がなみなみ溜まっていた。
「ああ、溜まった……」
私はきれいになった洗い場で、髪や身体を洗うと湯舟に浸かった。
「あ~~気持ちいい……でも、足と腕が痛い……明日絶対筋肉痛だ……」
完全な室内なので、お風呂に入りながら外が見えるというわけではないが、とにかく癒される。
(温泉なんて何年ぶりだろう……)
私は手足を伸ばしながらぼんやりとこれまでのことを考えた。
同棲解消からの、婚約破棄をされて、実家に戻って家に閉じこもって本ばかり読んでいた。
それが急にこの運動量だ。
身体が驚いているのをヒシヒシと感じる。
気持ち良くてうっかり寝落ちしそうになって、はっと気づいた。
「このまま寝たらダメだ!!」
私は温泉から上がると、身体を拭いてふかふかのタオルを髪に巻いたまま3階に戻った。
この部屋は掃除は終わっていないが、ベッドに入れば問題ない。
しかし、髪がなかなか乾かない。
(髪を乾かさずに寝るのはちょっと……)
ちなみに男爵家や女子寮では髪を乾かすために足で踏んで風を起こす扇風機のようなものがあった。
しっかりとタオルで乾かして、櫛でとかしながら風を当てると比較的早く乾く。
今日は全く寒くないので、夜風が乾かすことを試みた。
部屋の窓を開けると風が吹き込んで来た。
それで、櫛でとかしながら髪を乾かした。
(そろそろいいかな?)
そしてしばらくしてようやく、髪が乾いた。
これを毎日やるのか、と思うと気が重い。
少し冷えた身体をさすりながらベッドに入って眠りについた。
疲れていたから、よく眠れた。
御者に酷い運転をされて荷物を投げられたり、シェフに固いパンや干し肉をお弁当として入れる嫌がらせもされたが、一日中身体を動かしていたからか、疲れて思い出すこともできないほど、ぐっすりと眠ったのだった。
◇
「まぶしい!!」
私は天窓から差し込む光で目を開けた。
時計を見てもまだ早い時間だ。
この辺りは日の出は早いので、分厚いカーテンを使うがここはカーテンはない。
仕方なく、ベッドから出ると着替えて1階に向かった。
「ふぁ~~今日もいい天気」
陽の光を浴びて伸びをすると私は早速、洗濯室に溜まっている洗濯物を洗うことにした。
まず、椅子を使ってロープを張り巡らせた後に、桶を用意してどんどん洗う。
今日は自分の洗濯物もある。
私の服は少ないので最優先だ。そのくらいいいだろう。
そして、ひたすら洗濯をして最後の洗濯物の脱水のためにハンドルをぐるぐる回していた時だった。
「おはようございます。早いですね」
私はハンドルを止めて、顔をあげるとハロルド様が立っていた。
「おはようございます」
そして彼は空にはためく洗濯物を見上げながら言った。
「壮観ですね……気持ちよさそうです……」
洗濯物を見てそんなことを口に出し、思わず笑顔になった。
「確かに気持ちよさそうですね」
『ぐぅ~~~』
私が笑うと、ハロルドのお腹が盛大に鳴った。
「あ……お食事……」
私が声を上げると、ハロルド様が照れくさそうに言った。
「朝食は何ですか?」
「申し訳ございません。キッチンに材料が何もなくて……作れないのです」
「あ、そうでした。では、アリシアさんさえよろしければ、これから出かけませんか? そして今日は、町で朝食を摂りましょう」
「いいのですか?」
「はい。もちろんです」
私は急いで脱水機から洗濯物を取り出した。
「これだけ干してもいいですか?」
「ええ。私も出かける支度をします。干し終わったら、エントランスに来てくださいますか?」
「はい!!」
私は急いで、洗濯物を干した。
そして、使った道具を軽く洗って壁に立てかけると、エントランスに向かった。
中で待っていたが、ハロルド様の姿は見えない。
じっと待っていると、外で馬の蹄の音が聞こえた。
(外か……)
私が外に出ると、ハロルド様が荷馬車の御者席に座っていた。
「アリシアさん、隣にどうぞ」
「はい……あの鍵は……」
ハロルド様は「ああ、忘れていました」と言って、鍵を私に手渡した。
「閉めてくださいますか?」
「はい」
私は鍵で扉を閉めた。そしてハロルド様の隣に乗り込んだ。
「失礼します」
「どうぞ、どうぞ。荷馬車ですが……」
そして私はハロルド様とのんびりと馬車に乗った。
「アリシアさんは、どうしてここへ? 『居場所がない』とだけ聞いていたので……あなたのような貴族女性の方にとってここはつらいでしょう?」
ハロルド様に聞かれて私は隠すことなく答えた。
「実は、婚約していた方に婚約破棄をされました」
「え!? 婚約破棄!? そんなことができるのですか?」
「そうですね……普通はしませんが、私はされました」
「信じられない、解消ではなく、婚約破棄なんて、非道な真似を女性に……」
彼は驚愕していた。
「仕方ありません、お相手の方が……他の方を好きになられたそうですので」
ハロルド様は眉をひそめて、さらに顔を歪めた。
「は? そんな理由で?」
「そんな理由?」
「だって、婚約破棄ということは、随分前に家同士ですでに取り決めを交わしていたのでしょう? それをただの心変わりで……あ、すみません。私はその……伯爵家で爵位を持つ家に生まれたので、一般の方とは少し考え方が違うのかもしれませんね」
どうやら、ハロルド様は私の相手は貴族ではないと判断したようだ。
やはりそれほど、貴族にとってはあり得ないことをされてしまったのだろう。
「私も一応、男爵家の出身で、お相手は子爵家の出身です」
「え!? 爵位持ち? それなのにそんな非常識な理由で婚約破棄!? 貴族と名乗るべきじゃないな、紳士道を逸脱している」
ハロルド様は、私の想像以上に怒ってくれた。
それだけで、少し救われた気分だ。
「あの、ちなみにあなたの出身と、その男の出身の家を教えてくださいませんか?」
「ああ、申し遅れました。私は、アリシア・ラインで、お相手は……ニール子爵子息です」
ハロルド様は目を大きく開けた後に何かを考えるように言った。
「え!? ニール子爵!? あの家はそんなに倫理観のない家だったのか……ありがとうございます。アリシアさん、私はもう自分の大切な絵をニール子爵に売るようなことはしません」
「ハロルド様!? そんなことでよろしいのですか?」
「もちろんです。婚約破棄だなんて……貴族のお嬢さんがこんなところに手伝いに来てくれるなんておかしいとは思っていましたが……つらかったでしょうね……」
ハロルド様に優しい言葉をかけてもらって、泣きそうになって急いで顔を上げた。
そうでないと、泣き出して止まらないと思ったからだ。
浮気したのは向こうなのに、苦しむのは私だけ。やはりつらかったのだ。
「そろそろ町に着きますよ」
ハロルド様に声をかけられて私は笑って見せた。
「わかりました」
そして真っすぐに前を向いた。
過去なんて消してやる。
そう思った。




