3 森の中の洋館
「わっ!!」
ガタンと大きく馬車が揺れて、私は馬車の窓の縁をぎゅっと握った。
馬車の揺れには強い方だが、こうもずっと酷い揺れが続くとさすがに気分が悪い。
それに手もずっと何かを掴んでいるので痛くなって来た。
(道、かなり悪い……)
少し停まってほしいが、そんなことを頼めないほど気分が悪い……
(早く着いて!!)
私がひたすら早く到着することを祈っていると、ようやく馬車が停まった。
(やっと、着いた?)
扉が開いたので、私は気分が悪くてとにかく外に出た。
(はぁ~~よかったぁ~~無事に着いた……)
外の空気を吸うことが出来てほっとして深呼吸した時だった。
「ドサッ!!」
足元にトランクが二つ、乱暴に投げられるように置かれた。
(え!?)
あまりの乱雑な置き方に驚くと、御者はすでに御者台に乗っていた。
私は気分が悪かったが、なんとか声を上げた。
「……送ってくれてありがとう」
お礼を言ったが、無視され、御者は逃げるように戻って行った。
どうやら彼は私の噂を知って早々に仕事を終えたかったのだろう。もしかしたら、ここまでの道が悪かったわけではなく、運転が荒かっただけなのかもしれない。
(まぁ、ここまで送ってくれただけでもよかったと思うことにするか……)
本当に最悪な人間なら、仕事を途中で放棄しただろう。
それなのに、かなり遠いのに目的地までは送ってくれたのだ。それだけは感謝する必要がある。
どうやら私は、婚約破棄を甘く見ていたようだ。
こんなにも世間が自分に冷たくなるとは思わなかった。
(貴族女性が婚約破棄されるって、大変なのね……このお屋敷の方も同じなのかな……)
きっと向こうは私が婚約破棄をされたことを知っているだろう。
それでもいいと、私を受け入れてくれたのはここでの仕事がつらい可能性がある。
(最低でも町で自立できるくらいの資金を貯めよう。もう婚約破棄された令嬢になんて未来はないのだし、平民に混じって暮らした方が幸せになれるはず!!)
私はまたしても、婚約破棄の影響を実感すると再び深呼吸をした。
そして少しだけ目を閉じた。
でも馬車の揺れのせいでいまだに地面が揺れている気がして急いで目を開けた。そして、何度も意識的に深い呼吸をしてようやく、気持ちを落ち着けた。
(よし、行こう! とにかく、自立できるだけの資金を貯める!!)
目の前のシャトーというのがぴったりの雰囲気のある洋館は、周りを森に囲まれ、とても静かだった。
私は地面に投げ捨てるように置かれ倒れていたトランクを両手に持ってよたよたしながら、扉の前に立った。
そして、荷物をエントランスの床に置くと、獅子のドアノッカーを手に取った。
3回ノックして、手を離した。
じっと待つ。
鳥が飛んで行き、風が吹いた。
――何の返事もないし、誰も出て来てくれない。
(聞こえなかったのかな?)
私は再びドアノッカーを3回鳴らした。
そしてひたすら……待つ。
じっと待つ。
ただ、待つ。
隣の木の枝をリスが通り過ぎて行った。
――やっぱり、何の返事もないし、誰も出て来てくれない。
(不在なのかな?)
私はエントランスに置いたトランクを、そのままにして屋敷の裏に回った。
「誰かいますか……」
そして歩いて行くと、大きな生垣に仕切られた場所を見つけた。
(ここかな?)
私は生垣を越えて庭の中に入って思わず声を上げた。
「わぁ……きれい……」
そこにはまるで絵画の中から抜け出たような美しい庭が広がっていた。ここが森の中とは思えないほど、本当に美しく整備されている。
「素敵なお庭………」
あまりにも美しいので、庭を歩いていると、「ガチャン」という音が聞こえた。
(……え?)
音がした方を見ると、男性がキャンパスの前に座ってこちらを見ていた。
(あ、もしかしてあの方が……)
私は歩いて彼の前に向かった。
「こんにちは、こちらで働かせていただけると聞いて参りました……」
「え……? ああ、新しい住み込みの方ですか……ようこそ……(居場所のない女性と聞いていたが……こんなに若い女性だったのか……)」
男性は座ったまま、下を向いて呟いたが最後まで聞き取れなかった。
でも想像よりもずっといい人のように思えた。
(人嫌いで偏屈って聞いていたけど……)
金色の髪に、青い瞳でとても整った顔だ。しかもとても穏やかそうだ。母の言っていた印象とはまるで違う。
男性は立ち上がって、私の前まで歩いて来た。
「私はハロルドです。見ての通り、絵を描いて生活してます」
(画家……ハロルド!? もしかして!!)
私は思わず大きな声を上げた。
「ハロルド様……もしかして、画家のハロルド・ベール様ですか?」
実はアリシアが嫁ぐ予定だったジャンの実家は、美術品のバイヤーを生業にしていた。だから、アリシアは必死で美術品のことを学んでいたので、美術品などの知識は入っているのだ。
「私を知っているのですか?」
私は大きくうなずいた。
「はい。『港町の朝日』は明るく町と、朝日を映す海を見て心が明るくなりました……叶うなら、もう一度見たいです」
あの絵はそんなに目立つ絵というわけではない。
でも心を明るく照らしてくれるようで、婚約破棄をされて実家も追い出された今の私にこそ必要な絵だと思えた。
(あの絵、また見たいな……)
「あの絵はもう売ってしまったので、手元にはありませんが……アトリエの絵なら見てもらって構いません」
「ありがとうございます」
この世界には美術館などはなく、美術品は基本的に全て個人で所有している。
だから一度人の手に渡ってしまえば、簡単には絵画などを見ることはできない。私はハロルド様の絵画をジャンの実家にあいさつに行った時に見たので知っている。
だが、あの絵も売れてしまったのでもうジャンの家でも見ることはできないようだ。
私が有名な画家と会えたことに感動していると、ハロルド様が困ったように言った。
「あの……お名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
私は姿勢を正してあいさつをした。
「申し遅れました。私はアリシアと申します」
ハロルド様は私を見て「アリシアさんですね」と言って歩き出した。
「こちらです」
私はハロルド様の隣を歩いた。
「アリシアさんには基本的な家事をお願いします。食事の支度、洗濯、掃除などです」
「わかりました」
「これからキッチンに案内します」
そしてキッチンに案内されて、扉を開けた途端に私たちは鼻を押さえた。
「うっ!!」
「う!!」
二人で鼻を押さえると、一度、扉を閉めた。
そして私たちは顔を見合わせた。
「どうやら、何かが異臭を発しているようですね……」
「あの……ハロルド様は普段、お食事は……」
キッチンから異臭だなんて、いつから使っていないのだろうか?
気になって尋ねると、ハロルド様が眉をひそめながら首を傾けた。
「そう……ですね……前の方が辞めたのが1か月前で……最近は……町で買って来たり、干した果物などを食べていました」
前の人が辞めたのが1か月前。
うん、結構前だな……
「あの、ハロルド様は料理は?」
「できません」
料理はできない、ということは恐らくキッチンには入っていない可能性が高い。
つまり、ここは1か月放置された状態……
私は眩暈がしそうになるのを堪えて、ハロルド様を見て尋ねた。
「買い物はどうしているのですか?」
「荷馬車で町に行きますが……アリシアさんは馬車は扱えますか?」
私は馬車を使えない。
「いえ……」
ハロルド様は笑顔で私を見ながら言った。
「では、今度、一緒に行きましょう。必要な物はその時に買いましょう」
どうやら、買い物は行商の人が来てくれるわけではなく、自分で行くようだ。
貴族の屋敷にしては珍しいシステムだ。ちなみにこっちの世界では、貴族の屋敷に行商人が来るのは一般的だ。男爵家でさえ、行商人が屋敷に来るのだ。
とにかく、買い物方法を理解して私はじっとハロルド様を見つめた。
「わかりました……では、その前にこのキッチンをなんとかします!!」
ハロルド様が心配そうに首を傾けた。
「なんとか……とは?」
私は少し考えて、腕まくりをしながら答えた。
「とにかく、まずは、窓を開けます!!」
「なるほど……では、私も一緒に入って窓を開けます」
「え!? いいのですか?」
「はい」
どうやら、ハロルド様も窓を開けるのを手伝ってくれるようだ。
私は再びドアノブを持って彼を見上げた。
「それでは、ハロルド様。1・2・3で開けますよ?」
ハロルド様も深くうなずいた。
「わかりました! 1・2・3で、入ったら、窓に走ります!!」
「ええ!!」
私はドアノブを持って声を出した。
「1・2・3!!」
私たちは鼻を押さえてキッチンの中に入ると、ハロルド様は窓に走り、私はキッチンの脇にあった扉に走った。
重厚な扉を開けた途端に風がキッチン内を流れて行く。
見るとハロルド様も次々と窓を開けていた。おかげで、少しだけ匂いがやわらいだ。
そして全ての扉と窓が開け放たれて、キッチンの惨状を見た。
(う……これは……酷い!!)
使ったまま洗われていない食器が山積みで、今となってはもう原型がわからない食べ物が朽ち果てている。
さらに調味料や調理器具も散乱。
「これは酷いですね……」
ハロルド様がまるで他人事のように言ったので思わず、あきれ顔で彼を見上げてしまった。
「酷いって……」
私の視線を感じて、ハロルド様は困ったように言った。
「はは……まさかこんなことになっているとは……」
食器棚のお皿は空になっており、調理器具も焦げ付いたり、散乱している。しかも寸胴鍋の中もかなり汚れている。
きっと料理に失敗したり、大変な状況になり放置して今に至ると言ったところだろうか……
「これってたぶん、御自分でも料理をされたのですよね?」
ハロルドは首を傾けた。
「ん~~そうですね~~したのでしょうね……」
どうやら詳しく覚えていないようだ。もしかして、前の人がいなくなってすぐにキッチンに立ったので忘れてしまったのだろうか?
「まずは、キッチンを回復させます!!」
「お願いします!!」
ハロルド様にお願いされて、私は荷物の中に動きやすい服や、髪を止めるリボンが入っていたことを思い出した。
「ハロルド様、一度着替えてもいいですか? これから掃除をします」
「はい。それでは、アリシアさんのお部屋にご案内します」
「あ、ハロルド様。玄関の前にトランクを置いたままにしているので、取りに行ってもいいでしょうか?」
「もちろんです。では玄関に寄って、部屋に行きましょう」
私はハロルド様と玄関に向かった。
玄関に足を踏み入れた瞬間、私は言葉を失った。
「凄い……」
玄関にはハロルド様が書いたであろう大きな絵が飾ってあった。
ジャンの家で見た物よりもずっとすごい。
実は、ハロルド・ベールはあまり自分の絵を手放したがらない画家で有名なのだ。
彼が手放す作品はあまり思い入れがない作品だと言われているが、それでも名画だと多くの人が欲しがるのだ。
そしてこれが画家ハロルド・ベールが手放したくないという作品……
圧倒されていると、隣でハロルド様が呟いた。
「あ、この絵まだ飾ってあったのか……」
ハロルドは自分の絵なのに不思議そうに見上げていた。
「どういうことですか?」
「いえ、てっきりもう売られたのかと」
ハロルド様の言葉が気になり声を上げた。
「売られた? 誰にですか?」
「……私にです」
「私?」
もしかして画家というのはその時の気分で、作品を手放したいとか、これは手放したくない、という衝動に駆られたりするのだろうか?
そして後から冷静になるとか……
私は彼を見上げて尋ねた。
「ハロルド様はこの絵を売りたくはないのですか?」
ハロルド様は絵を見つめた後に、私を見て困ったように笑った。
「さぁ、どうでしょうか? わかりません」
自分のことなのにわからないというハロルドを見て、画家の方とは繊細なのだなと思ったのだった。




