2 婚約破棄をされた愚かな娘
「ううう……何度見ても……泣ける……」
私は小説を閉じて、目に溜まった涙を指ですくった。
ここ数日、私はずっとライン男爵家内の自室に閉じこもっていた。
というのも……
本来なら私は、学園を卒業したら王都の寮から直接、ジャンの実家であるニール子爵領に嫁ぐはずだった。
ところがだ。卒業する直前で、婚約破棄をされてしまったので、今は私の実家、ライン男爵領に戻らざるを得なかった。
しかもすでに私たちの結婚は、国に届けて出ていたので婚約を解消することが出来ずに、手続きの関係で婚約破棄となった。
この国では貴族同士の婚姻は、婚約期間を最低でも1年は経て正式に認められる。
そして婚約を届け出て、1年以上が経ち、国や本人から異議申し立ての無かった場合は正式に結婚をしてもいいと許可される。
私たちは婚約して2年は経過していていので、すでに国から許可が下りてしまっていたのだ。
そんな私に待っていたのは……過酷な現実だった――
『聞いたかい? 領主様の娘さんの話』
『聞いたわ! 婚約破棄ですって!? 本当に情けないねぇ』
『本当だよ。なんでも酷い娘なんだろう?』
『そうそう、男グセが悪いんだろ?』
『私はわがままな性格だったって聞いたよ』
『まぁ、そうなのかい? どちらにしても婚約破棄をされるなんて、本当に愚かな娘だよ……』
婚約破棄をされた私は、ライン男爵領内で『婚約破棄をされた愚かな娘』という噂になってしまったのだ。
大きな領なら、婚約破棄もよくあることなので領民も噂をしたりしないが、こんなに田舎の小さな男爵領ではもう何代も、そして周辺の領からも婚約破棄などをされたという人はいないのでかなり噂になってしまったのだ。
――浮気をしたらしい。
――大変な浪費家だ。
――横柄な性格だそうだ。
さらに不幸なことに、婚約破棄された理由を邪推した人々によって、私は最低な領主の娘と言われるようになってしまった。
その噂のせいで、父や母、兄や兄のお嫁さんにまで迷惑をかけてしまっていた。
『お前が悪いわけではないが……世間の目もある。噂が落ち着くまで、あまり屋敷は出ないでほしい』
ここに戻って来て、すぐに兄が申し訳なさそうに言った。
公務に支障をきたすこともあるので、屋敷の中にいてほしい兄の気持ちもわかる。
私も家族に迷惑をかけたくないので、ひたすら大人しく部屋の中にいた。
(婚約破棄されたのは私のせいじゃない!!)
大きな声で叫びたかったが、叫べば叫ぶほど私は悪者になっていく。
だからこそ、部屋で静かに一人で耐えるしかなかった。
毎日が絶望で、世界を自分を恨む日々。
この世からまた消えた方がいいのではないかと思っていた時、私は1冊の小説と出会った。
ジーク・ルクーべという小説家の書いた『裏切り』という本だ。
――この本の主人公の亡くなった恋人が、前世の私と状況が酷く似ていた。
主人公の男性には、幼い頃から愛し合っていた恋人がいた。
主人公は恋人と『結婚資金が溜まったら、入籍しよう』と約束していた。そして、お互いが働くようになると、主人公の恋人に同性の友人が出来た。いつしか、恋人も交えて3人で過ごすようになる。
ある日、主人公は彼女の友人に『誕生日のお祝いをしてあげよう』と持ちかけられる。
そして二人で準備している間に――彼らはお酒の力で男女の関係になってしまう。
主人公の恋人は、誕生日に彼らから別れ話を聞かされる。
ところがその直後、恋人が崖から落ちて亡くなってしまう。
後悔の念に駆られた、主人公の男性は苦悩し……衰弱し、自らの命を終えるという悲劇だ。
家から一歩も外に出ることのできない私はヒマを持て余したというのもあるが、ひたすらその悲劇を読んだ。
もう、何度も。何度も。
私は数え切れないほど読んだ本の表紙を見て、ため息をついた。
「どうしてだろう、完全な悲劇なのに読めば読むほど、この話が悲劇に思えなくなる……」
最初にこの小説を読み終えた時、『バカな話だな』と思った。
そして次に読んだ時、強い怒りを感じて本を破り捨てたくなる衝動に駆られた。
読むたびに、自分の感情が動き、感じ方が変わるのが不思議だった。
(きれいに終わっているのに、続きが欲しくなる……不思議な本だな……)
私が彼の小説を読んで世界観に浸っていたときだった。
ノックの音がして、「はい」と返事をすると、母が申し訳なさそうに部屋に入ってきた。
「アリシア、ちょっといいかしら?」
「ええ、もちろんよ」
私はそう答えると、母が少し緊張しながら私を見て、言いづらそうな顔で口を開いた。
「アリシア、この領と隣のベルク伯爵家の領境あたりに、ベルク伯爵家の方が一人で住んでいるらしいの。その……人嫌いで偏屈だと言われているのだけど……身の回りの世話をしてくれていた方を探しているらしくて……基本的なことさえしてくれれば、関わる必要もないとおっしゃっているの……アリシア、どうかしら?」
アリシアは家事などできないが、私は家事はできるし、何より毎日部屋に籠りっぱなしでは、本当につらい。
以前は家の中でできることをしていたが、領主の家には来客も多く、来た人が私を見て眉をひそめるので、部屋にいたのだ。
とにかく、ネットなど娯楽が何もないこの状況で、部屋に籠り続けるのはつらい。外に出られる環境ならその方がいい。
それにこれ以上私がここにいて、両親や兄夫婦に迷惑をかけるわけにはいかない。
「お母様、私、その方のところに働きに行くわ」
「ごめんね、アリシア……もう少し噂が落ち着いたら、縁談を探すから……少しの間、耐えてちょうだい」
一度婚約破棄をされた私に縁談が来るとは思えない。
それならどこかの屋敷で働きながら、生きるというのも悪くはない。
「お母様、私の縁談は無理しないで。私、明日にでもここを出るから」
「え!? 明日?」
母は大きな声を上げたが、こういうのは決心が鈍らないうちに動いた方がいい。
私は母を見て力強くうなずいた。
「ええ。すぐに出るわ。お母様、今まで迷惑かけて本当にごめんなさい」
母はとうとう涙を流して私を見た。
「アリシア、ごめんなさい……あなたは悪くないのに……これもみんなニール子爵子息のせいなのに!! 酷い方との縁談を組んでしまって本当に、ごめんなさい!!」
母は私を抱きしめて、ずっと謝っていたが、この場合謝るのは母ではない。どちらかと言うと、ずっとジャンとミシェルの関係に気付かなかった私だ。
でも私が謝ると、母はもっと泣いてしまうので黙って母に抱かれていた。
久しぶりに抱かれた母の胸の中はなんだか小さく感じた。
それから私はトランクに荷物を詰めた。着替えと身の回りの物と、そして……
「この本は絶対に持って行こう」
私は最近ずっと読んでいる『裏切り』という本をかばんに入れた。
その日の夜は家族で少し豪華な食事を摂った。
豪華なのに……まるでお通夜のような暗さで、申し訳なくなった。
◇
そして私は次の日の朝早く、馬車に乗ってライン男爵領を出た。
「いってきます!!」
「いってらっしゃい!!」
みんなに手を振って別れると、私は少しだけ肩の荷が下りた。
あの場所にいて、噂の標的になりながら隠れて暮らすのはずっとつらかった。
自分が自分でなくなるような、自分は本当はこうじゃない、この世界がおかしいと破壊衝動に駆られたり、自分など消えてしまえばいいと自傷行動に走りたい衝動に駆られた。
(この本のおかげよね……)
でもギリギリのところで踏みとどまれたのは、この『裏切り』という本のおかげだった。
(どんな場所なのかな?)
私は馬車からの風景を見ながら、これから行く場所を思い浮かべた。
もう十分に地獄は体験した。
これからは、静かに暮らしたい。
私はこの時、心からそう願っていた。




