11 変化
『好き』
そう言われて、唇と唇を合わせた男性から突然言われた衝撃的な言葉。
――誰だ?
私にキスをしたのは、そもそもハロルド様のはずだ。それなのに『誰だ』っていうのが、一体どういうことなのか、理解できない。
これは夢なのか、冗談なのかさえわからない。
(もう何が何だか……わからない……よ……)
私は自分の今の状況がわからなくて、目から涙が溢れてきた。
脳がこの状況を処理しきれなくて、涙を流して感情をコントロールしようとしている。
そんな私に対して、目の前に立つハロルド様からは相変わらず鋭利な視線を向けられている。
(ハロルド様……どうしてこんなことを……どうしてそんな目で私を見るのですか?)
どうして?
なぜ?
言葉にならない疑問が次々に浮かんでは消えていく。
静かに涙を流す私を見て、ハロルド様はじっと睨み付けた後に息を吐いた。
「あいつの連れて来る女は……どいつもこいつも悪臭が漂っているが……お前は臭くない……」
あいつ?
悪臭?
私の頭の中には次々に疑問が浮かんでくる。でもそれらを解決することはなく、浮かんでは消える。
「ハロルド様……」
自分でもどうすればいいのかわからず、名前を呼ぶとハロルド様が思いっきり眉をしかめた。
「この状況で、俺を見て"ハロルド様"だと!? お前……そんな格好してベッドにいるくせに、俺のことを聞いていないのか?」
俺のことを聞いていないのか?
そういえば、ハロルド様はご自分のことを『私』という。
だが、目の前の男性は自分のことを『俺』だという。
(まさか、この人も異世界転生!? 私と同じ? 前世の記憶が蘇ったとか!?)
もしかしたら、彼も異世界転生したのかもしれないと思ったが、安易に聞いてもいいのか判断が出来ずに、じっと彼を見つめると、彼が呆れたように溜息をついた。
「今の俺は、ジークだ。ハロルドではない」
――今の……
この言葉がかなり引っかかる。
もしも、転生したのなら、今のなんて言い方をするだろうか?
私は恐る恐る尋ねた。
「ジーク……様?」
すると彼は顔を歪めて大きな声を上げた。
「様はつけるな。その敬称は……俺には不要だ……ただのジークでいい。余計なものは……重いからつけるな」
敬称を嫌悪するかのような彼の言動に疑問を感じながらも、私はじっと彼を観察した。
どこからどう見てもこの方はハロルド様だ。服も匂いも顔も何もかもつい数分前と変わらない。
でも、彼は自分のことをジークだと言う。
しかも"伯爵家"の人間なのに、"様"をつけるな、なんてそんなことを言う爵位持ちの人間など会ったことがない。
ジークと名乗る男性は、口調も表情も視線も何もかもが違う。
しかも、何度か入れ替わっているというような言い方だ。
(ジークと、ハロルド様は名前も性格も違う人間ってことよね……)
もしも、本当にハロルド様とジークが別人だとすると考えられる可能性は――
「あいつ、自分の女に説明くらいしろよ!! 面倒事ばっかり押し付けやがって!! くそっ!!」
ジークは苛立った様子でアトリエの中を歩いて、机の前に立つと引き出しを開けて革張りのノートを取り出してパラパラとめくった。
「あいつ……食べ物の感想ばかりで、肝心なことは何も書いてない!! あ……もしかしてこのあたりか?」
ジークはノートを見ると、私を見た。
「お前、実家から追い出されたみたいだけど、何をした?」
鋭い視線を受けて私は身体に巻いていたシーツを握りしめた。
「……婚約破棄をされました」
もしかしたら、悪女だの。最低な娘だと言われることを覚悟して告げた。
ところがジークは、険しかった表情から無表情になり口を開いた。
「婚約破棄か……相手に浮気された、ってことか?」
すんなりと受け入れられただけではなく、私の状況まで的確に理解してくれたことに驚いて思わず声を上げた。
「はい、でもどうしてそれを?」
ジークは私を見て感情の見えない瞳で答えてくれた。
「お前からは、イヤなにおいがしないから、お前が浮気して婚約破棄されたわけじゃないだろ? 大抵、そのくらいの年齢で婚約破棄なんて、どちらかの不貞しかないだろう。浮気ぐらいで婚約破棄などしないからな……」
不貞……そう言われて、ズキンと胸が痛んだ。
やはり、婚約破棄をするくらいだ。身体の関係まで持っていたと考えるのが自然だ。
(ジャンとミシェルが……)
ずっと考えないようにしていたことだが、現実を受け入れると、絶望とか悲しみとか吐き気とか気持ち悪さがこみあげてきた。
私は気分が悪くなったが、どうしても気になっていたことを尋ねた。
「ジーク……イヤな匂いとは何ですか?」
"様"を付けずに尋ねたが、彼は無表情を保ったままだ。
やはりこの呼び方でいいようだ。
「ああ、人の大切な人を奪った人間からは腐敗臭のようなイヤなにおいがするんだよ。ちなみに一生消えないし、いくら香水使っても、身体を洗っても何をやっても取れない。本当に厄介な匂いだ」
「あ……」
そう言えば、私も前世で修二から別れ話を聞いた時に、花蓮から腐敗臭のような強烈な悪臭を感じたことを思い出した。
(そういえば、小説にもそんなことが書いてあったな……よくあることなのかな?)
私がなんとなくにおいについて考えていると、ジークはノートを見ながら声を上げた。
「あんなに売るなってうるさかったアトリエに置いてある女たちの絵、全部売ってもいいのか……そいつは、商人たちが血眼になるな……ん? 何か書きなぐっているな……ニール子爵に絶対に絵を売るなって書いてあるが……どういうことだ? お前、何か知っているのか?」
ジークに尋ねられて、私は驚いて声を上げた。
「え……」
ジークは私をじっと見ながら言った。
「何か心当たりがありそうだな……何だ、言え!! ものぐさなあいつの代わりに、絵を売りさばいてるのは俺だ。へそを曲げると面倒だからな。理由を知っているなら言え」
「はい……私、ニール子爵子息から婚約破棄をされて……ハロルド様はそれを聞いてお怒りになって『絵を売らない』とおっしゃっていました」
ジークが少し目を開いた。
「ニール子爵家の人間が婚前に、しかも不貞行為か……結構堅実な家だと安心していたが……後を継ぐのが婚約破棄なんて非道な真似をする男か、ニール子爵家の未来はないな。わかった、その家以外に売ろう」
「え? いいのですか?」
あまりにジークが即断即決したので、私の方が慌ててしまった。
「ああ。俺も愚かではないからな。道理のわからないヤツと取引したいとは思わない。貴族の世界は実に狭く、息苦しい世界だ。そんな場所で生きるのなら、信用第一だ。それなのに色に流されるようじゃ、貴族として先はない。勘違いするな、お前の情報は参考になったが、お前のために売らないわけじゃない」
「はぁ……」
私は学生だったし、長子でもないので小さい頃から貴族のパーティーなどに出席したことはないが、兄はいつも『今回も無難に終わった』と言っていた。
無難……それが重要だとよくわかった。
つまり、貴族の間で良くない噂が立つのを最も恐れていたのだろう。
それが証拠に今回、実家のみんなは、領民に弁解するよりも静観することを選んだ。
周りの貴族を刺激しないように、下手にニール子爵家を悪者にして領民に説明するより、静観した方が早く収束すると思ったのだろう。貴族には派閥があるので、どこかを悪者にするとその家と繋がる家と揉めることになるのだ。
だから、とりあえず領民の悪意から私を守るためにここを見つけてくれた。
もしかしたら、貴族同士なら私の婚約破棄の原因が、私にあるとはみんな思わないとわかっていたのかもしれない。
「ところで……ここには、お前のことを描きたいとしか描かれていないが……キス……していただろう?」
ジークに聞かれて、私ははっとして顔を上げた。
「そう……ですね」
ジークの質問に答えると、彼が頭を掻きながら苛立ったように言った。
「あ~~わからない、女だな。つまり……その、この状況は事前なのか? 事後なのか?」
(事前? 事後? そんなことを聞かれても、私は絵のモデルの最中にうっかり寝てしまったので……今日のところまで、描き終わったのか、終わってないのか……わからない……いつもハロルド様が『ここまでにしましょう』って言ってくれたから……)
「終わったのか、終わってないのか、定かではなく……」
正直、寝てしまっていたので私には絵を描き終わったのか、終わっていないのかよくわからない。
「……は? 寝ぼけているのか?」
「先ほどまで、確かに寝ていましたが、さすがにもう頭ははっきりしています!」
私が反論すると、ジークが舌打ちをした後に眉をしかめた。
「鈍い女だな。比喩表現もわからないのか!? 寝ぼけているというのは、はぐらかすなという意味だ。つまり、あいつと身体を繋げたのか、と聞いている!!」
「身体を繋げ……ええええ!? まさか、そんな恐ろしい勘違いを!! 私はハロルド様に絵のモデルを頼まれただけです!! 決して、そのような関係ではありません!!」
ハロルド様の名誉のためにも全力で否定すると、ジークが眉を寄せた。
「では、なぜキスしていた?」
「それは……目が覚めたら、ハロルド様の顔があって……キスをされました」
すると、ジークがバキッと、ハロルド様の机に置いてあったペンをへし折った。
「なんだと……あいつ……俺の身体で同意もなく女に手を出したのか……」
ジークから凄い怒りを感じる。
そしてジークは、私を睨み付けると大きな声を上げた。
「早く服を着ろ!! いいな!!」
そして、大股で音を立てながらアトリエを出て行った。
私は唖然としてジークの背中を見送った後にはっと気づいた。
「そうだ、着替えなきゃ!!」
私は急いで服に着替えたのだった。
着替えながら私の頭にある可能性が確信に変わった。
彼らは何度か入れ替わっているようだ。
これはきっと異世界転生などではない。
彼らは――多重人格者の可能性が高い。
私は先ほどのジークの言動を見てそう判断したのだった。




