1 歴史は繰り返す
よくある話。
本当に笑っちゃうくらい――よくある話。
選ばれたのは、私じゃなくて親友だったってやつ。
本当によくある――最低最悪な話。
1 歴史は繰り返す
「ごめん、陽菜。別れよう」
黒岩 陽菜(22)、大学4年の秋。
付き合って6年目。お互い就職先も決まって『卒業と同時に同棲しよう』って親にも話をして、物件を探してた時。
――高校2年の時から、ずっと付き合っていた恋人の修二に突然……フラれた。
「は?」
サークルの部室として使っているいつもの部屋。
しかも隣には友人がいる。
こんな状況って別れ話をされるなんて思わなかったので油断した。
私は思わず声を上げると、私の隣に座っていた大学のサークルで出来た友人の花蓮が、泣きそうな顔で私を見上げた。
「陽菜、ごめんなさい。私、どうしても修二のことが好きで……」
「え!?」
心臓が止まりそうなほど驚いた。
修二と花蓮と3人で過ごすのは割とよくあることなので、花蓮が私の隣に座っていることに疑問はなかった。
でも、まさか修二と私の別れの原因に彼女が絡んでいるとは夢にも思わなかった。
「ごめん、俺、花蓮と……付き合うから……」
(修二……私に隠れて浮気してたって……こと……だよね……)
私の脳は優秀だったようで、こんな短い言葉で、この状況を理解した。
「陽菜、ごめんね、本当にごめんね」
花蓮が顔を下げながら謝罪をするが、私は一瞬彼女の口の端が上がっているのを――見てしまった。
(ごめんって……笑ってるじゃん、顔……)
頭は動くのになぜか声が出ないし、身体が動かない。
花蓮の後に今度は修二が大きな声を上げた。
「花蓮は悪くないんだ!! 俺が……彼女を……」
「修二は悪くないよ!!」
見たくもない茶番劇が目の前で繰り広げられていた。
二人とも私という"恋愛盛り上げアイテム"を使って自分たちの世界に酔いしれており、とても楽しそうだ。
私はまるで物語の主人公になったかのような花蓮をじっと見つめた。
花蓮は『年収が高くないと付き合わない』と言って、年上とばかり付き合っていた。
私は同じサークルということもあり、花蓮とは友人だと言える関係だったが、彼女の恋愛観は理解できなかった。付き合ったばかりの優しくしてくれる期間を求めて、相手を次々に替え、SNSで派手なデートを見せつける。
その派手さを維持するために『年収が全て』だと言い切る彼女に疑問を持ちつつも、個人の価値観だと思って静観していた。
だが、どうやら修二の就職先を聞いて、彼に目を付けたようだ。
修二の就職先が決まったのは2ヶ月前。そして2ヶ月前に、修二は私に『同棲しよう』と言ってくれたので、その時はまだ絶対にくっついていなかったはずだ。
(2ヶ月か……6年も付き合っても、こんなに簡単に奪われるんだ……)
怒りとか、悲しみとか、驚きとか……そういう感情が混じると、人は『無』を感じるのかもしれない。
正直、私は抜け殻だった。
これまで修二と築き上げたと思っていた絆は、こんなに脆く実態のないものだったのだ。
目の前の二人の幼稚な劇を見ていたら、何も思考できなくて、頭も身体も動かなってしまった。
二人の会話が、遠い昔の外国のセピア色の映画みたいで、何を言っているのか全く頭に入って来なかった。身体から力が抜ける感覚。
何もしたくないし、聞きたくもない。声を発する力もないし、何も……できない。
(ああ、そうか……絶望っていうのは……無気力ってことかも……)
「本当にごめんね。陽菜。でも、これからも友達で……」
そして隣に座っている花蓮が、私の腕に触れられた瞬間、これまで感じたことのないイヤな匂いと、身体の中からぞわぞわと虫がはい回るような嫌悪感と、吐き気がして、急いで腕を振りほどいた。
「酷い……」
花蓮が私を見て泣きそうな顔をしているが、本気で汚いと思った。
彼女に触れられたところから腐敗していくような……
それになんだか鼻が焦げるような強烈な悪臭が段々強くなる気がする。
「陽菜、さすがに今のはないだろう?」
修二に責められるが、とにかくイヤな匂いがするのだ。
(何、このイヤな匂い……)
さっきから花蓮から強烈にイヤな匂いがする。吐き気がする。気分が悪い。
とうとう耐えられなくて私は立ち上がると、荷物を持って部屋を出た。これ以上あの匂いを嗅ぎたくない。
廊下を歩くと、花蓮から漂っていた悪臭がしなくなって、少しだけ気分が良くなった。
(早く、早く、ここを離れなきゃ!!)
幸いまだ『同棲しよう』と約束しただけで、部屋も決まっていないし、まだ何もしていない。
つまり、もう修二に二度と合わなくても何も問題ない。
(ブロック、ブロックしなきゃ!!)
私は大学のサークル棟を出てすぐにあの二人の連絡先をブロックした。
これでもうあの人たちにかかわることはないだろう。
そう思って、歩き出すと後ろから声が聞こえた。
「陽菜、待ってて!!」
振り向くと、修二がこちらに向かって走って来た。
そしてもっと後ろには、花蓮が顔を歪めて「修二!!」と叫んでいる。
(……は? どうして修二が?)
そして、なぜか私を追って来た修二に手首を握られた。
修二に触れられるのは、昨日までは幸福感さえ感じていたのに、急に無数の虫が這い回るような感覚がして『気持ち悪い』と鳥肌が立ち、ほとんど無意識に修二の手を払いのけた。
「……え?」
修二は呆然と自分の手を見ていたが、私はとにかく修二を視界に映すことさえ気持ち悪くてその場から逃げ出した。
「待て、陽菜!! 話を!!」
今さらどんな話をするというのだろうか?
二人の馴れ初めを親切丁寧に語って聞かせるつもりだろうか?
とにかく、この状況で話などないし、とにかく放っておいてほしい。
(何? どうして、私、修二に追われてるの?? 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!!)
修二と花蓮に触れられたところが、とにかく気持ち悪い。
肉を削ぎ落としたくなるほどの不快感を感じて、走っていたら……目の前に大きな壁のような物が見えた。
(……え?)
クラクションの音と、ブレーキの音。
そして襲ってきた強烈な痛み。
――陽菜ぁ~~!!
遠くで修二の声が聞こえた気がした。
薄れていく意識の中で私が考えていたこと……
――ねぇ、修二……どうして一人で……終わらせてくれなかったの?
花蓮があの場にいる必要はない。
だって、これは私と修二の問題。
でも、修二はあの場に花蓮を連れて来た。
私が最後に感じたのは、そんな疑問だった。
◆◇
「え? ここは?」
気が付くと私は西洋建築の中に立っていた。
そして、はっきりと自分の意志で口にする。
「私は……アリシア・ライン」
その瞬間、不思議な感覚に包まれていた。
全く知らない場所なのに、妙によく知っていて、窓から見える風景も、近くの木の花の匂いも初めて嗅ぐはずなのによく知っている。
そんな不思議な感覚。
窓ガラスに映るのは、ダークブラウンの髪。黒にも見える深緑の瞳、長い髪をしっかりと結いあげた自分の姿。
そう、私はこの姿を自分の姿だとはっきりと認識している。
でも、自分が黒岩陽菜だという記憶もある。
(え? 何、これ? 前世の記憶!?)
自分でもこの状況がよくわからないが、おそらく私、アリシア・ライン(18)は、何がきっかけなのか、わからないが前世の記憶を思い出したようだった。
私はずっとアリシアとして生きてきたが、突然石黒陽菜の記憶を取り戻しても、取り乱すこともなく自分でも驚くほど冷静だった。
「あ……鐘が鳴った……」
授業が全て終わり、私は婚約者のジャン・ニールと卒業式の後のパーティーの打ち合わせをする約束だったことを思い出した。
アリシア……私には、とても優しい婚約者がいる。家同士が決めたことだが、私はジャンの家に嫁ぐのを楽しみにしていた。
そして、先ほどの修二とのことを思い出して、鳥肌が立った。
自分で『好き』だと思って選んだ相手でさえ、浮気されて別れることになるのだ。好きだという感情よりも、家同士が決めて一緒にいて好ましいと思える相手に出会ったのだ。
今世の私は恵まれている。
なんとなく、ほっとして私はジャンといつも話をしている裏庭園のベンチに急いだ。
「ジャン!!」
ベンチに座っているジャンの姿を見つけて、手を降りながら名前を呼んだ。
(え?)
するとジャンの隣に、アリシアの友人のミシェルが座っているのが見えた。
(どうして彼女が……)
全身の血液がドクドクと激しく音をたてる。それなのに手足が冷たくなって、身体が上手く動かない。
本能が危険を告げていた。
「アリシア……」
ジャンがベンチから立ち上がると、すぐに眉を下げたミシェルも立ち上がって私を見て声を上げた。
「アリシア……ごめんなさい」
何がごめんなさいなのか……背中に汗が流れる。
まるで石像のように動けなくなった私の前に、ジャンとミシェルが立った。
「すまない、アリシア。婚約破棄をしてほしい……」
転生直後。私は婚約者のジャンに婚約破棄を告げられた。
しかも相手は……
「アリシア、本当に、ごめんね!! 彼を好きになるのを止められなかったの……」
アリシアの親友のミシェル――
(同じだ……前の状況と同じだ……どうしてまた……)
私は前世と同じようにまたしても卒業直前にフラれてしまった。
しかも、同じように友人に奪われるという理由で……
そして、またしても目の前で繰り広げられる茶番劇。
「何を言うんだ、ミシェル。それを言うなら私もだ」
「ジャン!!」
私は一体何を見せられているのだろう。
目の前では、アリシアが親友だと思っていた女と、婚約破棄を言い放った男のラブシーンが再び。
だがこれは絶好のチャンスだ。
私はこの目の前の二人にどうしても聞きたいことがある。
「ねぇ、私、どうしても元婚約者の君に聞きたいことがあるんだけど」
私はジャンを見据えながら尋ねた。
「アリシア、その言葉遣い……」
「アリシア、どうしたの?」
ミシェルが近付いて来るのを片手を上げて制した。
「あなたには聞いてないわ。元婚約者クン。どうしてこの場にこの女を連れて来たの?」
アリシアはこれまで、おとなしい雰囲気の女の子だった。そんな子からこんなことを言われたのだ。ジャンは目を大きく開けて驚いている。
「え?」
呆然としているジャンに、私は一歩近付いて尋ねた。
「これは、アリシアとあなたの問題でしょう? どうしてこの女がこの場に必要だったの?」
「アリシア、この女だなんて……酷い」
ミシェルが目に涙を溜めて庇護欲を掻き立てられるように言うが、正直気持ち悪いだけだ。
私はイラッとしてミシェルを睨みつけた。
「お嬢さんは黙っててって言ったよね? ほら、答えなさいよ。元婚約者クン」
再びジャンを睨みつけるとジャンが背中を丸めて声を上げた。
「それは……」
「それは?」
(ああ、あんなに優しくて素敵だと思っていたのに、いざとなったら、こんなにもおどおどして情けない男だったのか……)
私はこれまで抱いていた彼への思いさえもすでに消したいくらいの過去になっていたが、どうしても知りたかったので引けない。
するとジャンがしどろもどろに答えた。
「アリシアが納得すると思って……」
(ああ、本当に何を言っているの? この男は……)
私は呆れて、ますますイライラしながら尋ねた。
「納得? 他の女とイチャついてる姿を見せるのが? 本来婚約も婚約破棄も二人というより、家同士の問題でしょう? そんな話し合いにどうして部外者を連れて来たのか、ちゃんと正当な理由を聞かせて?」
「イチャ!? そんなつもりは?」
ジャンが声を上げたが、どうやら彼にイチャついている自覚はなかったようだ。
私は答えをもらえそうもないので、質問を変えた。
「じゃあ、どっちが言い出したの? 二人でアリシアに言おうって」
するとお互いが同時にお互いを指差した。
「え? 君が言い出しただろ?」
「そんなジャンが言い出したじゃない!!」
二人はお互いを指差し、お互いのせいにしている。
(ああ、なるほど……私はこの程度の気持ちで、婚約を破棄されたのか……人が別れを選ぶ理由で案外……簡単なんだな……)
感情なんて本当に一時的なものなのだ。
でも感情とはとてつもなく人を動かすエネルギーを秘めている。
私の存在が……二人の感情を盛り上げたことは間違いなさそうだ。
私はなんだか全てがバカらしくなって投げやりになった。
「つまり……深い意図はないんだ。明確に覚えていないくらいだもんね。その場の盛り上がりとか、責任転嫁とか、その程度の理由か……わかった。もういい。じゃあね」
(なるほど、どんなに長い時間をかけて絆を作っても、一時的な強い感情の前では……こんなにあっさり壊れちゃうんだ……脆いんだね……男女の絆って……)
私は二人に背を向けて歩いた。
「待ってくれ!! ちゃんと話を!!」
そしてすぐに、ジャンに手首を握られた。
後ろではミシェルが「ジャン!?」と驚く声を上げていた。
「話?」
私はまたしても修二の時と同じ状況で、ついには笑いが出てしまった。
「ふふふ……」
「アリシア?」
ジャンが驚きながら声を上げた。
私はジャンを見ながら尋ねた。
「ふふふ、今さら、どんな話をしようとしてるの?」
私はジャンの顎の下に人差し指を置いた。
「あ、アリシア!?」
ジャンが赤い顔をして上ずった声を上げた。
「別れることになったけど、君のことは……」
私は大きな声でその続きを遮った。
きっとこの世の中で一番、意味のない言葉だから……
「もう、私は……貴方の顔も見たくない。声も聞きたくない」
そう言って、指を離すと今度こそ彼に背を向けて歩いた。
「待ってくれ、アリシア」
ところが、理解力のない元婚約者クンは再び私の手首を取ろうとしたので、今度こそすごい勢いで払いのけた。
そして私は呆然とする彼らに背を向けて歩いた。
しばらく歩いて私は「ん~~」と伸びをした。
(あ~~アホくさっ!!)
私は二人の男を断ち切って、歩いた。ひたすら――前を向いて……




