Ⅲ-29 傲岸
王都を囲む東の空が、重く湿った雲に覆われていた。
カイツール坂まであと一日の距離。ベルテルブルグ軍の行軍は、泥を跳ね上げる軍馬の蹄の音と共に、執拗なまでに着実だった。
巨大な本陣の天幕。その中では、王都制圧後の未来を描く地図が、蝋燭の火に揺れていた。
総大将クーガー・デュ・ベルテルブルグは、窓外の雨を冷ややかに見つめていた。彼の視線の先にあるのは、ただの地形ではない。かつて奪われたはずの、あるいは自らが手にすべきだと信じて疑わない「光」であった。
「――カイツール。ここが、最大の難所になることは分かりきっている」
クーガーが吐き捨てるように言った。その声には、死地へ向かう兵士たちへの憐憫など微塵もなかった。
「だが裏を返せば、そこさえ抜ければ王都制圧には時間がかからない。ある程度の犠牲は出るだろうが、そんなことは玉座さえ手に入ればさしたる問題ではないのだ」
その言葉を聞きながら、副将グラッチ・バイカルは静かに目を伏せた。
犠牲という言葉の裏にある、数千、数万の命の価値。クーガーにとって、それは目的を達成するための消耗品に過ぎないのだ。
「ルドウィック家は、あちらに付いたようだな」
クーガーの問いに、グラッチは僅かに眉を寄せた。惜しい、というのが正直なところだ。
ルドウィック家の兵力と情報網は、カイツールの防衛に回されれば厄介この上ない。感傷ではなく、純粋に計算が狂う。
「……筆頭の一角であった誇りすら忘れたのでしょう。嘆かわしいことです」
「そう嘆くな。誇りなど、勝者が後から書き換えるものだ」
クーガーは椅子に深く腰掛け、グラッチに向き直った。
「南部からご苦労。バーテルバーグとの共闘は楽しめたか?」
「南部を仕切っていたのはジウ家のウェルロッドです。今回のフェム奪還も、奴の無茶が功を奏した形ですな」
「ほぉ。貴様があの没落貴族を持ち上げるとはな。かつて王都を追われ、泥を啜っていた一族だろう」
グラッチは一歩前に出て、慎重に言葉を選んだ。
「ジウ家は元々武家の名門です。代が下るにつれ能力は劣化していましたが、ウェルロッドは歴代でも指折りの武人。侮れません」
「しかし、元は蛮族だ」
クーガーの冷淡な一言に、グラッチは食い下がった。
「確かに。しかし、だからこその力もあります。高齢ではありますが、早急に抱き込む方が良いかと」
「ふむ。……まぁ、蛮族も使いようか。良かろう、考えておく」
クーガーが僅かに顎を引いたのを見て、グラッチは意を決して、もう一つの懸案を口にした。それは彼なりの、将来的な王国軍の再建を見据えた「人材確保」の提案だった。
「ありがとうございます。つきましては、ピダーセンに関してですが……」
「ならぬ」
クーガーの拒絶は、氷の刃のように鋭く放たれた。
グラッチは言葉を失った。南部戦線で共に戦い、その卓越した大局観を目の当たりにした戦友、ピダーセン・フォン・バーテルバーグ。彼がいれば、王となった後のクーガーを支える大きな力になるはずだった。
だが、クーガーの瞳に宿ったのは、対話の余地を断つ漆黒の憎悪だった。
「バーテルバーグは取り潰す。……良いな」
「…………御意」
グラッチはそれ以上、何も言えなかった。ここで食い下がれば、矛先は自分自身に向く。
クーガーが王になっても、魔王軍との戦いが終わるわけではない。国を維持するには有能な将官が不可欠だという「理」は、今のクーガーの前では無価値だった。彼のバーテルバーグ家に対する憎悪は、合理的な判断を焼き尽くすほどに深い。
「そういえば、モーゼル家の小倅も南部にいたのだろう?」
ふと思い出したように、クーガーが尋ねた。
「はい。フリッツ・モーゼル……逆賊に与しなかった唯一のモーゼルです。若年ながら、兵士からの信頼も篤い」
「ふむ、王国のために主と両親を裏切ったか……。面白いな。王都制圧後に呼び出せ。どうするかはその時決めよう。若い芽を無闇に潰すのは愚だ」
フリッツに関しては、クーガーの気まぐれが前向きに働いた。
かつてシグ家の筆頭家臣であった名門モーゼル家。その血筋を持ちながら、王都の混乱とフェム奪還の死線を潜り抜けた若者の胆力を、クーガーは自身の玩具として興味を持ったようだった。
将来的には大将軍をも狙える器。グラッチは密かに安堵した。少なくとも一人の才能は、この粛清の嵐から救えるかもしれない。
クーガーは窓の外を、王都の方角を睨みつけた。
そこには、彼をベルテルブルグと侮り続けてきた歴史への、苛烈な復讐心が渦巻いている。
「そう心配するな、グラッチ。私はそこまで浅慮ではない」
不意に、クーガーが低く笑った。その笑い声は、静まり返った天幕に不気味に響き渡る。
「取り潰すのはバーテルバーグだけだ。他は事実を知らされていない、哀れな仔羊たちよ。……救ってやるのが、王というものであろう?」
狂気を孕んだ高笑いが、雨音をかき消すように続いた。
彼が自称する「真の王」としての慈悲は、バーテルバーグ家以外のすべてを隷属させるという宣言でもあった。
カイツール坂まで、あと一日。
王国の喉笛に手をかける者の指先は、期待と憎悪に震えていた。
【 次回更新予定 】 3月11日(水) 20:50
毎週 水・金 の週2回更新
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