Ⅲ-26 凶兆
「あの女、なかなか思い切りがいいようだ」
クーガーは天幕の中で葡萄酒を傾けながら言った。元老院がクーガーを逆賊に指定し、全権を新たな審議会へ委譲して解散した——その報が入ったのだ。知らせを運んだのは、元老院議員でもあるベルテルブルグ家の家臣貴族だった。
「如何致しますか、陛下」
マカロフが問う。
「何も変わらん。このまま王都を目指す。玉座を占める不埒者と、それに従う無能共を皆殺しにする」
クーガーは唇の端を吊り上げ、古い羊皮紙を一枚取り出した。
「マカロフ、ベルテルブルグが玉座から離れたのは、いつか知っているか?」
「いえ、存じ上げません」
「約九百年前だ」
そう言って羊皮紙を渡す。マカロフは目を落とした。
「我が先祖、第一三代国王直筆の王命書だ。読んでみよ」
文面には、王位を分家たるバーテルバーグに委ねること、そしてベルテルブルグ家からの要請があれば直ちに王位を返還することが記されていた。国王印も捺されている。
「これで我らベルテルブルグ家が正当なる“真の王家”であることが証明できる。印も古式の一角獣章の型——紛うことなかろう?」
「……印蝋は古式の型に合致します。羊皮は若牛皮、縁の枯れも相応。鉄胆墨の滲みも年代に符合します」
マカロフは印面の周縁を確かめ、静かに頷いた。
「よい。事はここに書いてある」
家伝の記録には、第一三代国王ストーム・エクレール・ロア・デュ・ベルテルブルグが王位をバーテルバーグへ委譲した経緯が添えられている。当時も魔王軍の出現が伝わり、王自ら兵を率いるための一時措置であった、と。
「全く、一時の譲りを九百年近く返さぬとは。あまつさえ我等を分家呼ばわりだ。正当な王が玉座に就けば、魔王軍との戦も勇者なしで終わろうものを」
クーガーは深く溜息を吐いた。文書は真実めく。だが、語りのいくつかは検証を要す——マカロフは、ルドウィック家の不参加がもたらす不安を拭いきれなかった。
元来ルドウィック家は、バイカル家と並ぶベルテルブルグ家の筆頭家臣。だが今回の挙兵に加わらなかった。一方、伯父グラッチは南部前線を離れ、クーガー軍へ合流する。南部に派されていた諸侯もいくつかはグラッチに従い北上中だ。合わせれば十万は軽い。対する王都の実戦動員は三万に届かぬ。制圧は容易——表面上はそう見えた。
「問題はカイツール坂です。切通しは荷馬車が一台擦れ違うのがやっと。攻城車一両の通過に半刻、殿まで含めれば全軍で二日は掛かる見込み」
「他に道は?」
「大回りになります。時間は要しますが、ここが最短です」
「まぁ良い。彼奴等の軍勢などたかが知れておる。どうとでもなろう」
無風の天幕で燭がふっと痩せ、青白い芯が一瞬だけのぞいた。煤は黒い輪を描き、ゆっくりと消えた。
†
「ビュロー卿!」
フリッツがウェルロッドの元へ駆け寄ってきた。
「何事だ、フリッツ」
前線再構築に目処が立ち、補給路も整いはじめたフェムは、活気を取り戻しつつあった。
「ビュロー卿、サボド卿をはじめ諸侯の一部が、無断で王都へ帰還中との報です」
サボド卿ことグラッチ・バイカル。前線は落ち着きつつあるが、魔王軍の再襲はいつでもあり得る。厳命した持ち場を破っての離脱だ。
「ベルテルブルグが動くのだ」
ピダーセンが歩み寄る。
「アーモリー卿……」
「まず落ち着け、フリッツ。離脱した多くは元よりベルテルブルグ家の家臣。こうなると踏んでおった」
「中央で戦が始まると?」
「恐らくな。第一王妃陛下を中心に新政府が動き、呼応してベルテルブルグが北上。離れた連中はそちらに付く腹だ」
「止めなくて良いのでしょうか」
フリッツがピダーセンとウェルロッドを見比べる。
「落ち着けと言っておろう、フリッツ」
「ワシ等には南部戦線の維持という任がある。ここは離れられん」
「ビュロー卿の言う通りだ。追えば兵が磨耗する。中央政府の手腕を信じるほかない。それに——」
ピダーセンはそこで口をつぐんだ。
「奥の手があるようですな、アーモリー卿」
「儂からは何も言えん……」
「ともあれ、王都からの要請に備え、救援部隊の編成を始めます。最速の早馬で半日、遅れれば一日。その間に整えねば」
「うむ。ベルテルブルグ家と通じている可能性のある諸侯を洗いましょう、アーモリー卿」
「そうだな、選出は儂とルインでやるのが良かろう」
「ちょうど猊下から、関係が疑われる諸侯の名簿が届いた」
いいタイミングでルインが顔を出した。
「目立たず昔から繋がっている者もおる。そやつらの名簿は儂が作ろう。フリッツは聖徒騎士団を中核に第二部隊を編成せい」
「了解しました、アーモリー卿」
「ワシはテオバルトと共に、ベルテルブルグの進軍予測を……」
「カイツール坂だ」
ピダーセンがきっぱりと言う。
「この戦はカイツール坂で決まる。ルイン、すぐ周辺へ蛇を忍ばせろ。魔王軍もしばらくは動けん。南部の蛇を回せ」
「了解……。テオバルトは蛇を数名連れて中央へ戻れ、最速で。アーモリー卿、王都への追加派兵は?」
「難しい。儂のアーモリーも東部だ。追加で出しても、ベルテルブルグと同じくカイツールを通る。王都軍に接触する前に会敵してしまう」
「やはり現地兵で対抗するしかないか」
「だからと言って籠城は駄目だ。勝機はカイツールのみ。打って出るべきだ——それを第一王妃に伝えてくれ、テオ」
「了解。最速で発ちます」
テオバルトが去る。見張り台の鳩が、なぜか一羽も鳴かないことに気づいた兵が、空を仰いだ。淡い雲は流れているのに、音だけがどこかへ置いていかれたようだった。
「ルイン、魔王軍へはどれほど間者を潜らせておる?」
「多くはありません。先日の撤退で、いくらか紛れ込ませました」
「ならば再編状況を逐一報告させろ。中央が揺れれば、必ず動く」
現在のフェムにはピダーセン、ウェルロッド、ガルドーネら総司令官級がいる。軍事の頭脳は王都よりフェムに厚い。ゆえに王都がベルテルブルグ戦に専念できるよう、その他の軍事作戦はすべてフェムが担う——そう記した書簡を、テオバルトに託した。
王国内がここまで混乱したことなど、有史以来なかった。
【 次回更新予定 】 2月27日(金) 20:50
毎週 水・金 の週2回更新
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