Ⅰ-8 想念
王宮の夜は静かだった。高窓から差す月の光が、冷たい大理石の床に淡く影を描いている。時折、どこか遠くで鐘が鳴る音が響き、夜が更けつつあることを告げていた。
ツェリスカ・バーテルバーグは、まっすぐ王の執務室へと歩を進めていた。長い廊下を歩む音が、微かに石壁に反響する。その姿は凛としていたが、内心は揺れていた。
胸の内には、一言では言い表せぬ焦りと、母としての苛立ちが入り混じっていた。
目を閉じれば、ヘンリーの寝顔が浮かぶ。柔らかく揺れる金の髪。父の名を呼ぶ小さな声。
あの子が、どれだけ父王の背中を追いかけているかを、ツェリスカは知っていた。だが、その背中は、あまりに遠く、冷たい。
それが、あの子の心をどれほど傷つけているかも、母として見過ごすことはできなかった。
立ち止まり、執務室の重厚な扉の前に立つ。静かに拳を握りしめ、ノックをした。
「誰だ?」
くぐもった低音が中から返る。
「私です」
短く答えると、即座に許可が出た。
「ツェリスカか。入れ」
ゆっくりと扉を押し開ける。中は淡いランプの灯りと、暖炉の火が揺らめいていた。書類が積まれた机の奥で、ガーランドは椅子にもたれ、琥珀色の酒を手にしていた。
いつものことだ。夜になっても政務に追われ、部屋を出ない。そんな彼の姿を、ツェリスカは何度も見ている。
「陛下、お話がございます」
「……お前がこうして来るとは、珍しいな。お前たちは下がれ」
言われて従者たちが静かに退出し、扉が閉じられた。ツェリスカも頷き、後ろの王妃近衛隊に目配せして下がらせる。執務室はふたりきりになった。
「……で、話とは?」
「ガーランド。もっと、ヘンリーとの時間を増やせないのですか?」
沈黙が落ちた。火のぱちぱちと爆ぜる音だけが、しばし支配する。
「……お前も婆やと同じことを言うのか」
ガーランドはグラスを口元に運び、酒を喉に流し込んだ。深く息を吐く。
「年々、ヘンリーと過ごす時間が減っています。このままでは、あの子が……あの子が可哀想です」
「仕方あるまい。私は政務に追われている」
「政務、政務と。貴方はいつもそう……。でも、あの子は貴方の子です。父としての務めは、他の誰にも代われません」
ツェリスカの声音には、抑えきれぬ怒りと哀しみが滲んでいた。
ガーランドは答えない。机の上の書類に視線を落とし、じっと黙っていた。
「……ガーランド」
「……分かっておる……。だが、ヘンリーはお前に似て賢い子だ。理解してくれているだろう」
「理解していても、納得しているとは限りませんよ」
彼女は静かに歩み寄り、机の前に立った。灯火に照らされたツェリスカの顔は、憂いと決意に満ちていた。
「……南部戦線へ行かれると聞きました」
「あぁ。前線の士気が落ちている。慰問は必要だ」
「それなら、いっそ……ヘンリーも連れて行っては?」
その提案に、ガーランドは鋭く顔を上げた。ひと呼吸、間を置く。
「……ならん」
短く、決定的な拒絶。
「私を暗殺しようとしている者がいるのだ。その危険の中へ、王子を連れて行けると思うか」
「ガーランド……。ならば尚のこと、王子は国王の傍にあるべきです。最も安全な場所こそ、国王の護衛の中心。国王近衛隊の盾の内側です」
「違う。今はそこが最も狙われるのだ」
ガーランドの声は低く、鋭かった。
「国王近衛隊がいくら強かろうと、それを踏まえた上で暗殺計画が囁かれているのだ。つまり、奴らはその盾すら破れると考えている」
しばしの沈黙が落ちる。ツェリスカはゆっくりと椅子に腰を下ろし、視線を合わせた。
「……ならば、お聞きしてもよろしいですか? 少々、縁起の悪い仮定ですが」
「……構わん」
「もし、貴方が殺されれば。ヘンリーが王位を継ぎます。しかし彼はまだ九歳。成人までは摂政が必要です。もし、摂政に座る者が首謀者であったら……?」
ガーランドの眉がわずかに動いた。
「アブトマットか、ウィンチェスター……。あるいは、カルカノも……」
「誰であってもおかしくありません」
ツェリスカは静かに、だがはっきりと言い切った。
ツェリスカの言葉は、焔のように静かに、だが容赦なくガーランドの胸に突き刺さる。
沈黙。
酒の残り香が喉に苦く残り、窓の外では風がそっと揺れていた。
ガーランドは言葉なくグラスを置いた。
「……分かった。だが、誰も……本当に誰も、信用できん」
その呟きに、ツェリスカはわずかに眉をひそめた。
だが、何も言わず立ち上がる。
「では、お休みなさいませ、陛下」
扉が閉まったあとも、ガーランドはしばらく微動だにしなかった。
胸に灯るのは、信じたいという希望か、信じられないという絶望か。
――答えは、まだ、出ていない。