Ⅰ-7 孺子
「では初めから。現在、王国には“名家”と呼ばれる貴族が複数存在します。その中でも最も高貴とされる九つの家──すべて答えてごらんなさい」
昼前の柔らかな陽光が、書斎の窓から差し込む。 座学の時間。老婆の厳かな口調が、部屋の静けさに響いた。
対する少年──ヘンリーはというと、椅子に座りながら落ち着きなく足をぶらつかせ、窓の向こうを見つめていた。 遊びたい盛りの九歳児には、この時間は酷というものだろう。
「ええと……バーテルバーグ家、シグ家、フローコード家、ガイルース家、ユマーラ家、ルーインバンク家、ファイノー族、ドカンジ族、ジョルーン族」
「正解です。ではその内、最古三家は?」
「……バーテルバーグ、シグ、フローコード」
「最古三家とは?」
「王国建国のとき、一番頑張った三つの家。『フォン』がつく三家」
「“最も尽力した家々”ですね。まあいいでしょう。あなたはそのうちのひとつ、バーテルバーグ家の長子。そして将来の国王となるのですよ、ヘンリー様」
「わかってるよぉ……」
「では、最古三家それぞれの紋章、標語、与えられた城を答えなさい」
「はぁ……」
深いため息をひとつ。だが、ヘンリーは観念したように答え始めた。
「バーテルバーグ家は、太陽とユニコーンの紋章。標語は『貴き光たれ』。主城は王都スプリングフィールド城で、代々の居城は東方のアーモリー城」
「続けて」
「シグ家、『この剣の折れるまで』。心臓に剣の紋章。居城は南のゾーン城。フローコード家、『我が沈黙を聞け』。フクロウの紋章、居城は……王都内の屋敷」
「よろしい。次に“勲三家”とは?」
「ガイルース、ユマーラ、ルーインバンクの三つ。王国の発展に貢献した家。『ヴァン』を冠する三家」
「その通り。紋章と標語は?」
「ガイルース家、獅子の紋章、『咆哮は猛る』。ユマーラ家、天秤の紋章で、『借りを作らず』」
「有名な言い回しではありますが、標語ではありませんよ」
「ええっと……『忠信、博愛、節度』……?」
「その順番で覚えてください。繰り返して」
「……『忠信、博愛、節度』」
面倒そうにぶつぶつと繰り返しながらも、ヘンリーはしっかりと覚えていた。婆やが小さく頷く。
「ユマーラの現当主、ラハティ氏は現大蔵大臣です。審議会の一員でもあります。そうした家系は、一切の誤りなく把握せねばなりません」
「はいはい……」
「ルーインバンク家は?」
「杖に巻き付く二匹の蛇……標語は……なんだっけ……」
「はぁ……『全てを御手に捧ぐ』、です」
「神様に任せるって意味?」
「半分正解。人として出来る限り努力を尽くし、その上で結果を神に委ねる、という意味です。努力なくして祈っても意味がありません」
「ふぁ〜……全てを御手に捧ぐ、かぁ……」
ぼんやりと繰り返したその瞬間、やわらかな声が響いた。
「捗っているようね」
ヘンリーの顔がぱっと輝く。振り向けば、母である第一王妃──ツェリスカ・バーテルバーグが、近衛数名を伴って立っていた。
「母上っ!」
ヘンリーは椅子から飛び降りると、一直線に駆け寄ってその手にしがみついた。
「あらあら、お勉強の途中でしょう?」
「王妃様が来たんだから、勉強は後回しでいいよ!」
その言葉に、婆やはまたも小さなため息を吐き、静かに教材を閉じて片づけ始めた。
「そのようなことで立派な王になれると思って?」
「……」
「困らせてはいけませんよ、ヘンリー」
「ちゃんと勉強したもん!それより象棋しようよ、すっごく強くなったんだ!」
「まあ、象棋ばかりじゃないでしょうね?」
「勉強もしてるってば!」
「……婆や」
「はい、昼餉の支度をいたします。王妃様もご一緒に?」
「ええ、頂くわ」
「やったー!母上、テラス行こう!」
ヘンリーは嬉々としてツェリスカの手を引いて庭へ向かう。 彩り豊かな花々が咲き誇る庭園。風が心地よく、東屋のテーブルには既に象棋の盤が用意されていた。
──そんな二人を見つめながら、書斎の入口で婆やに声をかける者がいた。
「象棋か。人気だな」
「ええ、勉強もそっちのけで」
振り向けば、そこには国王ガーランドの姿があった。
「ツェリスカに先を越されたか……」
「陛下もご一緒になってはいかがですか?」
その言葉に対して、婆やの声音には鋭い刺が含まれていた。
「このままでは間に合いません。陛下」
「わかっている……。だが、象棋は兵法の訓練にもなる。悪くないことだ」
「戦とは遊びではございません。その一つの駒に、幾千、幾万の命が乗っております」
「……わかっておる」
「ヘンリー様はまだ理解しておりません」
しばし無言のまま、ガーランドは庭の方へ視線を移す。 盤を挟んで楽しげに笑い合う母子の姿に、ほんの少し、表情が緩む。
「……陛下、そろそろ王子様とも向き合ってあげてくださいませ」
「……いずれな。今は……時間がない」
そう残し、ガーランドは静かに立ち去っていった。 その背を見送りながら、婆やはひとりごとのように呟く。
「……陛下が言葉にすれば、それはこの国の運命となるというのに。未だ、己の立ち位置すら……」
その言葉は、誰に届くこともなく、静かに空気へと溶けていった。