Ⅲ-9 女傑
共和国から戻ったニニオは、三日ほど床についた。長旅と緊張の反動――命に関わるものではなく、静養で足りた。
一月も経たぬうちに、共和国からの支援が雪崩れ込む。頼んだのは街道拡張のみ――のはずが、穀物、武具、工兵器材、果ては三個大隊の派兵まで。破格というほかない。
荷駄の先頭には鋼の橋脚材と締固め用の木桁、測量杭が積まれ、工兵が図面に赤墨で狼煙塔の増設位置を引き直していく。穀物は大麦と乾豆、油脂は獣脂と菜種油の樽。武具は槍頭・矢束の替えから大弩の部品に至るまで規格が揃っていた。――情けでなく、最初から「通る補給線」と「持続する前線」を作りに来ている、と誰もが悟る。
「ニニオ様!剛皇帝とどのような契約を交わされたのですか!?」
ウィンチェスターが審議会室へ駆け込んだ。
「契約?取り付けたのは拡張工事の請負だけですが」
「工事人夫どころか食糧まで……支払いが――」
丞相が頭を抱えた、そのとき。
「共和国の使者が参りました」
「使者?」
「共和国軍の将。ニニオ様に拝謁をと」
「私に……?」
「お通しなさい」
カルカノが許す。扉から、薄片鎧を纏った大男が現れた。鉄の甲片を革紐と甲釘で綴る、あの国特有の武装だ。顔は厳ついが、眼差しは澄んでいる。
「お初にお目にかかる。共和国東軍指揮官、林冲。剛皇帝の命により、対魔王軍の援軍として馳せ参じた。よろしくお頼み申す」
右拳を左掌で包む抱拳礼が、胸前で静かに結ばれる。
「援軍……そのような要請を?」
ウィンチェスターがニニオを見る。
「私は申していません」
「剛皇帝の独断に候。反乱分子を国内に抱えたままでは、貴国の防衛も難しかろうと。存分にお使いくだされ」
ニニオが喉の奥で楽しげに笑った。
「陛下は愉快なお方ですね。――それで、その余剰の対価、何を差し出せばよろしいのかしら?」
丞相の顔色が跳ねる。蔡嘴が無償で済ませるはずもない。
「恐れながら。我が主の望みは――ニニオ第一王妃陛下を」
空気が凍った。
ただ一人、ニニオだけがからからと笑っている。冷静に考えれば、人質の申し出に等しい。拡張工事の支払いが滞った途端に、首が飛ぶ類いの。
「私、もういい歳ですわよ?しかも自由の利かぬ身体。こんなおばさんより、もっと若い娘をお選びになっては?」
「何を仰る。主は知恵者としての陛下に惹かれておいでです。御身については共和国の医術を結集し、必ず長らえさせると豪語しておられる。差し出がましいですが――王国内での御立場も微妙。悪い話とは思えませぬが?」
言ってくれる。だが確かに、国賊の身内であり、今もっとも権力の近くにいる女――居心地がいいはずもない。人質として友邦に置いたほうが、国内はまとまるかもしれない。蔡嘴は、交渉が上手い。
「さて。冗談はここまでにしましょう、林冲殿」
ひとしきり笑ったあと、ニニオは一転、凛として将を見据えた。気配が変わる。林冲は思わず背を正した。
「陛下の御申し出、感謝いたします。けれど王国はいま非常時。国王は不在、大后陛下は床に伏し、要として組んだ元老院も機能不全。この状況で、前王の妻たる私が共和国へ逃れば、内はさらに乱れましょう。第一王妃として、それは許せません。――年老い、言うことの利かぬ我が身、陛下が欲されるなら国のためにいくらでも差し出しましょう。ですが、それは今ではない。どうかお汲み取りください」
林冲は気づけば平伏していた。自らの主の他に、地に額をすりつけたことはない。だがここに、命を賭して国家を背負う者の威がある。
北辺で三たび冬を越した彼は知っていた。――“背負う者”の声は無理に高くないのに、胸の奥に届く。この女は、人を走らせる。将として、それが最も貴い資質だ。
「お立ちください、林冲殿。怒ってはおりませんよ」
ニニオがまたクスクスと笑う。先ほどの厳気は、もうどこにもない。
王たる器――その言葉が林冲の胸をよぎった。
「かしこまりました。陛下のお気持ち、しかと主に伝えます」
「共和国へ行くのを嫌がっているわけではありません。王国が落ち着いた暁には、必ず陛下の元へ参ります。今はこの約しかできませんが――」
「十分にございます。ニニオ陛下を早くお迎えできるよう、我らも全力で支えましょう!」
林冲が去ると、ウィンチェスターは椅子に沈み込んだ。
「……肝が冷えました」
「まあ。大丈夫ですか、丞相殿」
「正直、私もです……」
カルカノでさえ溜息をつく。
「あらあら」
ニニオはおかしそうに笑った。
その日のうちに、共和国工兵の第一陣が狼煙塔の基礎を打ち始め、城下では子どもたちが遠巻きに見守った。夕鐘が三つ鳴る。――女と侮るな。
この胆力、兄アブトマットに勝る。丞相と猊下は、確信をひとつ、重ねた。




