Ⅲ-5 曲折
「貴方、兵士として戦うつもり?」
城内で作業中、不意に声が落ちた。
女の声だ。だが姿は見えない。
「……我々の諜報網は既に機能していない。私一人ではお前達に対抗できん」
この女は――蛇。影には直感で分かった。
「ふ~ん、対抗する気はあるんだ」
「少なくとも、私の主はあの人だ」
「少なくとも、ね。……今夜、時間があるなら食事でもどうかしら?」
「はぁ?」
影は手を止める。
「殺す気なんてないわ。現状、貴方がいてもいなくても、あの人は終わるから」
そこまで言い切られると、むしろ清々しい。
アブトマットは終わる――それは影にも分かっている。だが、主従の義がある。
「じゃ、宵の口に……」
女は場所だけ告げ、気配を消した。
「引き抜き、か……」
分かりやすく、そして大胆。影が死に体であることも、城内に易々と入れることも承知の上――末期だ。
影は作業をやめ、アブトマットの部屋の前で足を止めた。
「閣下、よろしいでしょうか」
「構わん、入れ」
返答はすぐだった。影は一礼して入る。
「……勝ち筋が見えん」
アブトマットは憔悴していた。
ゾーン到着の昂ぶりは消え、冷静さが戻ったのだろう。逆賊に指定され、討伐は時の問題。籠城しても援軍は望めず、備えも足りない。
希望的観測で模擬戦を繰り返しても、結論は敗北。王国随一の軍才ゆえに見えてしまう。
「閣下、蛇から私に接触がありました」
「蛇?」
アブトマットが顔を上げる。瞳は濁っていた。
「恐らく引き抜きです。城内への侵入も難なく」
「影はすでに死に体だ。城下にも多数潜んでいよう。――情報はダダ漏れか」
重い沈黙。
「行け」
そのひと言は低く響いた。
「え……?」
「蛇に行けと言っている」
「閣下……」
「貴様がいても、負けは揺るがん。ここで死なせるには惜しい。蛇もそう見ている。残った影も連れて行け」
到着当初の彼とは別人のようだ、それほど事態は深い。
「父が作った部隊を腐らせ、私的運用を重ねたのは私だ。貴様も父には恩義があったろうが、私にはあるまい。気にせず行け」
胸を抉られる。見透かされている。影はただ深く頭を下げた。
「影。――いや、デリンジャー・ハイスタンダード。今までよく仕えてくれた。名を返し、その任を解く」
自分ですら忘れていた真名。
その響きに、遅れて悔恨がこみ上げる。なぜ、ここまで暴走を止められなかったのか。だが、もう遅い。デリンジャーは退室した。
†
「来た来た!」
指定の店先。小柄な女が手を振る。隣には無表情の男。
この二人が蛇か。デリンジャーは気を引き締める。
「とりあえずお腹空いたし、中へ!」
女は無邪気だが、男の視線は刃のように鋭く、出入口と裏口を交互に測っていた。三人は卓につく。
ほどなく店員が陶のジョッキを三つ載せた木盆を運んでくる。黄金色のエールが縁で細かく泡立っている。
女は無言で、デリンジャーの前のジョッキと自分のジョッキを入れ替え、入れ替えた方を先にひと口含んだ――毒見だ。泡が上唇に白い筋を作る。ひと呼吸置いてから、そのジョッキを彼の前へと戻す。
「さて、呼んだ理由は分かるね?」
料理と追加の酒を頼むとすぐ、女は本題に入る。
「……引き抜きか?」
「まぁ、そんなところ。我々は才能のある人間を常に求めている」
「シグ家家臣団の離反が増えているのは、お前達の手並みだな」
「ご明察。不毛な戦いは避けたいから」
「不毛、か……」
勝てないことは、もう分かっている。
「……もう辞めてきたんでしょ?」
デリンジャーがジョッキに口をつけると、女は目だけで笑った。
「何もかもお見通しか」
「勝てるとは思っていなかったはず。それに、閣下の暴走を止めようとしていたのも知ってる」
「だが、止められなかった」
「相手は権力の権化みたいな人だもの。止められるはずがない。――よく頑張ったと思うわ」
エールが、やけに苦い。
「閣下は今、我に返って頭を抱えている。だが、もうどうにもならんところまで来た」
「逆賊に指定された以上、命はないわ」
刃を当ててくる物言い――癇に障るが、事実だ。
「前置きはもういい」
無表情の男が口を開く。
「蛇に入るか否か。それだけを聞きたい」
「……」
本音を言えば、もう何もしたくない。男はそれを見抜いたらしい。
「すぐに蛇として動けとは言わん。第一、元は敵だ。容易に信用はしない」
「当たり前だ」
「蛇に入るかは後で決めろ。まずはアブトマットから離れ、こちらの陣営へ来い。兵士の身分はすぐ用意できる」
「兵士?」
「当面は聖徒騎士団で働いてもらうつもり」
「前線が突破されたと聞く」
「ああ。シグ家の担当区画が抜かれた。つまり、そういうことだ」
「今は少しでも人手が要るの」
デリンジャーは短く考え、頷いた。
「分かった。お前達に降ろう。ただ――」
「分かってる。貴方から情報を抜くつもりはないし、過去も詮索しない。猊下直属の部隊には、その暗黙の掟がある」
女はジョッキを差し出す。
「私はアナ。こっちはクスシね」
「……アナコンダとクスシヘビか……」
「これからよろしく、デリンジャー。長い付き合いになると思うから」
女はにっこり、男は無表情のまま。
対照的な二人に、デリンジャーはわずかに笑い、ジョッキを合わせた。乾いた音が、小さく鳴った。




