Ⅲ-4 多難
「これは……」
ウェルロッドは最前線に着くなり、思わず息をのんだ。
倉には空の矢筒が転がり、塩樽は割れて白い粉を床にこぼしている。槍の穂は欠け、包帯は細切れ。何もかもが足りない――物も、人も。
原因はひとえにゾーン城にあった。南部戦線の計画では、前線司令であったフェムが抜かれた際、その機能はザウエル城へ移し、かわってザウエルが担っていた補給拠点の役割をゾーン城に移す手筈だった。だが、そのゾーン城はアブトマット率いる反政府組織に占拠され、拠点たり得ていない。結果、前線への兵站線は、いまや完全に麻痺している。
「補給が途絶えた前線は、血の通わなくなった肉体が腐れ落ちる様に、前線は機能不全に陥り、崩壊する……」
いつぞやアブトマットが吐いた言葉を、フリッツはありありと思い出す。いま、そのとおりの光景が目の前にある。
「補給はどうなっておる!」
詰所に入るなり、ウェルロッドが怒声を飛ばす。
「ビュロー卿!」
中の者たちが一斉に敬礼した。
「敬礼は要らぬ。現状を詳しく!」
「はっ!」
前線指揮を預かるのは平民上がりの騎士だという。貴族出の上官はことごとく戦死したらしい。
戦える兵は減り、矢も槍も底を突きかけ、糧食も尽きる。兵たちの疲労はすでに限界を越えていた。
「とりあえず、我々が運んできた食糧を配ります」
フリッツの申し出にウェルロッドはうなずく。フリッツは詰所を颯爽と出て、荷駄へ向かう。
「……彼は……?」
「モーゼル家のフリッツ殿だ」
「モーゼル!?」
兵たちの目に、憎しみに近い怒りが灯る。
「落ち着け。彼はモーゼル家でただ一人、元老院側に付いた。たった五〇の手勢だけを率い、主であるアブトマットと袂を分かった。王国を思ってのことだ」
「しかし――モーゼル家を筆頭に、シグ家の家臣団の多くは前線の義務を放棄し、ゾーンを占拠しています! そのせいで補給が……」
「それ故に、私だけでもその義務を果たす為にここへ来ました」
声の方を振り向くと、フリッツが麻袋を肩に担ぎ、凛と立っていた。
「この様な事態を招いたのは紛れもなく逆賊アブトマットであり、その暴走を止め得なかった我等家臣団にも責がある。だからこそ、私はこの前線に志願した。我等の本当の義務を果たす為に」
言いながら、彼は現場指揮官たち一人ひとりに糧食を手渡していく。
「とはいえフリッツにとっては初陣だ。ワシの下で働いてもらう」
「至らぬところは多々ございましょうが、よろしくお願いします」
配り終えたフリッツは深々と頭を下げた。
通常ならあり得ぬ光景だ。最古三家の家臣団の筆頭たるモーゼル家の人間が、平民上がりの下級騎士に頭を下げている。反感の視線は次第に収まり、受け取った糧食に皆の目が落ちた。
「フリッツ殿、頭をお上げ下さい。これより我等はビュロー卿、並びにフリッツ殿の指揮下に入ります! 援軍、心より感謝致します」
兵たちは二人に敬礼する。ウェルロッドは口の端を上げて笑った。
「よし、まずは腹拵えだ!」
「はっ!」
†
打ち合わせを終え、詰所を出たフリッツは、戦場には不釣り合いな小柄な影に目を留めた。
十歳ほどか。大人用のブカブカな硬革鎧に埋もれている。
「君は……?」
見上げた子の瞳は、光を失っていた。
「あー、その子はヘン――」
背から来たウェルロッドが一瞬だけ言葉に詰まる。
「ヘンドリックと言ってな。先の王都大暴動に巻き込まれ、両親を失った孤児だ」
「ビュロー卿が保護なさったのですね」
「保護したのは猊下だ。だが教会の孤児院にも限界がある。で、今は私のもとで育てておる。元の家筋も良いらしく、賢い子だ」
「しかし、戦場に連れてくるのは……」
「この子はな、喋れなくなってしまっておるのだ」
「喋れ……」
フリッツは目を見開き、少年を見つめ直した。
「そうか……辛い経験をしたのだな……」
「城に一人で残しておくより、連れてきた方が安心するのだ」
「……アブトマットの暴走を止められず、本当に申し訳なかった……」
フリッツがそっと頭を撫でても、少年の表情は動かない。
「心を固く閉ざしておってな……。されど、命ある限り生きねばならん。ジウ家の養子にでも――と考えておるところだ」
「ヘンドリック、私はフリッツと申す。よろしくお頼み申す」
フリッツがにっこり笑い、右手を差し出す。少年は彼の顔と手を見比べ、ゆっくりと握手を返した。
†
ウェルロッドたちの増援は決して多くはない。それでも瀕死の前線はどうにか持ち直した。
ザウエル城が前線司令部と補給拠点の双方を担う体制が回り始め、不十分ながらも物資が届くようになったのだ。前線は、ようやく維持の線に踏み止まる。
「裏を返せば、押し返す力は無いということだな……」
ウェルロッドが小さく溜息をつく。
「更に言えば、何処かを強襲されて抜かれた場合、また前線が下がる可能性が高い」
地図を覗き込んだまま、ルインが言った。
「全くだ。こちらには前線を押し上げるだけの打撃力がない。対して、魔王軍にはまだ余力があると見てよい」
「そうなのですか?」
フリッツが問うと、ウェルロッドは頷く。
「攻め方が緩い。もし本当に前線を上げたいのならな」
「卿と同意見です。近々、攻勢に出てくる筈……」
「つまり、その攻勢のため、今は前線での消耗を抑えている……」
「人間相手なら、強襲の目論見は露見せぬよう装うのが常だが」
「何か、嫌な予感が……」
「ワシもだ」
二人は顔を見合わせた。
「まずはザウエルに情報を上げろ。左右の拠点指揮官にも優先して共有――とはいえ、皆、気付いておろうがな」
「恐らくは。ザウエルへの報告は早馬で。矢や槍の補給も上進しろ」
「はっ!」
伝令が駆け出してゆく。
「私の方でも、情報を集めてみます」
ルインが言う。
「うむ。魔王軍の内情は欲しいところだ。その辺りはルイン殿に一任する」
「時間は掛かるやもしれませんが、無いよりは良いでしょう」
その口ぶりから、蛇が動いているとウェルロッドは悟った。
ジウ家はもとより政の中枢にもいた最上級の家柄である。蛇の存在は知っている。カルカノが解体したという噂には驚いたが、いまはアブトマットを欺くための仮面であったと理解した。
「――中央は、やはり恐ろしい……」
ウェルロッドがぽつりと呟く。
「はい?」
ルインが首を傾げると、ウェルロッドはガハハと笑った。
「全く、中央政治に縁のない辺境へ飛ばされて良かったと、つくづく思うだけだ」
「はぁ……?」
欺きや偽装――そうした謀略はウェルロッドの趣味ではない。
辺境で、領民がのんびりと平和に暮らす光景を眺めているのが、一番性に合う――彼はあらためてそう思った。




