Ⅲ-1 不安
ヴィルを拉致したまま王都を脱出したアブトマットと配下は、大街道を避け、森の小道を各隊に分かれて南下していた。
『王都大暴動』から三日。逆賊指定を受けたと知ったのは昨日で、暴動鎮圧と同じ便にその布告が載っていた。王都へ戻って弁明する機会は潰え、逃走以外の選択肢はない。
「何故、こうなった……」
三日三晩の強行軍で、足は痺れ、体は鉛のように重い。
「閣下、これから如何いたしますか」
眠るヴィルを背負った影が問う。
「ゾーンで挙兵する。ヴィルは我らの手中だ。王都が臨時政府を立てようが、正式な政府は我々だ」
「承知。家臣団へ招集を掛けます」
影は頷いたが、胸の底に不安が残った。
臨時政府は「国王拉致」と断じ、世論はそれに乗る。国王不在の下では民意が優先され、扇動に長けるカルカノが政権に復帰している。家臣といえど、こちらの召集に素直に応じるかは心許ない。いっそ王都へ戻って弁明すべきか。そんな弱気が疲労と共に頭をもたげる。
前衛が戻り、短く報告した。
「道標が逆向きに差し替えられていました。臨時政府の手の者が通ったようです」
杭の土はまだ湿っている。打ち替えは今朝だ。蹄鉄の痕は稜線へ抜けており、谷へは降りていない。
さらに、谷の細橋で板が一枚外されているのを見つけた。外した板は北側に積まれている。谷口を塞ぐ向きではない。遅延と観測用の仕事だ。
影は結論づけた。
「前を取ったのは遮断班。押さえているのは道であって城ではない」
しばらくして、木々の隙間からゾーン城の尖塔が覗いた。城下に官旗は見えず、臨時の検問もない。
「もうすぐだ!もうすぐだぞ!」
アブトマットが前を急ぐ。
影はなお慎重だった。ゾーン城主はアブトマットの実弟、セルゲイ・フォン・シグ。実の兄弟でも、逆賊を受け入れるか。受け入れても無条件に信用してよいか。寝首を掻かれない保証はない。
「閣下……」
「セルゲイは常に私の味方だ」
アブトマットは歩を速める。影の不安は消えない。
†
「兄者!」
城門前でセルゲイが駆け寄るが、抱擁の手前で一歩止まり、掌で制した。
「家印を」
アブトマットは右手の指輪を外し、刻まれた『心臓に剣』を光にかざす。セルゲイが衛兵長に頷く。
衛兵長が印台と蜜蝋を差し出した。押印。蝋の匂いが立ちのぼる。
セルゲイは自分の指輪を重ね、柄の刻線と血槽の粒打ち、刃先の向きを照合する。
「一致だ」
槍の穂先が下がり、そこでやっと笑みが戻る。
門内の掲示板には二枚の公文が張られていた。
一枚は臨時政府の通達。右上の角だけが斜めに刃で落とされている。蛇の癖だ、と影は心中で言った。
もう一枚は王都からの召喚令第一号、発行は大暴動の翌日付。
§ 王国元老院布告 第二号
王国は、元老院の議決の下に、下記の通り布告する。
一、セルゲイに対し、王都スプリングフィールドの元老院へ出頭を命ず。
一、七日を限りに出頭すべし。
一、出頭を拒み、または期日までに応じざるときは、兄アブトマットと同旨に逆賊と断じ、当人に付与された官名・称号・領地を剥奪し、領兵の動員・徴発・徴税を禁ず。
元老院 【院璽】
§
脇に控えの書記が控札を示す。『病を得て動けず。猶予願い、返書送致済み』とセルゲイの花押が入っていた。
「挙兵なさるのですね、兄者」
アブトマットが答えるより早く、セルゲイが言う。
「ご安心を。既に全家臣へ招集を掛けています。ただ、編成には少々時間を要します」
「分かっている。どれほど集まる」
「少なくとも十万。民兵を徴すれば三十万まで見込めます」
書記が差し出した徴発簿には白欄が目立つ。影は無意識に三頁を数え、黙って戻した。声は熱いが、数字は冷たい。
影は掲示の召喚令に目を戻す。これは一回目だ。二度三度と重なれば、臨時政府はセルゲイも逆賊に編入するだろう。
「もっと増やせ。勝てずとも、この王国を切り取るくらいは出来る」
「まずはお休みを、兄者。話はそれからでも遅くはありません。召喚令の返書は済ませました。城を離れぬ理由は、体調と治安の二本立てで通します」
セルゲイは疲れ切った兄に肩を貸し、城内へ導いた。
街の空気は温かい。ゾーンの人々はアブトマットを歓迎し、臨時政府と戦う気でいるようだ。本当に勝てるのか。こちらは国賊であるのに。
「まるで、マンリヒャーの再現だな……」
影は二人と別れ、兵舎へ向かった。
兵舎の前で鎖帷子の擦れる音と油の匂いがした。夜営の支度は始まっている。
臨時政府の初動の速さと正確さを見るに、蛇は生きている。地下へ潜った蛇に、今の影たちでは手が出せない。
影の原型を作ったのは、シグ家前当主のモンドラゴン・フォン・シグ。豪龍公と呼ばれた猛将にして、情報戦にも長けた智将だった。影はそのモンドラゴンに拾われた。ゆえに彼への忠義は厚いが、その子アブトマットに対しては同じ重さを持てない。潮時かもしれない。そう思いながら、影は短い眠りに落ちた。
†
「そろそろ脱落者が出る頃だね」
アナはゾーンの街を歩きつつ、隣のクスシに言った。
「セルゲイは数十万が集まると言ったが、多く見積もっても五万だ」
「えー、そんなに集まる?」
「多く見積もって、と言った」
「今のうちに臨時政府へ寝返らせるのがいいかもね」
「寝返り先は、必ずしも臨時政府とは限らん」
「……ベルテルバルク家か」
「『真の王家』という言葉を何度も聞いた。もし真なら」
「……臨時政府のトップを狙う」
「根拠は知らんが、その旗で団結が強まっているのは確かだ」
「根拠はあるんでしょう。でも、それだけで玉座を取ろうなんて、私たちは許さない」
「カルカノ様が玉座を望まないのは確かだ」
「あの御方は望まない。だからこそ、あれほどの御仁なんだよ」
「……いつも思うが、お前の言い方は抽象的すぎる」
「でも、言いたいことは分かるでしょ?」
「だから余計に腹が立つ」
「なにそれ」
アナは笑いながら屋台の商人へ話しかけた。
「おじさん、新鮮な肉はある?」
「山羊ばっかりだよ。ここ最近多くてねぇ。鹿が減ってるよ」
「山羊かぁ、大変だね」
「安くしとくよ?」
「また今度ね」
アナは屋台から離れた。外聞に聞こえるのは、ただの世間話だ。しかし、暗号表では『越境者増加』と『穏健派逃走済み』を意味する合言葉だ。
アナとクスシがゾーンにいる理由は一つ。アナの言う「脱落者」の回収である。
その名簿には、影の名もあった




