Ⅰ-6 宵影
時刻は既に真夜中を回っていた。
本来であれば、昼間に訪れるはずだった場所。それが、視察準備のために前倒しされた政務の山に埋もれ、結果的にこの時間となった。
――すべては、自らが蒔いた種。文句を言う資格などない。
ガーランドは重い扉を開いた。
柔らかな暖炉の光が部屋を照らし、煉瓦の壁に明かりが揺れる。香ばしい木の香りと、繕いかけの布の匂いが鼻をくすぐった。
暖炉の前で、小柄な老女が静かに手を動かしていた。
白銀の髪を後ろで結い、煤けた修道服の袖をまくり、裁縫に集中している。ガーランドの気配を感じると、彼女はゆっくりと顔を上げ、優しい笑みを浮かべた。
「……旦那様」
「まだ起きていたのか、婆や」
「旦那様が、そろそろ顔を見せる頃だと思いましてね」
ガーランドは思わず笑った。その笑みには、戦場にも政治の渦にもない温かさがあった。
「ハハ、まったく。婆やには敵わんよ」
「当然でしょう。旦那様のオシメを替えて差し上げていた頃から、ずっと見ておりましたもの」
そう言いながら、老女は膝に置いていた針仕事を丁寧に畳み、椅子の背にもたれた。
彼女はガーランドの父――先代国王レミントンの代から仕える忠臣であり、ガーランドの乳母。そして今は、彼の息子・ヘンリーの養育を担う家庭教師でもある。
「ヘンリーは?」
「すやすやとお休みです。起こさぬように、どうぞ」
ガーランドは頷き、部屋の奥へと足を運ぶ。
扉を静かに開けると、淡い明かりの中に、天蓋付きの寝台で小さく丸くなって眠るヘンリーの姿があった。
ふっくらとした頬に寝息が乗り、枕元に置かれたぬいぐるみを抱きしめるその姿は、まるで世界の争いなど存在しないかのようだった。
――この子の未来のために、自分は今を守らねばならぬ。
ガーランドはゆっくりと扉を閉め、振り返って老女に語りかけた。
「……すまない。忙しさにかまけて、なかなか顔を見せられずにいた」
「それでも、こうしてお立ち寄りくださるだけで、十分でございますよ」
老女はガーランドに勧められるまま、暖炉の前のソファに腰を下ろした。
「実は、南部戦線の視察に行く事にした」
「……また、急なことで」
「今日、決めた。留守の間、お前に頼みたい事がある」
「……例の、暗殺の噂でございますか」
「そうだ。宮中に広まっているとは聞いているだろう?」
「はい、噂程度ではありますが……決して無視できるものではございませんね」
老女は手を膝に重ね、背筋を正す。
「それで、私にお調べになれと?」
「カルカノやアブトマットには頼らず、独自に調べたい。誰が首謀者か、見当もつかんのだ」
「……となれば、旦那様、私の“他愛ない井戸端会議”の出番というわけですね?」
老女は小さく微笑む。その笑みに込められた意味を、ガーランドはよく知っていた。
王宮に仕える女官たち、城下町の娘たち、さらには貴族の家に仕える侍女たち。彼女の諜報網は、表沙汰にならぬ“ささやき”の類においては王国最強と評された。
実際には、ガーランドの父王が見出し、カルカノの目が届く前に国王家直属の乳母として取り込まれた――裏の顔を持つ存在である。
「南部に向かっている間に、宮中で何かが動く可能性が高い。誰が、どのように動くのか……それを掴んでほしい」
「……お任せくださいませ。手を汚す必要があるなら、それも致しましょう」
「無理はするな。生きて帰ってこなければ、ヘンリーに顔向けできん」
老女は小さく頷くと、そっと懐から一冊の手帳を取り出した。
「既に、いくつか気になる動きは見えております。報告は追って――旦那様の元へ鳩を飛ばします」
「……すまんな。頼りにしている」
しばし、暖炉の炎が弾ける音だけが室内を満たした。
「最近、ヘンリー様が少しお寂しそうでございますよ。旦那様が王宮に戻られる日を、指折り数えておられました」
「……分かっている。だが、私はまだ父親失格だ」
「そうお思いですか? 私は違うと思いますよ。ヘンリー様が、あれほど穏やかに眠れているのは――父である貴方様が、命を賭して国を守っておられるからでしょう」
ガーランドは、しばらく黙っていた。
そして、言葉にならぬ感情を胸の内で静かに噛み締めると、小さく笑った。
「……ありがとう、婆や。お前の言葉に救われる」
「いえ、私はただの乳母です。けれど、旦那様の背中を一番近くで見てきた者として、言わせていただきます――どうか、無理だけはなさらぬように」
「ああ。生きて帰る。それだけは、約束しよう」
二人は、静かに火を見つめたまま、夜が更けるのを感じていた。
その宵の影に、確かに誰かの覚悟が宿っていた。