Ⅱ-37 奪還
黒い人波が砕けた後の王城正面は、死と沈黙だけが残っていた。
槍に貫かれたまま折れ曲がる死体、踏み潰された顔、石畳に貼りついた血肉。まだ温かい死が、夜気に冷やされていく。
遠巻きに見ていた市民たちは息を潜め、窓の隙間からその光景を盗み見た。
鐘は鳴らず、祈りの歌も途絶えたまま。彼らの目に映ったのは「正義を叫び出陣した群衆」が、わずか一刻足らずで蹂躙され、沈黙していく姿だった。
「……聖徒騎士団に殺されてる……」
「だが、あれは反逆者だ。ヴィル陛下を攻撃したんだぞ……」
「兵器まで持ち込んで、これじゃ戦じゃない……」
呟きは震えに変わり、震えはやがて口を閉ざす。市民は誰一人、声を上げなかった。
南部戦線から遠く離れた王都でこのようなことが起きるとは誰も思っていなかった。
女は戸口に膝をつき、幼子を抱き寄せて震えた。老人は祈祷書を握り潰し、血のような涙を落とした。男は石畳に跪き、ただ息を呑んだ。
人々の心は、この夜を「王都の戦火」と刻んだ。
聖徒騎士団は整然と列を組み直し、無言のまま戦場を掃き清める。矢を回収し、火の残滓を踏み消し、動く者がいれば槍で突き殺す。それは既に作業に近かった。
その中をカルカノが歩く。
月明かりが僧衣の肩を照らし、白髪を鈍く光らせる。足元には、彼に救いを求めるように見上げている死者の瞳。開ききった瞳孔が映すのは虚しく瞬く星々だけだ。
「……このようなことが、二度とあってはなりません」
彼は立ち止まり、亡くなった者たちの瞼を閉じてゆく。
祈りの言葉を紡ぎながら、優しく、まだ温もりの残る顔に触れる。
彼らは戦闘を望んだ訳ではないはずだ。アブトマットの治世に声を上げただけにすぎない。カルカノと同じく、王国を想ってこその行動だったはずだ。
それを利用され、情熱を作為的に捻じ曲げられ、最終的に王国の敵に仕立て上げられた。
一つの死体に目が留まる。
銀色の首飾りを血が出る程に強く握りしめている。博愛神ミスラの首飾りだ。
それを握る彼の手に自らの手を重ね、カルカノは目を閉じた。
正教徒である。常に首飾りを身に付けている程に敬虔な。
カルカノはその場から動けなくなってしまった。
その背でルインが片膝をつき、低く言葉を添える。
「猊下、城内の掃討は完了しました。しかし……」
「主力と見られていた武装集団の姿がない、ですか」
「はい。隈無く捜索しましたが、痕跡すら残っていません」
カルカノは立ち上がり、しばし黙した。耳に届くのは、血を拭う布の音と、鉄の匂いを含んだ風。
「……やられましたね。物証がなければ追及もできません」
「ベルテルブルグの名を出すには、確たる証が要ります。これだけの事を周到に準備したのです、下手に動けば逆にこちらが揺らぎかねません」
「承知しております」
カルカノは深く息を吐いた。吐息は夜に白く漂い、すぐに溶けた。
「ならば、まず為すべきは……」
「アブトマットの逆賊指定、ですな」
ルインの言葉にカルカノは頷いた。
「王都を荒廃させた元凶。その上に、ヴィル陛下を拉致し逃亡。その罪を公にし、王国から切り離さねばなりません。私は教会本部へ戻ります」
カルカノは颯爽と歩き始めた。
その足を進めさせるのは純粋な怒りだ。
王国を荒廃させたアブトマットへの怒り。
罪のない人々を利用し、死に至らしめたベルテルブルグへの怒り。
そして、それを何一つ阻止できなかった自らへの怒りだ。
教会本部へ到着すると、すぐにウィンチェスターが出迎えた。
「猊下、アブトマットを逆賊指定する書類は揃えました」
「ありがとうございます。しかし、国王不在の審議会には権限がほぼありません」
「承知しております。ただ、今は非常時です」
「ええ。ですので、審議会だけでは足りない権限を補うために、元老院を設立します。国王不在の中で物事を決めるのであれば、より広い合意が必要でしょう」
「……元老院を?」
「そうです。臨時政府として、王国全土の有力貴族の代表者を招集します。速度が必要です。アブトマットの逆賊指定は先に進め、元老院に事後承認させるのが良いかと」
ウィンチェスターは頷いた。その顔に浮かんでいたのは安堵ではなく、決意だった。
一時的な君主制から民主制への転換。王国史上、前代未聞の事態である。
「丞相殿、必要な書類の作成はお願いできますか?」
「猊下、全力でお支えします」
「頼みます。前例のないことです、ここからは我々の戦です」
二人の間に交わされたのは、祈りにも似た決意の共有だった。
王都にはまだ、血の臭気と呻き声が残っていた。兵士が担ぎ出す死体の中から、微かに動く指があった。掠れる声で母を呼んだ若者は、次の瞬間には完全に沈黙した。
§ 王立図書館所蔵『王国玄冬記』エルウェ著・第四章「王都大暴動」より
明け方にはアブトマットの逆賊指定が交付され、その情報は一日も経たぬ内に王国全土に知らしめられた。
王都の混乱の中、人情王ウィリアム陛下を拉致し逃亡した罪である。
既に国民の反感を買っていたアブトマットの逆賊指定に、国民は当然と受け入れ、カルカノたち臨時政府を支持する流れとなる。
王国史上唯一の民主制議会政治の期間は決して長くはないが、明らかな特異点である。
その必要性の評価については後世の研究で見解が分かれている。
王都大暴動が起きた原因がアブトマットの治世の失敗だけであったと考えるのには無理があるからである。
何者かが焚き付けた可能性が高い。後の流れからすれば、簒奪戦争をけしかけるベルテルブルグ家が張本人であったと推測される。
であるならば、この時既にベルテルブルグは玉座を欲しており、ウィリアム陛下不在による政治的空白に付け込み、簒奪しようとしていたのではないか。
だとするならば、当時の臨時政府、カルカノ大僧正とウィンチェスター丞相は最速で、しかも一定以上の権限の裏付けのある一手を打たなければならなかった。
それが元老院の設立であったと推察できる。
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