Ⅱ-33 暗躍
王都を守る三重の城壁は、スプリングフィールド城を中心に同心円状に築かれている。
最も内側にある第一城壁は高さ十五メートル、厚さ三十メートルを超える巨塊の石壁だ。
その上には投石機が設置され、軌条を伝って左右に動かせる。どの方向から攻め込まれても即応できる造りである。
外周を巡る堀はすべて跳ね橋が上げられ、完全な籠城態勢が敷かれていた。
暴徒たちは、つい先ほどまで第一城壁に殺到していた。
だが今はアブトマットの指揮により、第二城壁の外まで押し戻されている。
第二城壁の内側は政府の中枢である。各省庁の庁舎が密集し、そこで働く役人たちの住まいもある。
ここさえ守られれば、王国の政務は続けられる。アブトマットにとって何よりも優先すべき防衛線だ。
「とりあえず一安心ですな、閣下」
「あとは掃討戦に過ぎん」
参謀の声に、アブトマットは頷きもせず城壁の外を見つめていた。
すでに暴徒の勢いは削がれていた。
当然だ。大半は戦を知らぬ市民にすぎない。
矢が雨のように降り注ぎ、熱油が頭上から浴びせられる。砕けた石片が顔を裂き、耳をつんざく悲鳴が途切れる。
隣で声を張り上げていた者が、次の瞬間には血塗れの死体となる。
死が現実の姿をもって迫れば、心は容易く折れる。
叫び声は悲鳴に変わり、秩序を失った群衆は蜘蛛の子を散らすように退いた。
退却ではなく、ただの逃走だった。
アブトマットの兵は抵抗の手応えすら覚えぬまま、第二城壁の外へ追いやったのである。
「拍子抜けしたな」
「これでは戦と呼べませんな」
兵たちの間にさざめきが広がった。
†
「猊下、一先ずは安全と見てよろしいでしょう」
教会本部も第二城壁の内側にあった。
一時は標的にされる恐れがあり、緊張が張り詰めていたが、暴徒が退いたことでようやく安堵が広がった。
先程まで門前には敗走した暴徒が押し寄せていた。
血にまみれ、折れた武器を抱え、門扉を叩きながら必死に叫ぶ。
「助けてくれ!中に入れてくれ!」
「こんな筈じゃなかったんだ!ここで死ぬのは嫌だ!」
だがカルカノは静かに首を横に振った。
スプリングフィールド城に矢を向けた時点で、彼らは反逆者だ。
匿えば、教会ごと罪に問われる。
数人を救えば、数千の信徒を危険に晒すことになる。
「……開けてはなりません」
カルカノの声は低く、しかし揺るぎなかった。
やがて王国軍の兵が駆けつけ、門前の暴徒を一掃する。剣が振り下ろされ、血が石畳に広がる。
呻きながら地を這う者の手が門扉に伸びたが、そのまま力尽きた。
屍が積み重なり、血と油の臭気が風に乗って教会の中にまで流れ込む。
カルカノは目を閉じ、祈りの言葉を胸中で唱えた。
救えぬ命を前にする聖職者としての苦悩があった。
だが同時に、既に教会に避難している大勢の命を背負う者として、冷徹な判断を下さねばならなかった。
「……まだ気は抜けません。決して門を開けぬように。それと、警戒を怠らないでください」
「御意」
厳戒態勢が続く中、ルインがやって来た。
「猊下」
「何かありましたか?」
ルインは周囲を一瞥し、声を潜めた。
「アナからの報せです。補給の準備が整いました。例の道から搬入を」
「入口の位置を特定されないように気を付けなさい」
「承知。それと――こちらを」
跪いたルインは、去り際に小さな紙片を靴に忍ばせていった。
カルカノは執務室に戻ると、それを取り出し、広げる。
そこに記されていたのは、ただ一文。
「ベルテルブルグ、玉座簒奪、主目標はまだ始動せず」
カルカノは読み終えると、火を点けて灰にした。
「……暴徒の城攻めは、陽動ですか」
声は誰にも届かない。
胸に重い予感が沈む。
アブトマットは終わる――そんな直感に近いものが心を掴んでいた。
確信ではない。だが、どう考えても筋が通りすぎる。
そして恐らく、その渦にヴィルも巻き込まれる。
「……アナの言った『玉座に座れ』とは、そういうことでしたか」
カルカノは筆を執り、短い書簡を書いた。
「これを丞相ウィンチェスター殿へ届けてください」
「了解しました!」
騎士は駆け去った。第二城壁内は王国軍が巡回しているが、敵対行為を一切していない聖徒騎士団の伝令が襲われる心配は少ない。
それでもカルカノの胸騒ぎは消えなかった。
†
「猊下から……?」
兵から書簡を受け取ったウィンチェスターは眉をひそめた。
そこには彼の身を案じる言葉、そして危険と見れば教会へ避難せよと記されていた。
「……やはり貴方には敵いませんな、猊下」
小さく呟くと、すぐに声を張り上げる。
「皆の者、支度を整えよ!これより教会本部へ避難する!」
フローコード家は城を持たぬ文官の家系だ。第二城壁内の屋敷は堅牢で兵も控えている。これまで戦火を免れてきた。
だがカルカノがあえて避難を促した――その意図をウィンチェスターは読み取った。
家臣の一人が問う。
「旦那様、暴動は一段落したのではありませんか?避難する必要はもうないのでは?」
「猊下がわざわざ警告を寄越されたのだ。これだけでは終わらんと言うことだろう」
短いやり取りののち、家族や使用人たちが慌ただしく荷をまとめ始める。
屋敷は安全に見えたが、その安心こそが罠かもしれない。
カルカノは何かを掴んでいる。
この暴動の背後にあるもの、そしてさらに続く何かを。
それを共に考えるために、自分を呼んでいる。
そう信じることは誇りであり、同時に恐怖でもあった。
王都はまだ沈黙していない。
だが、見えぬ炎は確実に広がりつつあった。




