Ⅱ-29 凶兆
「陛下……」
黒い甲冑をまとった食人鬼が、玉座の前で恭しく頭を垂れた。
その上座に腰掛けているのは魔王である。
「何だ」
吐き捨てるような声。
現界して百年を超えるが、いまだに王国の城壁を越えられぬ現状に、魔王は退屈していた。
王国の堅牢さは石の高さではない。驚異的な柔軟性と速さだ。
魔王軍の兵力では一度に攻められるのは一、二か所が限界。しかし王国軍は数時間で援軍を送り込み、包囲して殲滅する。
ここ数十年、戦線は動かず、不毛な消耗戦ばかり。大弩や投石機に兵を削られ続け、魔王の興味は薄れていた。
「面白い話がございます」
報告したのは、食人鬼の長。知略にも長け、魔術も扱えるため、戦場に消費するより参謀として仕えている。
「ほう。申してみよ」
「内に潜む者からの報せによれば……王都が荒れに荒れていると」
「王都が?」
「政治の中枢が麻痺する可能性もあるとか」
魔王の瞳が僅かに光を帯びた。
「……よい。全兵力を洗い直せ。新兵訓練も短縮し、可能な限り兵を掻き集めよ」
「陛下、それは――」
「あぁ。久方ぶりにあの壁を越える」
†
「……まるで地獄だ」
王都の惨状を前に、カルカノは胸中で嘆息した。
活気に満ちていた大通りには死体が転がり、民はこぞって捌神正教本部へ押し寄せる。祈りを捧げる者、助けを乞う者――。
教会は巨大な避難所と化していた。
「猊下、どうされますか」
聖徒騎士団長ルインが問う。
「暴漢を防げ。入口を堅固に固めよ。……食糧の備蓄は」
「ありますが、このままでは数週間で底をつきます」
「構わん。一個中隊を調達に出せ。決して強奪はするな、必ず買い取るように」
「御意」
やがてカルカノは礼拝堂に降り、避難してきた市民に声を掛けた。
「皆さん、大丈夫です。我らが命を懸けて、必ずお守りします」
歓声が上がり、涙する者もいる。
そこへ、一人の女性が大きな雑嚢を背負って駆け寄った。
「少ないですが……持ち出せる食糧を。どうかお使いください!」
背から降ろされた袋の中には干し肉や乾パンが詰まっていた。
「こんなにも……。大変だったでしょうに」
「猊下だけが頼りです。少しでもお力になりたくて」
その言葉にカルカノは深く頷いた。
やがて他の避難者たちも、わずかな食糧を差し出し始める。
量は些細でも、その心が胸を打った。――この人々は、まだ王都を諦めていない。
何としても守らねばならない。
「猊下、表に兵士が……」
駆け寄った騎士が耳打ちする。
「私に用があると?」
「はい。閣下がお呼びだとか」
カルカノは息を吐いた。
「……警戒を厳に。整い次第、出向かいましょう」
鉄柵越しに立つのは二十名ほどの兵士。総板金鎧に身を固めている。
「これはこれは。王国軍の方々が教会に何用ですかな」
カルカノが微笑むが、兜で覆われた兵の表情は読めない。緊張が張り詰める。
「カルカノ・ヴァン・ルーインバンク殿とお見受けする。間違いないか」
「ええ、私がカルカノです」
「城までご同行願いたい。閣下がお会いしたいと」
「私はすでに政から退いた身。一介の信徒に過ぎませぬ。閣下の御前など恐れ多い」
すると、先頭の兵が兜を外し、跪いた。
「――お久しぶりです、猊下」
「……フリッツ殿!」
それはザウエル城主ペッター・モーゼルの子、フリッツであった。
「覚えていていただき光栄です。父は今、閣下を補佐しております。ですが……治安は悪化するばかり。閣下は猊下のお力を求めておられるのです」
信心深き少年は、そのまま真っ直ぐな青年に成長していた。
「……本当に閣下が直々に?」
「はい」
カルカノはしばし沈黙し、やがて頷いた。
「分かりました。王城へ参りましょう」
フリッツが顔を輝かせる。その隣でルインは険しい目を向けた。
「猊下……」
「大丈夫です。フリッツ殿が保証してくれる」
その言葉にフリッツは胸を張る。
「この者たちは私の精鋭。必ずお守りします」
しかしルインはフリッツの襟を掴み、顔を寄せて低く問う。
「――アブトマットが猊下に刃を向けたら、お前は斬れるのか」
恫喝にも似た問い。だがフリッツは怯まず、目を逸らさず答えた。
「今の閣下は、もはや私が慕った大将軍ではない。もし猊下に剣を向けるなら、私は奴を斬る」
数瞬の沈黙。やがてルインは手を放ち、ぼそりと告げる。
「室内用の槍を使え。お前は槍の方が馴染んでいるだろう」
「……御忠告、感謝します」
フリッツが微笑み、敬礼する。
「猊下に何かあれば、真っ先にお前を殺す」
「この命に代えても、お守りします」
そうしてカルカノは鉄柵を抜け、フリッツらの護衛に囲まれながら城へと向かった。
聖徒騎士団の敬礼が背に重く響く。




