Ⅰ-5 密命
「お帰りなさいませ、猊下」
重厚な扉が静かに開き、礼拝堂を照らす燭光の中で一人の男が恭しく頭を垂れた。
銀糸を織り込んだ濃紺の修道服に身を包み、背筋を伸ばした彼は、捌神正教本部の執事にして、大僧正カルカノの側近。礼拝補助や政務の補佐を務めるその姿は、まさに影の宰相と呼ぶにふさわしい。
「遅くなりましたね、会議は長引きましたか?」
「陛下の“思い付き”で少々……予定外の動きがありました」
カルカノは重いため息と共にローブのフードを外し、額の汗を袖で拭う。
彼の背後に広がるのは、王国中央・スプリングフィールド城に並ぶ規模を誇る巨大複合施設──捌神正教の中枢、その本部である。
聖堂の正面には、一度に三千人を収容できる主礼拝堂。その周囲には八柱の神々を祀る個別の礼拝所が円を描くように配置され、信者たちの祈りの場として昼夜を問わず開放されている。
だが、この施設の真価は、一般に開かれた聖域の背後に広がる“影”の領域にある。
病床数三千を超える王都中央病院。王国中の医師を集め、最先端医療を提供する巨大な医療機関でありながら、それすらも正教本部の一部に過ぎない。
残る大半の区画は、行政機能と軍事機能を担っている。世界中にある教会施設を一元管理し、諜報部『蛇』からの報告を集約・分析・記録する。
更には、武装修道会──聖徒騎士団の修道院・兵舎・訓練場も併設されており、ここは「王都第二の城」とも呼ばれている。
「猊下、何かご命令を?」
「聖徒騎士団、全師団の隊長格を至急本部に集めなさい。議題は“陛下の南部行幸に伴う随行警護”だ」
「……このご時世に、ですか?」
男の眉がわずかにひそめられる。
無理もない。王都の中心部では、密やかに国王暗殺の噂が広まりつつある。そんな中、国王自身があえて宮中を離れるなど──正気の沙汰とは思えない。
「噂が広がっているのが“宮中に限られている”という理由で、王都を離れた方が安全だと、陛下は考えておられるのです」
「……ならば、これはただの視察ではありませんね」
「ええ。貴方の察し通りです。護衛任務には最精鋭を。命に代えても、陛下を守りなさい」
「承知致しました。直ちに手配いたします。──おい!」
低く一喝すると、脇で控えていた騎士見習いの少年が駆け寄る。
「ここに!」
「全部隊長に招集を。大礼拝堂裏の大会議室に今すぐ集めろ、大至急だ」
「御意!」
少年は、背中に風をまとうように走り去った。
「──陛下が王都を離れれば、動き出す者も出てくるでしょう」
執事の声が、僅かに沈んだ響きを帯びる。
王都に渦巻く陰謀の気配。それは単なる噂などではなく、確かな“企て”として蠢いているのだと、彼は理解していた。
「ええ。……だからこそ、私は残ります」
「猊下は、陛下と同行されないのですか?」
「今回は貴方に現場を任せます。理由は、分かりますね?」
その言葉に、男の目に宿る色が変わった。
今までの丁寧な表情から一変、鋭く研ぎ澄まされた暗器のような眼差しへと。
「承知しております。この命に代えても」
「良い返事です。では、会議室へ向かいましょう。準備は、今夜から始めます」
夜は既に深い。だが、動き始めた者たちには、夜の闇こそが最良の幕引きであり、開幕でもあった。
王が動く時、国もまた揺れる。
その背を守るのは──信仰と誓いに殉ずる者たちである。