Ⅱ-25 思想
「摂政殿、これは一体どういう事でしょうか」
審議会でウィンチェスターが声を張った。彼の手には一枚の資料がある。
王政歴八九五年、年が明けて三か月。ベルガー・マンリヒャーの処刑から間もなくのことだった。
資料に並んでいるのは、不審な死を遂げたマンリヒャー残党の名。
「どういう事とは、どういう事だ、丞相」
アブトマットはふてぶてしく返す。
「城下でも噂になっています――『摂政が生き残りを腹いせに消している』と」
カルカノの耳にも届いていた情報だった。
物証は乏しい。だが、影が動いているのは明白だった。
「停戦の講和で、生き残りの命は保証したはず。それを破るのは違反行為です」
ウィンチェスターの言葉に、アブトマットは肩をすくめる。
「勝手な推論で私を咎めるか。証拠はあるのか?」
「摂政殿以外に可能な者はいない!」
「戯言だ。見ろ――死因はすべてバラバラだ。狼に襲われ、人違いで刺され、荷馬車に轢かれ、飛び降り……二十人以上が死んでいるのに一つも重ならない。これをどう私の仕業と言うのか」
机を叩いてウィンチェスターが叫ぶ。
「だからこそ異常なのです!」
カルカノは資料に目を落とした。確かに死因は一つとして重なっていない。
偶然ではあり得ない。意図的に“被らせていない”。――丞相の洞察に、カルカノは内心舌を巻いた。
それでもアブトマットは飄々と続ける。
「すべて事故や自殺や過失致死だ。他殺の証拠は一つもない。私に濡れ衣を着せるな」
反論に窮しながらも、ウィンチェスターはなお言葉を重ねる。
「すでに憲兵を各地の元家臣団へ付けました。彼らは罪人ではない。守るべき国民の一人です」
憲兵隊は、アブトマット不在の間に丞相直轄とされていた。王都の治安を軍に握らせておくのは危険――大后シャルロットの発案だった。
「フン。陛下に弓引いた者どもを何が国民だ。危険思想の持ち主、犯罪者予備軍――生きて不都合はあれど、死んで困ることはない」
その言葉がすべてを物語っていた。
証拠はなくとも、これがアブトマットの本心であることに誰も疑いを抱かなかった。
審議会の空気は重く沈む。憲兵を奪われても、なお彼は影で人を消すのだ。完全に歯止めが利かなくなっていた。
「お二人とも、落ち着いてください。摂政殿の指示だと決まったわけではない」
カルカノが場を収めようとすると、アブトマットが馬鹿にしたように笑う。
「ほう、大僧正は私に味方するか」
「私は神の下僕。神にのみ仕えます。それより――市民が不安を覚えています。憲兵の巡回を増やし、夜間外出を控えるよう呼びかけましょう」
結局、決まったのはパトロール強化と夜間自粛の呼びかけに留まった。根本的な解決には至らない。
狙われているのは貴族であり、市民は自分には関係ないと考えている。外出禁止令を強行すれば反発を招くだけだった。
「民どもの機嫌ばかり取って、何ができよう」
吐き捨ててアブトマットは立ち去った。
†
「国とは民があってこその国なのでは……」
沈黙を破ったのは若き王ヴィルだった。
「陛下、それは危うい考えです」
カルカノが答える。
「しかし、民がいなければ国は成り立ちません」
「逆に、国がなければ人は流民であり難民です。どちらが先ではなく、どちらも不可欠。政治とは事ごとにどちらを優先すべきかを決めることなのです。陛下の仰ることも正しい、ですがまだ正解には半歩及びません」
ヴィルは深く考え込み、呟いた。
「国とは……何なのだろう」
「国とは領地と民、そして法を備えた共同体です」
ウィンチェスターの言葉に、少年王は眉をひそめる。
「難しく言わないでください……」
カルカノが静かに続ける。
「領地、民、法。これが今の国の柱です。かつては王もその中に含まれていましたが、今は違う。立憲君主制の下では、法の方が王より上にある。だからこの三つに王は含まれないのです」
「……つまり、王がいなくとも国は存続するのですか」
「端的に言えば、そうなります」
ウィンチェスターが思わず声を荒げた。
「猊下!」
カルカノの言葉は、不敬に取られかねない。
だがヴィルは手で制し、黙って思索を続けた。
「では……王とは、何なのだ……?」
少年の瞳に、鋭い光が宿っていた。
カルカノはそれ以上は口を挟まなかった。
――ここで答えを与えてはならない。
この問いこそが、若き王を成長させる種になるのだから。