Ⅱ-21 遺子
柄にもなく、カルカノは廊下を駆け抜けた。
その勢いのまま扉を押し開ける。
部屋の隅にいたのは、小さな少年。
痩せこけ、擦り切れた衣服をまとい、酷い臭いを漂わせている。
食事も湯も与えられずにいたことは一目で分かった。
「ヘンリー様!」
カルカノは涙を流しながら少年に抱きついた。
――ヘンリー。
変わり果ててはいたが、紛れもなく彼だった。
「……」
虚ろな瞳で口を動かすが、声は出ない。
「ルイン!」
「極度の栄養失調と脱水のせいでしょう。舌や喉に損傷はありません」
ルインが答える。
カルカノは少年の頭を撫で、額に口づけ、何度も謝りながら抱きしめた。
「すぐに食事と湯浴みを!それとボアを呼びなさい。ヘンリー様には心安らぐはずです」
「御意」
ルインが駆け出す。
「私が分かりますか、ヘンリー様」
カルカノの問いに、ヘンリーは小さく頷いた。
「我々が命に代えてもお守りします。かつての王子の生活には及びませんが、どうかお許しを」
首を横に振るヘンリー。
その体にはいくつもの痣が残っている。
虐待というより、貧民窟の過酷な暮らしそのものの痕跡だった。
カルカノは怒りに震えたが、すぐに冷静さを取り戻す。
ヘンリーだけでなく、同じ境遇にある子供は他にも大勢いるのだ。
†
「ヘンリー様!」
ボアが駆け込んだ。
涙で顔を濡らしながら、彼女もまた少年を抱きしめる。
「覚えておいでですか。私はツェリスカ殿下に仕えていた侍女。今は猊下のもとで働いております」
その顔を見て、ヘンリーはもう一度頷いた。
わずかに表情が和らぐ。
「ボア。ヘンリー様の傍にいてください。貴女が一番ふさわしい」
「はい……はい!ありがとうございます!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ボアは何度も頷いた。
「湯浴みの準備が整いました」
ルインが戻る。
「はい、すぐに!」
ボアはヘンリーを抱き上げた。
軽すぎる体に、また涙が溢れる。
「どうしました」
「……あまりにも軽くなられて……」
「大丈夫です。必ず戻ります」
「はい……!」
ボアはヘンリーを抱いたまま廊下へ走り出た。
「ルイン」
「はっ」
「食事は柔らかいものだけに。急に固形物を与えれば命に関わります」
「心得ております」
「……そうですね、貴方には余計な助言でした」
カルカノは微笑み、続けた。
「ヘンリー様が回復したら、剣を教えなさい」
「剣……ですか?」
「ええ、剣です」
ルインは直感した。カルカノは政権強奪を考えているのか、と。
「政権を奪うおつもりですか」
「いいえ。今のアブトマット政権こそ強奪によるもの。もしまた強奪を仕掛ければ、繰り返すだけ。犠牲になるのは民です。私はそれを望まない」
「では、なぜ……」
「ヘンリー様は前王の血を引いていません。しかし、ファイファー家という名門の血は確かに受け継いでいます。彼もまた貴族の子です。ならば、貴族を学ぶべきでしょう。必ず役立つ日が来ます」
ルインは深く頷いた。
ヘンリーは庶民に落とされても、血まで失ったわけではない。
いずれ彼を受け入れる家も現れるだろう。その時に備え、武と礼を身につける必要がある。
「理解しました。しかし、どこに匿うおつもりですか? 修道院では目立ちますし、ここに置いておくのも危険です」
「……一人、心当たりがあります。彼ならばきっと」
カルカノは静かに自分に言い聞かせるように頷いた。