Ⅱ-18 思慮
「猊下」
カルカノの部屋を訪れたのはボアだった。
「どうしました」
「プフに潜入していた蛇の一人から報告です」
差し出された小さな羊皮紙を受け取り、目を通したカルカノは眉を上げる。
「……王都内の蛇すべてに伝えなさい。すぐにヘンリー様を探し出し、教会施設に匿うのです」
「御意」
ボアはすぐさま姿を消した。
「ステア・マンリヒャー殿から接触がありました。ヘンリー様の保護を依頼されました」
残っていたルインが小さくつぶやく。
「ヘンリーの保護……」
「どうやらステア殿は、反乱軍とは少し距離を置いているようです」
「父親がアルメなら、彼女にとっては孫。助けたいと思うのも当然でしょう」
「ですがマンリヒャー残党も血眼になって探しています。先に見つけねば……」
ただ、ヘンリーの行方は依然として不明だった。
庶民に落とされ、シグ家の下男にされたという噂もあるが、蛇が徹底して調べても痕跡はない。
すでに殺された可能性すらあるが、アブトマットがそんなカードを易々と捨てるとも思えない。
「……なるほど」
ルインが低くつぶやいた。
「どうしました」
「猊下、もしかすると――」
ルインの仮説は、ヘンリーが貧民窟に捨てられた可能性だった。
王城でしか暮らしたことのない少年に生き延びられるはずはない。だが世話する者がいれば話は変わる。
アブトマットは以前から影を各地の貧民窟に潜入させており、既存の反政府組織との繋がりも噂されていた。
その組織にヘンリーを預ければ、蛇でさえ追跡できない。必要な時に呼び出し、処刑すらできる――。
「……アブトマットなら考えそうです」
「貧民窟を重点的に捜索を!多少の騒ぎは構いません、今は時間が惜しい」
「御意」
ルインが足早に部屋を去り、入れ替わるようにボアが再び現れた。
「猊下、先ほどの密書を運んだ者の処遇はいかがいたしますか」
プフに潜む蛇がその身を保護しているらしい。
「影や残党の目を避けてここまで届けた。……なかなかの器量です」
カルカノは目を細めた。ボアの表情には複雑な色が浮かんでいる。
――自分と重ねているのだろう。
「どうなさるおつもりですか」
「本人の意思を尊重します。蛇として生きる道も示しますが、選ぶのは彼自身です」
思わずボアは目を見開いた。
「自分の時は、有無を言わさず蛇にされたのに……」
「そう思いますか」
カルカノは苦笑する。
「貴女は独自に網を築いていた。だからこそ私は欲しいと思ったのです。だがステア殿の従者には、才能はあっても根がない。……それに」
そこで言葉を切り、静かに告げる。
「恐らく彼女は、ステア殿と共にありたいと思っているでしょう。その心情は、貴女も理解できるはずです」
ボアは口を閉ざした。確かに理解できた。
もし叶うならツェリスカを救いたい。できなくても、共に在りたいと願ってしまう――。
だからこそカルカノは、彼女を王都から遠ざけなかったのだ。重要な戦力であると同時に、大事な人材を失いたくなかった。
「……ツェリスカ様の救出は」
「不可能です。街には侵入できても、城にはどうしても入れない。こちらの存在を察している節があり、出入りを厳しく制限している。処刑までに救うことは……叶わないでしょう」
「……」
「申し訳ありません」
そう言ってカルカノは深々と頭を下げた。
ボアは驚き、慌てて制した。
「おやめください猊下!猊下のせいではございません!」
「いいえ、私のせいです。大将軍に気を取られすぎ、その他がおろそかになった。その結果、ツェリスカ殿を奪われた」
「状況が状況です!」
「それに対応できてこその蛇。私は長失格です……」
消沈した老僧を椅子に座らせながら、ボアは胸の奥に疼きを覚えた。
「猊下……」
「ボア、貴女にだけは話しておきます」
「はい……?」
カルカノは、ガーランド暗殺以来抱えてきた思案を口にした。
ルインにもアナにも明かしていない。確実に反対されるからだ。だがボアなら――そう思った。
「……本気ですか」
「王国の未来を思えば、大将軍に対しては小指の爪ほどの引っ掛かりも作れぬ。こうするのが最善と考えています」
ボアは理解した。
この老人は、本当に王国の未来を憂えている。
彼はいつも誰かを気にかけ、思いやり、共に歩もうとする。自信満々に振る舞ったことなど一度もない。
「猊下……」
ボアはその手を握り、涙声で言った。
「私は猊下の判断に従います。猊下の命であれば、死ぬまで――いいえ、私が死んだ後、何代経ても……!」
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