Ⅱ-11 迷走
「剛皇帝が来る……だと?」
アブトマットの顔が強張った。
私刑禁止法を施行してからというもの、事態は一向に好転していない。娼婦連続暴行殺人は依然として続き、兵士による巡回強化も空振りに終わっていた。
市民の間には、無関係の家族が兵に連行され、拷問されたという噂が飛び交い、不満の矛先は次第に王政府からアブトマット個人へと向かいつつあった。
「暴動が起きる……」
不安が言葉となって漏れる。
民衆の怒りが火種となれば、それは国の崩壊に直結する。そして、そんな状況下で届いたのが、隣国共和国の蔡嘴が新王との会見を望むという知らせだった。
(なぜこの時期に……)
蔡嘴――剛皇帝。王国にとって最も警戒すべき隣人の一人。
彼が来訪すれば、王都の治安と政治状況が剥き出しになる。現状が露呈すれば、王国は魔王軍との戦争における“盾”としてすら信用されなくなるかもしれない。
「如何いたしましょう、大将軍」
「……来るというなら迎えるしかあるまい。準備を進めろ」
「市民の暴発は?」
アブトマットは短く言った。
「不本意ながら、蛇王の力を借りる」
「……蛇王?」
部下の問いに答えず、アブトマットは部屋を出た。向かうは捌神正教本部――カルカノの元である。
†
「また、厄介な依頼ですね」
カルカノは書簡を置き、額に手を当てた。
向かいのアブトマットは、自らの正義に満ちた声で命じる。
「蛇の長よ、貴様の力をもって、民衆の怒りの矛先をツェリスカに向けさせろ。王都の混乱は彼女の存在が原因だ。修道院などに匿うから民が勘ぐる」
まさに政治の末期を象徴する一言だった。
アブトマットの脳内では見世物としてツェリスカを使う計画すらあるに違いない。
もし公開処刑など始めた日には、王国は内部から崩壊する。
「……理解できませんね、大将軍。貴方の言う国の安定とは、どこにあるのです?」
「黙れ、蛇王。これは国を守る策だ。延命でも時間が稼げれば、他の手が打てる」
「その他の手が今まで一つでも奏功しましたか?」
カルカノの声には、もはや皮肉も怒りもなかった。
ただ、静かに国の死を見届けようとする医者のように冷めていた。
「……わかりました。しかし、それは貴方が思っているよりも遥かに危険な賭けです」
「構わん。どうせこのままでは詰む。あとは任せた」
満足げにアブトマットは部屋を後にした。
「はあ……アナ」
「はーい♪」
緩い声が壁の奥から返ってくる。
「聞いてましたね?」
「聞いてた。……あれ本気で言ってるの?」
「残念ながら。否定すれば私の首が飛ぶでしょう」
「やれやれ……じゃ、手は打っておくけど、あんまり期待しないでね。ところで、一つ報告」
「何ですか?」
「奴等が動き出しそう。まだ断言できないけど、空気が変わった。たぶん……機は熟したって判断してるみたい」
カルカノはしばし黙し、静かに息を吐いた。
「……利用しましょう、すべて」
「やっぱりそう言うと思った。猊下って悪人よねぇ」
「必要なら、悪魔にもなる覚悟はある」
気配が消える。
その場に残されたカルカノは、誰にも聞かれぬよう低く呟いた。
「すべては、王国を――未来を残すために」