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Ⅰ-29 処刑

 スプリングフィールド城と捌神正教本部の間には、王国内最大の楕円形広場がある。

 最高神オフルマズドの名を冠されたその場所は、今日、王国中から集まった群衆で身動きが取れないほど埋め尽くされていた。

 教会本部に面した側には、高く組まれた足場がそびえ立ち、そこがまさに「処刑」の舞台であることを示していた。


「早くれ!」


「さっさと始めろ!」


「非国民に死を!」


 怒号が空を割き、波のように繰り返し広場を満たしていく。

 民衆の目当てはただひとつ――アルメ・マンリヒャーの処刑だった。

 だが、すぐに刃が振るわれるわけではない。形式上の裁判が行われることになっているが、それもまた「公開処刑」の一部として組み込まれた演出に過ぎない。

 そのとき、アルメ本人は教会のエントランスホールで、遠くに響く怒声を虚ろな表情で聞いていた。

 後ろ手に拘束され、肌は青白く痩せ細り、目の下には深い影ができている。

 もはや生きているというより、時間だけを消費してなお死に切れなかった亡者のようだった。


「これを」


 カルカノは、葡萄酒(ワイン)の注がれた大ぶりのグラスを差し出した。透き通った赤が、どこか血のように見える。


「……多少は、楽になります」


 アルメはゆっくりと顔を上げた。虚ろな瞳がカルカノを映し、手に取ったグラスから一口、口に含む。

 舌の上に、わずかな甘みと酸味が広がった。

 身柄を拘束されてから、今日までの投獄生活は苛烈を極めていた。食事らしい食事は与えられず、意味のない拷問が延々と繰り返された。

 手足の指は幾本か欠け、そして何より、男性器すら残っていない。

 これが、王国全土の憤怒を一身に浴びた者の末路なのだと――アルメ自身も、ようやく理解したようだった。


「アルメ・マンリヒャー、立て」


 アブトマットの冷徹な声が空気を裂く。

 アルメは力無く膝を伸ばし、立ち上がった。まるで人形が糸で吊り上げられたようだった。

 アブトマットを先頭に、カルカノら聖職者たち、そしてアルメの両脇を固める憲兵たちが列を成して進む。

 彼らが教会から姿を現すやいなや、広場の熱狂は爆発的なうねりとなり、怒号と歓声が渦巻いた。

 処刑台へと続く道。そこに待ち受けていたのは、憎悪の具現だった。

 アルメに向かって、卵が、石が、果ては人糞までが投げつけられた。怒声と共に飛んできたそれらは、彼の体と心を容赦なく打ち据えた。

 本来ならば、罪人に対して物を投げる行為は厳しく禁じられている。だが今回は違った。

 アブトマットの黙認、いや、意図的な誘導によって、それは最初から許されていた。

 民衆の怒りを徹底的に、確実に、アルメという個人へと集約させる――それが彼の目的だった。


「このような狂気で、国を……」


 カルカノはかすかに呟いたが、その声は民衆の咆哮に掻き消された。

 人ひとりの命と尊厳をここまで踏みにじらねば、この王国はまとまらないのか。

 そう思うたび、胸の底に沈殿していた後悔が沸き上がってくる。

 そして、自分もまたその現実の一端を担っているのだと、逃れようのない罪悪感が背筋を冷やした。

 ふと、ガーランドの無垢な笑顔が脳裏をよぎる。


 アルメは、かすれた声で呟いた。


「……早く、殺してください……」


 処刑台を上がる。中央に跪かされる。

 視界の先には、血の染みが残る断頭台と、その下に据えられた籠。

 もうすぐ、この苦しみが終わるのだ――そう思うと、アルメはほんの一瞬、安堵に似た感情を覚えた。


(ツェリスカ……結局、最後まで、お前に振り回された人生だった)


 幼少の頃から、彼女は常に傍にいた。傍若無人で我儘で、周囲の人間を振り回しては、それを当然のように受け入れさせる。

 悪戯に付き合わされた記憶は数えきれず、そのたびに叱られ、怒られたのはいつもアルメだった。

 ガーランドに嫁ぐと決まっていたツェリスカは、何をしても許された。

 けれど、それでも……彼女と過ごす時間は、幼いアルメにとって、確かに楽しいものでもあった。

 それが、恋愛ではなかったにせよ――。

 ガーランドとの結婚を目前に控えた夜。呼び出された先で、アルメはツェリスカに犯された。

 「愛している」と告げられたが、アルメにはその言葉は響かなかった。

 ただの支配だ。彼女の「所有物」として、支配され、捨てられるだけの存在――。

 その後、王妃専属近衛隊(クイーンズシールド)の長という役職が与えられたとき、ようやく解放されると思っていた矢先だった。

 ツェリスカの傍から離れることは、結局一度たりとも叶わなかった。


(拒絶すべきだった。拒むべきだった……)


 けれど、拒まなかった。いや、拒めなかった。そして、その結果が――今ここにある。

 断頭台の木肌に視線を落としながら、アルメは皮肉にも微笑んだ。


(やっと、終われる)


 そこへ、アブトマットの朗々とした声が響く。


「被告、アルメ・マンリヒャー。この者は、亡き前王ガーランド・フォン・バーテルバーグの第一王妃、ツェリスカ・バーテルバーグと密かに交わった」


 羊皮紙に記された罪状が読み上げられるたび、怒号はさらに激しさを増した。

 だが――アルメには、もはや何一つ届いていない。

 意識は走馬灯の中に沈み、過去の光景が次々と浮かんでは消えていった。

 きっと、マンリヒャー家は取り潰される。

 プフ城で過ごした静かな幼年期。父と母の顔、暖かな日差し、草原の匂い。すべてが、遠い。


「何か言い残すことはあるか?」


 アブトマットの問いに、アルメはかすかに口を開いた。


「……王国に、幸あれ」


 その一言が終わらぬうちに、憲兵が彼の身体を断頭台へと横たえさせた。


「貴様が言うな!」


「国賊の分際で!」


「詫びもなく死ぬのか!」


「死ね!」


 群衆の罵声が、まるで炎のように燃え上がる。

 黒ずくめの執行人が、巨大な斧の刃に葡萄酒を垂らす。

 カルカノが、それを見届けながら低く祈る。


「魂は、神々のもとへ還るべし……」


 その直後、重い刃が――振り下ろされた。



 刑の執行後、カルカノは着の身着のまま、ツェリスカの私室へと急いだ。

 かつてツェリスカ付きだった侍女と交わした、密かな約束を果たすためである。

 アブトマットよりも先に――それが何より重要だった。

 彼はルインを含む聖徒騎士団の数名を伴い、厳かに扉を叩いた。


「ツェリスカ殿、入ります」


 返答はない。

 扉を開けた瞬間、鼻をつくのは、長らく締め切られた室内の淀んだ空気だった。

 その中で、痩せ細ったツェリスカが床に蹲っていた。頬はこけ、髪は艶を失っている。


「ツェリスカ殿……」


 カルカノの声に、ツェリスカはかすかに顔を上げた。虚ろな目が彼を捉える。


「……アルメは、死んだのね。なら、次は……私?」


「すぐにご準備を。貴方様は我々が保護します」


 カルカノが喋り終わるのも待たずに、ルインが寝台ベッドのシーツを手に取った。

 迷いなくツェリスカの体をそれで包み、軽々と抱き上げる。


「どこへ行くの……? 牢屋に、お引っ越しかしら……」


 その声には自嘲とも諦めともつかない響きがあった。

 ツェリスカはすでに自分の運命を悟っているのだろう。

 もともと小柄な身体は、ろくな食事も与えられぬ生活の末に骨と皮ばかりになっていた。

 まるで、今にも崩れ落ちそうなほどに。


「我らの修道会へ向かいます。以後、貴女様はそこでお暮らしください」


「……修道会?」


 ツェリスカが繰り返す。空虚な響きが、薄暗い室内に溶けた。


「まだ――生きろということだ」


 ルインの言葉は冷ややかで、同時に確かな意志を孕んでいた。


「生きる……」


 ツェリスカはそう呟いた直後、意識を手放した。

 カルカノたちは彼女をそっと担ぎ上げ、教会本部へと搬送した。

 診察の結果、ツェリスカは複数の感染症に罹患しており、まずは生命を繋ぐための治療が優先された。

 かつての姿を取り戻すには、三ヶ月を要するだろうと医師は語った。



 その頃、ツェリスカの私室に遅れて現れたアブトマットは、からっぽの空間をしばし無言で見渡していた。


「……先を越されたか」


 独りごちた声に、影の長が応じる。


「恐らく、カルカノ氏でしょう」


「まぁいい。それより、民衆の様子はどうだ?」


「ツェリスカを殺せとの声が大半です。ただ、例の“蛇”が動けば、数日のうちには落ち着くかと」


「――精々、上手く使わせてもらおう」


 アブトマットは踵を返し、何も言わずにその場を後にした。

 まるで、すべてが予定通りであるかのように。

皆さんのブクマやリアクションが、次の話を書く力になります。どうぞよろしくお願いします!

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