Ⅰ-28 猊下
「猊下、正気ですか?」
アブトマットたちが去った後、小会議室に残っていたルインがカルカノに訊ねた。
「何がですか?」
「影と協力関係を結ぶというのは」
「今はそれしかありません。蛇と影が協力しなければ、王国は分裂します」
「……」
ルインは納得いかない様子だった。
元々、影は蛇に対抗する勢力としてアブトマットが再組織したものだ。明確に敵として編成された影と、協力などできるはずがない。
「今回の件、世間では『フェム事件』などと呼ばれていますが、恐らく大将軍が関わっているのは間違いありません」
「物証はありませんが、私もそう思います」
「つまり、大将軍は王国の実権が欲しいはず。では、次に邪魔になるのは誰でしょうか?」
「……」
可能性としてはカルカノ自身ではないだろうか。
ガーランドが行った政治改革で、大僧正にあった政治的な権力はすべて剥奪されたのだが、それでもカルカノの支持率は審議会内でもガーランドに次いで高い。世界中に信者を持つ巨大宗教の長であり、王国内に限らず、その知名度と支持者は多いのだ。
つまり国王が不在となった今、代理として最も有力な候補はカルカノである。蛇と影の協力関係は、カルカノにとっての安全処置の一種なのかもしれない。
そうルインが考えていると、小会議室の扉がノックされた。
「猊下、お目通りしたいと言う者が来ましたが、いかがしますか?」
「予想通りですね。私の部屋へお通しなさい」
カルカノは優しげな笑みのまま立ち上がった。やけに来客の多い日だ。
カルカノに後に続き、ルインもカルカノの自室へ向かう。扉を開けると、一人の女が待っていた。
「猊下!お願いがあります!」
カルカノが現れると同時に、すがりつくかの如く女は四つん這いでカルカノに近づいてきた。ルインは女とカルカノの間に身体を入れ、女を制止する。
「大丈夫ですよ、落ち着きなさい。貴女の言いたいことも分かっています」
そう言って女を宥め、椅子に座らせるカルカノ。女も少し落ち着いたのか、それに素直に従い、カルカノから渡された水の入ったグラスを受け取る。カタカタと震えながら、それを口に運んだ。
普通の状態ではない。この女は誰なのか、ルインにはまだ分からなかった。
「大変でしたね。食事はちゃんと摂れていますか?」
「二日に一度程度です……」
「なんと!?」
カルカノが思わず立ち上がった。
「仕方ありません、ツェリスカ様は既に王国のすべての人から恨まれているのですから……。食事があるだけマシと考えております……」
やっと分かった。この女は、ツェリスカと共に軟禁されている侍女だ。
疲れ果てた様子で、どう見ても痩せ細っている。軟禁されているとは聞いていたが、どうも待遇はよくないらしい。報告では日に二回の食事が出されているとあったが、それすら偽りなのだろう。
ツェリスカの軟禁に関しては蛇も関与していない。完全にアブトマットの手中だ。待遇の悪さはアブトマットの指示か、それとも末端で勝手にやっているのか……。
「アルメ・マンリヒャー殿の処刑は明後日と決まりました」
カルカノが残念そうに言った。
「アルメ殿の首が切られたとしても、ツェリスカ殿の身の安全は保証できません」
「シグ家の使用人として働かされると聞かされております……。お願いです猊下、どうかツェリスカ様をお助けください!」
侍女は理解しているのだ。
シグ家の使用人になるということは即ち、いつアブトマットに殺されるか分からないということ。だからこそ、主人の命を守るため、自分の命を顧みることなくここまで来た。
ツェリスカは身勝手極まりない女だが、そんなツェリスカを心から心配する者もいるのだ。
「その事については先程、大将軍閣下とお話ししました。ツェリスカ殿は我々教会の修道会が保護いたします。ツェリスカ殿への批判も幾分和らぐはずです」
「猊下……、感謝いたします……」
侍女はその場に泣き崩れた。
カルカノは立ち上がり、侍女の傍で膝をつく。優しく背中を撫でながら、温和な表情のままこう言った。
「貴女は勇敢な方だ。軟禁された部屋から逃亡すればどうなるか分かった上で、ここまで来られた。ツェリスカ殿の命のために、貴女は自らの命を投げ出した」
「え?」
侍女の表情が固まった。
ルインの全身に鳥肌が立つ。悪寒のように、背中がゾクゾクする。
これだ。これこそが蛇の長たるカルカノの真の恐ろしさ。
「貴女の願いは私が責任をもって聞き届けます。ツェリスカ殿の命は保証いたしましょう。しかし、願いには代償が必要となるのが常。八柱の神々は、どの御方であろうと贄と引き換えに願いを叶えるのです。意味は分かりますね……?」
侍女の目からは、先程とは意味の違う涙が零れ出す。
ルインは腰に吊るした剣に手を添える。カルカノが合図すれば、すぐにでも抜けるように。
「違いますよ、ルイン。脅かすつもりはありません。貴女の命を奪うつもりもありません」
その言葉に、ルインも侍女も目を丸くした。
「確かに、命の代償は命で贖うのが世の常ですが、私はそれが嫌いです」
カルカノはニッコリと笑った後、二人に背を向けて暖炉を見つめる。
「貴女は警備の固められた部屋から抜け出し、誰にも見つかることなく私の元へ辿り着いた。それに加え、独自の情報網を持っている」
そうか、やっと分かった。カルカノは初めからこの侍女を人材として見ていたのだ。
確かにガーランドの殺害以前、小さいながら王宮内で暗躍していた勢力の一つはこの侍女なのだ。
「我々が貴女を迎え入れたいのです」
「しかし、私はツェリスカ様の侍女です。最期までツェリスカ様と共に……」
「貴様はまだ分かっていないのだな」
思わずルインが口を出す。それと同時に抜いた剣を侍女の首に宛がう。
「ルイン……」
「ハッキリ言う。貴様に与えられた選択肢は、蛇になるか死だ。この二つに一つ。蛇以外の諜報組織など不要。我々にとって、貴様など取るに足らないが、潰せる時には潰す。それが今だ」
「……」
再び侍女はカタカタと震え出した。
「ルイン、剣を納めなさい。我々に手を下す権利はないのですよ」
カルカノに従ってルインは剣を納めた。
「脅かしてしまいましたね。我々が貴女を殺すことはありません」
「猊下……」
「しかし、貴女が独自の情報網を持っている事は、既に大将軍閣下も知るところでしょう。そうなれば、ツェリスカ殿を我々が保護したとしても、貴女はツェリスカ殿から引き離されるのは必至。その後は我々にも助けられません」
暗に、アブトマットの勢力に消されるだろうと言っている。つまり、初めから選択肢などなかったのだ。
侍女は思わず涙を溢す。
「ツェリスカ殿と貴女の命は我々が保証します。生きてさえいれば、また機会がありましょう」
「猊下……」
侍女は泣き崩れた。
カルカノには恐ろしい一面もあるが、大僧正に相応しい慈悲深さにあふれる人物だと、ルインは信じている。
恐らくこの侍女は蛇になる。そうなればカルカノがどれ程素晴らしい人物なのか、実感するだろう。
善悪、真偽を正確に線引きし、正しい判断を行う。必要とあれば斬り捨て、偽りを真実とする覚悟も持ち合わせている。
カルカノこそ、国の実権を握るべき人物であると、ルインは本気で信じているのである。
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