Ⅰ-21 城壁
翌明朝、陽が東の空を照らし始める頃には、ザウエル城の広場に再び軍装の音が響いていた。
短い逗留の後、行軍は再開され、国王ガーランドも南部視察の次なる地――フェムへと出立した。
ザウエル城を発ったのは昼前。昨夜、視察への同行を正式に許されたフリッツは、アブトマットのすぐ背後に馬を並べる。
とはいえ、軍の編成上でもモーゼル家はシグ家の重臣筋。誰もその配置に疑問を抱くことはなかった。
行軍中、アブトマットがフリッツに声をかけることは一度もない。
フリッツもまた、何も語らず、ただ静かに将軍の背中を追い続けた。
無言のまま、長い軍列が砂煙を上げて進む。風は強く、野を渡る空気には乾いた熱が混じっていた。
そして、予定通りの日程で彼らは前線基地――フェムへと到着した。
フェムは、いわゆる平城である。
だが、その名から想像されるような華やかさは一切ない。
元は小さな村落に過ぎなかった土地を、魔王軍の進撃に備えて急造の砦へと改築したのが始まりである。
いまやそこは、南部戦線の司令基地として、かろうじて機能を保っていた。
主要構造は石組み。とはいえ、それも限られた範囲だけ。
城の外郭や壁面の多くは、粘土を焼き固めた脆い煉瓦で造られていた。
この地帯では、石も木材も乏しい。
そのため、建材は王都や後方から苦労して運び込まれたものを継ぎ接ぎで使うしかなかった。
城壁は二重構造。外壁は幅五メートル、深さ三メートルの空堀に囲まれた上で築かれているが、内側はさらに堅牢な石組みの壁が守りを固めている。
もっとも、その内堀は拡張工事のために一部埋め立てられており、防衛面には少なからぬ不安が残っていた。
城門の前で馬を降りたフリッツは、ざらついた煉瓦の一部に手を当てた。
指の腹で押せば、わずかに粉が崩れるほどの脆さ。彼は顔をしかめながら、後ろを振り向いた。
「閣下、この様な脆い城壁で大丈夫なのですか?」
アブトマットは足を止め、わずかに顎を上げてフェムの城を見上げる。
「ここは前線司令部だ。最前線からはまだ距離がある。もしここまで侵攻されたなら、司令部はザウエルまで後退する。フェムでの防衛戦など、最初から想定しておらん」
「ですが……ここを強化することはできないのですか?ザウエルまで下がるのはあまりに後方過ぎる気がします。ここで食い止めれば、再び前線を押し上げるときにも――」
言い終える前に、アブトマットは静かに振り返った。
「フリッツ。基地に最も必要なものは何か、分かるか?」
「防衛力ではありませんか?攻められても敵を討ち返すだけの――それが、基地に最も必要な要素だと考えます!」
胸を張って答えるフリッツに、アブトマットは短く、静かに首を横に振った。
「それは違う。最も重要なのは補給線だ」
その言葉に、フリッツの目がわずかに見開かれる。
「補給が途絶えた前線は、血の通わなくなった肉体が腐れ落ちる様に、前線は機能不全に陥り、崩壊する。逆に、補給が生きていれば、自ずと防衛力も整っていく。前線とはそういうものだ」
アブトマットの語調は決して強くない。だが、その言葉には軍人としての実感が宿っていた。
「前線で千人の兵を維持するには、後方で何十万の人間が動かねばならん。それが現実だ。補給なくして勝利はない」
フリッツは唇を噛みしめて、何も言えなかった。
軍人としての現実は、想像していた以上に非情で、静かだった。
「つまり、ザウエルまで退いて軍を再編し、補充を整えることが目的なのですね」
「そうだ。戦は一度の突撃で終わるものではない。敵前線を突破するには、強大な打撃力と、それを支える太い補給線が要る。フェムでそれは賄えん。ザウエルなら可能だ。……それすら破られたなら、次はゾーン。そして、最終的には王都だ」
最後の一言に、フリッツは声を失う。
だがアブトマットは、あえて続けた。
「……そうはならん。そうはさせぬ。だがな、常に“最悪”を想定しておくのが私の仕事だ」
そして彼は、いつも通りの無表情で肩をすくめた。
「王国には、現状の前線を支えるだけの武力と経済力がある。問題なのは、我々が魔王軍を“倒す”ことができぬという現実だ」
「……勇者の出現まで、というやつですか」
「そうだ。何故、勇者が必要なのか――私も昔から不思議で仕方なかったよ」
魔王の力は強大だと言われるが、その実力を実際に見た者は誰もいない。
だが、対抗するには“それだけの存在”が必要だと、千年の伝承は語り続けてきた。
「仮に、各国が軍を結集したとして――どれほどの兵が集まる?」
「百万は超えるかと」
「甘いな。少なく見積もっても数千万だ。それだけの兵を運用できるノウハウは、我が王国にすらない。兵を前に進めれば進めるほど、補給は痩せる。軍は痩せ、やがて敗れる」
フリッツは拳を握りしめた。理屈は理解できる。だが、歯痒さが残る。
「……では、結局、勇者を待つしかないのですか」
「そういうことになるな。おとぎ話めいているが、いまはそれが最も合理的な選択肢なのだ」
「まさに、御伽噺ですね……」
そうぼやいたフリッツに、アブトマットはわずかに微笑を浮かべた。
「それよりフリッツ。明晩は全前線の主要指揮官が集まっての宴だ。私の副官の下に就いて、準備を手伝え」
「了解しました!……閣下は、他のお仕事が?」
「雑務が山積みでな。宴のことは任せたぞ」
「はいっ!」
嬉しそうに背筋を伸ばし、足早に立ち去っていくフリッツを見送った後。
アブトマットは背を向け、小声で呟いた。
「――首尾は?」
その問いに、すぐ背後から低く答えが返る。
「恙なく。必要なものも、すべて揃いました」
「……よし」
それだけを短く残し、アブトマットは静かに馬へ向かい、再び鞍に跨がった。
西の空はすでに赤く染まりはじめていた。