Ⅰ-20 志願
日が翳る頃、ザウエル城の大広間では、国王陛下を迎えての宴が始まっていた。
重厚な柱と高い天井に囲まれた石造りの空間は、絢爛さには欠けるが、礼節と格式に満ちた設えがなされていた。
大理石の床を照らす燭台の炎は、兵と文官が並ぶ正装の鎧に反射し、揺れる金の波のように宴を照らしている。
列席する者は限られている。
ペッター・モーゼルを筆頭に、南部の各拠点から選ばれた軍司令官、騎士団長、後方支援を担う文官たち。
無骨な者が多く、誰もが沈着な面持ちで杯を傾けていた。
交わされる会話には笑い声も交じるが、その合間にひとつ、ふたつ、戦の匂いが滲む。
それは、ただ酒を酌み交わす場ではないことを雄弁に物語っていた。
その空間の中央に座するのは国王――ガーランド。
彼はじっと、南部の男たちの顔を見渡していた。
視線に鋭さはない。むしろ温かく、深く、そして静かだ。
まるで、剣ではなく水が、目の奥に湛えられているようだった。
王座に就いてからすでに十年。
平穏とは縁遠い治世の中で、彼は「王として」よりも「指揮官として」数多の現場を見てきた。
だからこそ、彼には分かるのだ。
兵が命を懸けるということを。
物資が届かぬだけで、ひとつの砦が滅ぶことを。
前線で果てる者たちの名が、地図にも歴史にも記されぬままに過ぎていくことを。
そしてこの場に集う者たちが、それを知りながらも職務を全うしていることも。
「……諸卿、よくぞこの十年を支えてくれた」
杯を掲げ、王が静かに言う。
誰もが姿勢を正し、深く頭を下げた。
それは忠誠の証であると同時に、重責を負う者たちの誓いのようでもあった。
やがて宴は、戦地の律に倣い、日付が変わる前にお開きとなった。
使用人たちが静かに後片付けを始める中、アブトマットはひとり、城の露台に立っていた。
銀の杯に葡萄酒を注ぎ、夜風にその香を漂わせる。
深く一口。舌に広がる渋みと甘さを、静かに味わった。
王都とは違い、夜の街は早く眠る。
闇に沈んだ屋根のあちこちに、ぽつぽつと灯る明かりが揺れている。
その様はまるで、夜戦の後に残された松明のようだ。
死者の魂を見送るかのように、そこに灯る火には言葉にならぬ祈りがある。
そこへ、控えめな足音が近づいてくる。
砂利が控えめに鳴る程度の、小さな足音だ。
「閣下……」
振り返ると、フリッツが立っていた。
儀礼服のまま、姿勢を正し、胸に手を当てて一礼する。
「どうした?もう“叔父上”とは呼ばぬのか」
からかうような口調だが、声に力はない。
アブトマットはすでに察していた。
だからこそ、杯を口に運ぶ動きもどこか重い。
フリッツは一歩進み、ゆっくりと片膝をつく。
「どうか私を……お連れください」
やはり、来たか。
予想通りの申し出に、アブトマットは長く息を吐いた。
その顔は、哀れみでも拒絶でもなく、ただただ真っ直ぐにフリッツを見ている。
「理由は?」
「戦いたいのです」
「それならば来年には、嫌でも戦場に立つことになるぞ。お前も、そういう年だ」
「それでは足りません。一兵士として、前線で戦いたいのです」
声に濁りはなかった。
少年の青さではあるが、その芯は、焰のように揺らがずに灯っていた。
アブトマットは再び葡萄酒を口に含み、夜の風を感じながら目を細めた。
――わかっていない。
だが、それが若さだ。
志が早く燃え上がるほど、人はその熱にやけどをする。
それでも燃えずにはいられないのが、若者の本能というものなのだろう。
士官と兵士は違う。
兵を率いる者は、兵であってはならない。
個々の命に心を寄せすぎれば、全体を見失う。
命を駒として扱えと言っているのではない。
だが、駒として扱わなければ、全体が崩れる。
戦を“戦い”としてではなく、“現象”として俯瞰する眼差し。
それを持たぬ者に、千人を預けることはできない。
だからこそ、見せねばならぬのだ。
「フリッツ。……今回の視察、付いてくるか」
一拍の沈黙ののち、アブトマットはそう言った。
フリッツの肩が震えた。驚き、そして喜び。
だが、その喜びを言葉にする前に、アブトマットは続けた。
「ただし、条件がある。一、私の命令には絶対に従うこと。二、私の傍を一歩たりとも離れぬこと。三、視察が終わり次第、無傷で城へ戻ること。この三つ――破れば、次はないと思え」
戦わせる気がないことは、言葉の端々に滲んでいた。
だがフリッツは、それでも迷わず頷いた。
「承知致しました。閣下にお供させていただきます!」
その声音は、もはや少年のそれではなかった。
自らの命を懸けて、何かを“見たい”と願う者の声だった。
アブトマットは酒を飲み干し、杯を欄干に置いた。
そして、微かに笑う。
「……せいぜい、目に焼きつけておけ。これが、お前の志す世界だ」
その言葉を噛み締めるように、フリッツは深く頭を下げた。
夜風がふたりの間を抜け、どこか遠くへ吹き去っていった。
皆さんのブクマやリアクションが、次の話を書く力になります。どうぞよろしくお願いします!