Ⅰ-17 相剋
ガーランドが自室へ戻ったのは、もはや夜明けを越えて朝靄の立ち込める時刻だった。
南部視察の出立は朝とされていたが、実際に王城を発つのは正午近くになる予定だ。
それまでは短くとも眠りに就けると踏んでいた。
徹夜明けの鈍い疲労と、薄らいだ眠気を引き連れて、扉の前で欠伸を噛み殺す。
手を掛けた扉が、思ったよりも軽く開いたその瞬間——意識が鋭く研ぎ澄まされた。
そこにいたのは、ツェリスカだった。
夜明けの薄光を浴びながら、静かに微笑んでいた。
薄絹のような深紅のドレスを纏い、背筋を伸ばして佇むその姿は、まさしく王妃の風格そのもの。
だがその微笑には温かみがなく、まるで仮面のように張り付いたものだった。
「朝帰りですか、陛下」
静かな声だった。
しかしその響きは、張り詰めた絃のように感情の底を刺してくる。
ガーランドは咄嗟に腰の剣に手を伸ばしかけたが、自制の中で手を止める。
相手は王妃。何より、この場で剣を抜けば後戻りはできなくなる。
「……何の用だ、こんな朝早くに」
「用というほどのことではありませんわ。ただ、御出立前に一度だけ、お顔を拝しておきたいと思いまして」
「……出立前には、お前の部屋へ行くつもりだった」
「まあ、それはそれは。では、今までは第二王妃のもとに?」
ガーランドは答えず、無言のまま視線を逸らした。
それだけで十分だった。ツェリスカの口角が、わずかに吊り上がる。
「悪いか」
「いいえ、そこは陛下のご自由です。……ただ、子も産めない女に、そこまで執着される理由が私には理解しかねますが」
その一言が、ガーランドの感情を確実に突いた。
「……元を辿れば、貴様の仕業であろうが。ツェリスカ」
低く、押し殺した怒り。
それでも彼女は眉一つ動かさず、むしろ楽しむような声色で返してきた。
「何のことかしら。私は何もしておりませんわ。ただ、私の侍女が、私のことを案じて……少しばかり行き過ぎただけ」
吐き捨てたくなるような言い訳だ。
しかし、それが通ってしまうのがこの国の現実であり、ガーランドという王の十字架でもあった。
侍女が王妃の指示もなく毒を盛るはずがない。誰よりも知っている。
だが証拠がない。王妃を裁くには、あまりにも足りない。
「……不愉快だ。下がれ」
「ええ、そのつもりです。——どうか、お気をつけて。無事のご帰還を、心よりお祈りしております」
ツェリスカは優雅に一礼し、その場を離れようとする。
その後ろ姿を、ガーランドは見つめたまま、剣の柄に手をかける。
——今ここで、背後から突き立ててしまえば、すべてが終わる。
ニニオをあんな目に遭わせた女。王妃の仮面をかぶった毒の巣窟。
王という立場でなければ、十度は命を奪っていた。
だが、殺せない。
殺させてくれない。
ツェリスカの背後には、王国建国以来の筆頭家臣であるファイファー家が控えている。
兵力も金も、人脈もある。彼女を斬れば、王国内は大きく揺れるだろう。
南部の情勢も今以上に危うくなる。ヘンリーの立場にも傷がつく。
王は、王であるがゆえに——何もできない。
扉が静かに閉じられ、ガーランドはそこに取り残された。
ただ一人、静まり返る自室の中で、剣の柄を強く握りしめたまま、動けずにいた。
怒りでも悲しみでもない。
それは、焼けただれるような無力感だった。
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