Ⅰ-16 密夜
珍しく笑い声が廊下に漏れていた。
王宮の片隅、第二王妃ニニオの私室から。
この部屋に響く声の主は、国王ガーランドと大将軍アブトマット。
かつて子供のように王宮を駆け回っていた三人は、葡萄酒を傾けながら旧交を温めていた。
「悪戯を思いつくのはいつもガーランドでしたわ。兄さんと私を巻き込んで」
「その癖、失敗するのも決まってガーランドだった」
「そうそう」
「だからやめてくれって……」
苦笑するガーランドに、ニニオとアブトマットは朗らかに笑う。
この空間には、王でも王妃でも大将軍でもない、幼馴染の空気が残っていた。
かつて三人は、衛兵の目をかいくぐり、宝物庫の屋根にまでよじ登った。
捕まって叱られるのはいつもガーランドで、それを見てニニオが泣き、アブトマットが言い訳を作った。
「それより、調子はどうだ? ニニオ」
「変わりありませんわ、ガーランド。むしろ、そちらこそ。明日は御出立と聞いています」
「だからこそ、会いに来たんだ。第二王妃の顔を見に来るのも、大切な“公務”だろ?」
ふざけたように笑うガーランドに、ニニオとアブトマットは視線を交わす。
その笑顔が痛々しくもあった。
第一王妃ツェリスカとの不仲は、今や公然の事実。
そんな状況でニニオの元を訪れるとなれば、ツェリスカがどう思うかは想像に難くない。
彼女の愛情は既に失われているが――権力への執着は今も健在だ。
そして、その執着が幾人もの命を奪ってきた。
第三、第四王妃が“病没”とされたその裏で、諜報部が突き止めた毒殺の痕跡。
毒を仕込ませた侍女や給仕の証言。
そして何より――今、目の前にいるニニオ。
ニニオは生まれつき病弱とされていたが、それは偽りにすぎない。
シグ家は代々武家の家系、身体が弱いはずがない。
かつては王宮を縦横無尽に駆け回っていた彼女が、今では床に臥すのみ。
神経毒による損傷。
命こそ助かったものの、両脚は麻痺し、内臓の機能も低下。
声にも、かすかな疲労が滲む。
ガーランドはそれを激しく悔やみ、ツェリスカの側仕えの大半を処断した。
だが、彼女本人は裁けなかった。
既に王子ヘンリーが生まれていたがゆえに、処刑すれば国家を揺るがすからだ。
一方アブトマットは、自らの手で『影』を強化した。
――影という組織自体は、彼の父モンドラゴンによって創設されていた。
モンドラゴンは大将軍就任の折、敵地での優位性確保と戦略的先制のため、軍属の諜報部隊として影を編成した。
戦場における魔王軍の裏をかき、兵站を断ち、指揮系統を混乱させる“影の軍勢”は、王国に数多の勝利をもたらしていた。
だが王宮においては、当初ほとんど活動していなかった。
ニニオ毒殺未遂の件を契機に、アブトマットがその一部を“宮廷監視”に特化させたのだ。
それ以降、ニニオの私室は影の目が張り巡らされる聖域となった。
「私の耳にも、暗殺の噂は届いています。……本当に、大丈夫なの?」
「心配ないさ。噂は王宮の中だけだ。むしろ外の方が平穏かもしれん」
「それに、私も同行します」
アブトマットが言葉を継ぎ、ガーランドはニニオを見つめた。
「けれど、私は……お前の方が心配だ」
「私は兄の部下に護られておりますし、もう外に出ることもありません。こんな身体の女を殺して、誰が得をするのかしら」
「そういう言い方はやめろ。……ニニオは、私にとって大切な存在だ」
静かに、そっと。
ガーランドはニニオを抱き締めた。
その動作には、一国の王としての気負いはなかった。
その後も、二人はしばし談笑を続けた。
アブトマットは席を立ち、扉へ向かう。
「陛下に粗相のないようにな、ニニオ」
「あら、兄上はまだお仕事?」
「どこぞの王が“遊山”に出かけるからな。最終確認が残っていてね」
「ふふっ、陛下も大変ですわね」
ガーランドが眉をしかめる。
「お前たち兄妹は、いつも私に遠慮がないな……」
「それがお望みでしたでしょう、陛下?」
「わざとらしい口調だな、アブトマット。さっさと行け」
「それでは失礼致します。ガーランド国王陛下、ニニオ第二王妃」
深々と一礼し、アブトマットは部屋を出ていった。
†
「閣下」
廊下の影から、黒衣の男が姿を現す。
「蛇が動いております。通常より活発です」
「ここへ近づいているか?」
「いえ。いつも通り、陛下を狙う動きはありません。むしろ、王宮の周縁部ばかり」
「……ならばよい。見つけ次第、追い払え。手加減はいらん」
「了解」
一礼し、男が下がる。
アブトマットはしばし立ち止まり、扉の方を振り返った。
かすかに漏れ聞こえる声は、もう笑ってはいなかった。
「……しばらく顔を見られなくなるとなれば、抱き締めておきたくもなる」
「……?」
「いや、独り言だ。第二王妃は、必ず我らが守る。命をかけてもな」
「はい」
その言葉に嘘はなかった。
アブトマットの胸にあるのは、兄としての矜持――
そして、まだ口にすべきでない“計画”の輪郭だった。