Ⅰ-15 幽策
王宮が沈黙している夜ほど、動いているものは多い。
光が届かぬ場所に潜り込み、呼吸すら消して歩く者たち。
――“蛇”と“影”。
それはもはや諜報という言葉では足りない、国家の神経そのものだ。
「三組、王宮南棟に侵入。第一隊が影と会敵。即時撤退」
報告の声が、密室の空気に響いた。
西塔の裏階にある、王宮構造図にも載らぬ部屋。ここが蛇の巣だ。
アナは目を閉じた。
自らの鼓動を数えるように、静かに間を置いた後、ゆっくり口を開いた。
「戦闘は?」
「接触後、すぐに抜刀。即座に殺しに来ました」
「……そう」
静かな返答とは裏腹に、アナの思考は渦を巻いていた。
『影』――アブトマット直属の諜報部隊。
彼らも今、表向きには「国王暗殺の首謀者」を探している。
ならば、会敵時にまず相手の目的を探ろうとするはずだ。
少なくとも、蛇が“何を知っているか”を確認する動きがあってしかるべき。
だが――実際には、問答無用の殺意。
(……違和感、しかない)
影の動きは、まるで“真実を知られたくない”者のそれだ。
もしくは――“敵の正体を知っている”者の、それ。
そして、アナの頭に浮かぶ唯一の可能性。
『カルカノが首謀者である』と、影は信じているのかもしれない――という仮説。
その瞬間、アナの胸に微かな痛みが走った。
自分でも信じられないほど、反射的にそれを否定していた。
カルカノがそんなことをするはずがない。
国の秩序を守る光であり、王の精神的支柱であり、
なにより――アナがその身を捧げると誓った、絶対の主である。
誰が疑おうと、アナは信じている。
疑ってはならないと、信じている。
だがそれでも、影の“行動”が、まるでカルカノを敵と断じているように見えて仕方がなかった。
部下が口を挟む。
「我々に探りを入れることすらせず、即座に殺しに来る。……仮に彼らがカルカノ様を首謀者と見なしているなら――我々はその手足と映っている可能性も」
「その推測は慎重に扱って」
アナはきっぱり言い切った。
その声音には、自らの動揺を封じ込める硬さがあった。
「影が何を信じて動いているかは分からない。だが、カルカノ様がこのような手段を取るとは思えない。私が――そう断言する」
静かに、だが確かな言葉。
それは命令ではなかった。信仰に近かった。
だが、その『信仰』を揺るがす現実も、確かにそこにある。
アナは地図の中央――王の居室を囲む護衛線に指を置いた。
「……報告。陛下が第二王妃ニニオ殿下を訪問。同行者はアブトマット」
その情報もまた、心に鈍い棘を残す。
なぜ、この出立前夜に。
なぜ、王と王妃と大将軍が、夜更けに火を灯して語らうのか。
「仲が良いから、というには出来すぎている」
王とニニオの関係は穏やかだとされている。
だが子はない。病弱だから、というのが表向き。
だが、第一王妃ツェリスカとの間には子がある。
噂の域を出ない話が積み重なり、やがて重石となって思考を鈍らせる。
「王妃の座に、なぜニニオ様ではなくツェリスカが据えられたのか……」
「それを探ること自体、蛇の本分を逸する可能性もあります」
「分かってる。分かっているけれど……、あまりに整いすぎている。疑うなという方が、難しい」
アナはふと、遠い目をした。
風が一筋、隙間から入ってくる。冷たいが、醒めた。
「影は殺しに来る。私たちが“真実に近づいた”と、彼らが判断しているのなら――」
その先は言わなかった。
“真実”が誰にとっての“毒”なのか。
それをまだ、アナ自身が判断できていなかった。
カルカノは、違う。
だが影の動きには、確かに“確信”がある。
その狭間で、彼女の心は揺れていた。
「……今夜以降も、潜入は続ける。だが、影と接触した場合は避けろ。戦闘になれば命がいくつあっても足りない」
「了解」
指令を出しながらも、アナの胸中は晴れなかった。
もし影が正しかったとしたら。
もし蛇が、意図せず“守るべき者”に牙を向けていたとしたら――
(それでも、私は……)
その思いは言葉にならなかった。
だが、彼女の眼差しには揺るぎがなかった。
カルカノだけは、裏切らない。
そうでなければ、私はここにいる意味がない。
この夜、静かに時が過ぎていく。
戦いはまだ始まっていない。
だが、確実に“何か”が動いている――それだけは、誰よりも早くアナが察していた。