Ⅰ-13 掌謀
王城西棟・軍部私邸の最上階。
分厚い扉を閉じたアブトマットは、部屋の奥へと一歩進み、暗がりに向かって低く言った。
「――状況は?」
応える声は、すぐそこにあった。
「……やや複雑化しております」
壁の影がわずかに揺れたかと思うと、黒ずくめの人影が床の境界ににじみ出た。
音も気配もない。まるで、空間そのものが抜け出してきたようだった。
それがアブトマット直属の諜報部隊――『影』。
名も持たぬ、持つことすら許されぬ、影の中の影。
今、報告に現れたこの影もまた、過去も名も捨てた者の一人である。
アブトマットは目を細めながら言う。
「複雑とは、誰が動いた」
「従来通り、蛇が独自に動いています。我々の者も流れは把握しています」
「想定の範囲内だ。……問題は?」
「第三の動きです。王妃と国王陛下の乳母、その双方が独立して情報網を動かしております。内容は、首謀者の特定と暗殺計画の真偽の裏取り。いずれも王宮内での接触先が増えつつあります」
「ほう……」
アブトマットは窓際にゆっくりと歩み、硝子越しに夜の王都を見下ろした。
真っ暗な中に、時折揺らめく街灯と、遠くを巡回する衛兵の松明が点となって浮かぶ。
「ガーランドの乳母は、おそらく王命で動いている。彼女はガーランドにとって唯一、王政以前から残る家族だ」
「王妃は……?」
「……あれは自発的なものだろう。あの夫婦に、互いを庇って動くような絆はない」
アブトマットの声音に、わずかに棘が混じった。
「ガーランドが死ねば、ツェリスカの立場など風前の灯だ。ヘンリーが王位を継承したところで、未成年では実権は持てん」
「摂政が必要かと」
「そうだ。そして摂政に選ばれるのは、最古三家か、せいぜい勲三家。ファイファー家など所詮はバーテルバーグ家の配下でしかない。到底、器ではない」
「となれば、王妃は早々に自らの生存と政治的庇護を確保するべく動いたと」
「そういうことだ。首謀者を探って後ろ盾にするか、国外への逃亡路を確保するか――いずれにしても、王の死後を見据えての動きだ」
アブトマットは短く息を吐いた。
王妃ツェリスカ――彼にとって、それはどうにも受け入れ難い存在だった。
表向きには、冷静沈着な王妃に敬意を示してきた。
だが内心では、常に疑念と反発を抱えていた。
なぜ、彼女だったのか。
事故死とされる前任の許嫁の後、唐突に正妃の座へと滑り込んだファイファー家の娘。
格、実績、背景、全てにおいて不足なく、王と旧知の関係にあったはずの妹――二ニオを差し置いて。
何の説明もないまま、周囲の空気だけで決定されたかのような政略結婚。
最古三家の者として、それを飲み込むしかなかった。
だが、納得したことは一度もない。
王妃としての彼女の立ち居振る舞いもまた、アブトマットの目には不当な居座りにしか映らなかった。
しかし――それを表に出すことは一切ない。
出せば、周囲は歪む。軍も誤る。
だから彼は、その感情を研磨された刃のように胸中へと沈めておく。
「弄んでやれ」
短い命令に、“影”が膝をついた。
「対象は両方で?」
「ああ。ガーランドの乳母には、蛇が裏切りを画策しているという噂を流せ。王妃には、乳母がガーランドの死を望んでいると囁け。手段は任せるが、両者の間に疑念を植えろ」
「承知いたしました」
「火を点けるだけでいい。あとは勝手に燃える」
その言葉に、影は無言で頷き、懐から小さな羊皮紙の巻物を差し出した。
アブトマットがそれを受け取ると、彼はもうそこにいなかった。
姿も、気配も、まるで最初から存在していなかったかのように。
アブトマットは巻物の封を切ると、淡く灯るロウソクの火で文字をなぞるように読み進めた。
数行も読まぬうちに、彼の口元が僅かに緩んだ。
「……そう来たか」
紙片の端を火にかざし、炎が舌のように羊皮紙を喰う。
燃え尽きた灰を灰皿に落としながら、彼は椅子に腰を下ろした。
椅子は一つしかない。背後には誰もいない。
この部屋は、誰も信用しない男のために用意された、完全な静寂の空間だった。
ツェリスカ、乳母、蛇。
そしてそれを取り巻くあらゆる者たち。
皆、掌の中で転がすべき駒でしかない。
善も悪も忠誠も憎悪も、己が勝つために利用するだけの要素に過ぎない。
戦は始まっている。まだ誰も気づいていないが、
水面下ではすでに剣が交わり、命が動いている。
(――だが、勝つのは私だ)
誰にも届かぬ思考を抱いたまま、アブトマットはただ静かに目を閉じた。
火はわずかに揺れ、窓の外では王都の灯がまたひとつ、風に吹き消されていた。
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